3.革命の見せしめになりかける
ケイは慌てて階段を駆け上がり俺は後ろをついていく。鉄製の扉を跳ね上げて飛び出し、ケイが止まった。
大階段の陰から見えたのは、あの巨大な扉が消えた玄関といくつかの人影だった。彼らは赤い覆面と同じ色のローブで全身を覆い隠している。
「ここへは来るなと言ったのに……」
ケイが押し殺した声で叫ぶ。抱えた資料をかばうように身をよじり警戒をあらわにしている。
覆面の中に一人目立つ存在がある。袋状の覆面の下から背中側に伸びる黒い髪は緩くまとめられていた。なにより目立つのはその服装で、素肌に着ているのは緑色の短いタンクトップで、その上に羽織っている大きなジャケットは表も裏地も赤く、下半身は袖を何度も折り曲げた赤いズボンに、編み上げの黒いヒールブーツを履いていた。細い体格に対して張り出した乳房は不釣り合いに見えた。腰に当てた手は革の手袋に包まれている。
ファンタジー世界に軍人のようなものが闖入して来た光景に一瞬虚を突かれたが、その妙な存在は思った以上に甲高い声を発した。
「お迎えに上がりました。アドバイザー殿」
気が付けばすぐ背後に覆面の者が数人近付いていた。武器を持っている気配はないが、玄関扉は吹き飛ばされた衝撃で大階段を急斜面の坂にしていた。ケイも余計なことはするなと目配せしてくる。抵抗は得策ではなさそうだ。
ケイをアドバイザーと呼ぶということは、これが革命団か。名前は忘れたがこんな過激な行動をする奴らだったとは意外だった。こんな調子で活動していれば、そもそも計画した時点で思考を読まれて、あの女騎士が率いる騎士団に捕まっていそうなものだが。
奴らの覆面を改めて観察する。両眼の幅に空いた細い穴は闇に閉ざされ眼は見えない。口の位置には小さな通気口と絡み合う一筆書きの文様が踊り、その両端の線がこめかみへと続いていた。その文様に魔術の臭気を感じた。
「攻撃魔術を使ったわね」
ケイの表情が険しくなる。二十年前までは魔物が居たのだから、当然それらを殺す術も発展していたはずだった。
「すぐに騎士団が来るわよ。こんな派手にやらかして」
「問題ありません」
革命団のリーダーらしきそれが不敵に笑った時、中心街の方から光を反射する何かが見えた。それは異様な速度でこちらへと向かって来ている。甲冑の列を運ぶのは馬のいない車だ。薄い鉄板は磨かれた銀色で、動力らしきものはどこにも見えないのに独りでに走っている。魔術によるものだろうか。
革命団のリーダーは振り返りもせず右手を軽く上げ、指を弾いた。
小気味いい音は響かず、地下室で聞いたのとは違う轟音がそれに代わった。
石畳がめくれ上がった。騎士達の中心から田園を一部巻き込んで巨大な竜巻になる。そのほとんどを構成するのは雲ではなく、土の塊だった。銀色の甲冑も車輪も取りこまれすぐに見えなくなる。質量を伴った竜巻は、意志を持つように田園の中へ逃げた騎士隊を残らず取りこんでいった。
その中で何が起こっているのかは容易に想像できた。
凄惨な攻撃魔術の威力に意識を奪われていると扉を蹴破って騎士達が侵入して来た。別動隊がいたか。剣はすでに抜かれていて、すぐに革命団のうち一人が切伏せられた。
この騒ぎに乗じて逃げるかと考えたがケイが動かない。どうするつもりだ。
「そこの来訪者!」
高い声が叫ぶ。柄を取られた騎士と抵抗する覆面が一組、俺のすぐ近くに迫って来ていたが、ぶつかる寸前にギュルッという音がして団子状態のまま捻られた。一瞬で男二人分の質量は雑巾のように絞られローブと甲冑を巻き込んだ肉が裂ける。血は赤いつむじ風のようになって上へと吸い上げられていく。
その間も術師であるリーダーは動かず、上げていた右手首を少し動かしただけだった。
「動かないほうがいいですよ」
他の騎士も一人また一人と赤い肉塊へと変わりつつあった。時には仲間であるはずの赤いローブを巻き込んでも攻撃の手は終わらなかった。最後に残った騎士がキッチンへ逃げようとして入口に踏み込む前に肉塊となった。ケイは目を硬く瞑り惨劇が終わる時を待っていた。
床は汚されなかった。空中の赤い塊は流動しながら茶色へ変色しバラバラと風化した欠片を散らしながら、一本の柱になって玄関の中心に降り立った。
肉塊でできた七本の柱が立った。異常な魔術とそれを駆使する残忍さがなければ到底表れない、禍々しいオブジェがこの空間に現れた。
高い声はなおも慇懃に提案した。
「参りましょうか」
俺とケイはようやく全身にかぶせられていた袋を取られた。
連行された道程はわからないが、屋敷からはそう遠くないはずだ。縄での拘束はなかったが、袋をかぶせられている間は不思議と体が動かなくなった。暗いアジトは地下室だろうか。
目の前にはあの軍服のリーダーが座っていた。赤い布が掛かった箱を椅子の代わりにして、膝に手を突き大きく脚を開いていた。
その後ろの壁には巨大な旗布が張られている。赤の地色に、黒い円に重ねて白の円が描かれ、色が逆なら日食の図案にも見える。二つの巨大な円の中心にはそれぞれ文字が躍っていた。
革命団のリーダーは覆面を取っていた。ほどかれた艶のある黒髪は背中の半ばまでを隠しているだろう。前髪は真っ直ぐに切りそろえられ、その口は冷酷な微笑に歪んでいる。左目は革製の眼帯に塞がれているが、その顔はまだ幼さを残す十五才くらいの少女だった。
「それでは、第五十二回作戦会議を始めます」
リーダーの少女は何も言わず、その隣に立つ覆面の男が号令を発した。背中に回していた右手を上げ「発言の際は挙手を」と言い終わる前に、小さな腕が上がりそれを遮った。男が手のひらを上にしてそちらを指す。
「急に襲撃とはどういうつもり」
魔術師の赤毛は、この赤い空間とは違う光を放っているように見えた。ケイの質問に答えたのはリーダーだった。
「我々には時間がないのです。革命がなされるまでの間に自由を踏みにじられる民衆は増え続ける。我々はいつでも急いているべきです」
朗々とした少女の声が終わると拍手が起こった。またケイは挙手した。拍手が鳴りやんでから、ようやく司会が指した。
ケイの苛立ちが伝わる。
「この研究材料が来たことと、なにか関係があるの」
リーダーはゆっくりと瞬きをして、答えた。
「彼は『死にたい』という自由を踏みにじられてしまったのでしょう」
じとりと冷めた視線が俺に向かう。同情を示す言葉とは裏腹に、どこか人間的ではない冷たさ。
俺は女騎士の顔を思い出したが、この少女の目はあの乾いた冷酷さとは違っていた。
「はじめてお目にかかります『来訪者』よ。私の名はレディ・ティナー。この革命団ギナミを取り仕切っております」
そう名乗ると深く呼吸をし、俺に顔を向けたまま語り始めた。
「イシスが自死を禁じたのは二年前とつい最近。同じ思想を持つ者が民衆においても増え始めたので、そんな荒唐無稽な制約を書き加えなければならなくなったのです」
パラパラと拍手が起こる。リーダーは右手のひらを左右に向けて団員の拍手をやめさせるとさらに続けた。
「自ら命を絶つのは唯一最後の逃避。最後の手段なのです。それを考えることまで規制しなくてはならなくなった時点で、この国が破綻状態にあるという証明にほかならないのでは? 今こそ革命を成しとげ、イシスから世界へ、すべての混迷を断ち切らんことを」
少女の片目は暗く、硬い、黒曜の光を宿していた。
ケイは気圧された様子はなくもう一度挙手する。拍手が止む前に今度は強い調子で叫んだ。
「この人になにをさせたいの」
「彼に『来訪者』として演説を打ってもらいます」
司会をしていた男が答えた。奴が副幹部の位置にあたるのか。その手にはいつの間にか書類の束があり読み上げ始めた。
「開始時刻は明日の二つ目の鐘。広場で騎士団による死刑囚の処刑が始まる前に、思想防御を持つ者と彼が乗り込みます。無警告で斬られそうになったら先に排除してもかまわないかと。演説内容はこちらで考えますが『死にたくない者が殺され、死にたい者が強引に生かされている』という矛盾と自由の主張が中心になるでしょう。演説が済んだら速やかに彼にはわかりやすい形で自死していただき、死亡を確認したら残った者は撤退してください。死刑囚の解放は現場判断になります。よろしいですか」
書類を読み上げていた覆面の顔がこちらを向いていた。
「よろしいに決まっていますよね。何よりも望んでいた死を堂々と、大勢の記憶に残りながら達成できるのですから」
少女の声が響いた。それは興奮に上擦っている。拍手がまた鳴り響いた。ケイは苦い顔をして俺を見ている。
そうだな。
俺はそこで初めて右手を上げた。
「どうぞ」
拍手を遮って、今度はリーダー直々に発言を促された。
「よろしくはない。いくつか質問させてくれ」
息を吸うと埃と黴を含んだ臭気が鼻腔を満たした。
「まず、俺は記憶に残りたいとは思わない。できれば誰にも知られずにさっさと死にたいんだが、そこは考慮してくれないだろうな。ただの要望だ。本題は、その程度で人に強烈な記憶は残らない、と思う。おそらくこのイシスか、ここでは報道規制もひどいはずだろう。ジャーナリストに手回しをしているか? そもそも、ニュースの媒体はなにがある?」
リーダーは表情を変えない。だが、周囲の覆面達がざわざわと顔を見合わせ始めた。
「広場にどれだけ人が集まるか分からんが、たとえば、お前たちがさっさと終わってほしい行事の最中いきなり変な集団が現れて偉そうに喚いたらどう思う。しかもそいつらが、自分の日常を守っている警察、じゃなかった、騎士とかいう存在を殺した上でだ。話を聞く気になるか? 怪しい集団の長い演説に最後まで耳を傾ける奴など珍しいし、書き記す者がいなければ覚えていられない。口伝というか、お前たちの場合は読心か、それのみに頼るのがどれだけ不確かなことか……あとは、そうだ、公開処刑が日常的に行われているなら、俺が死ぬ程度の刺激には慣れてしまっているんじゃないか。そもそもパフォーマンスに頼ること自体がアレだがな」
ある世界では演説が全く聞かれずうやむやの内に割腹した男もいるくらいだ。と続けたが、当たり前ながら奴らはピンと来ない様子だった。
「それに破綻していると言ったが、お前たちが生きている間に飢饉はあったか? あるいは人員不足によって荒れた農地はないか? 一次産業で成り立っているという事は、ここで一番強い力を持ってるのは農民のはずだろう。普段イシスの国民として住んでいるならわかるはずだ」
覆面達はわかりやすく慄いて、互いに確認を始める。戦闘員はほぼ全員が素手だったので、その白さで農民でないことは分かった。使う語調からしてもおおかた労働も知らない学生か。予想通り、というかそれ以上で背筋が凍える気持ちだ。
「どうしてそうなっていないかと言えば、国を回せる数の民間人が不満を持っていないからだ。多少の不満はあっても我慢できる程度だ。変な気を起こさなければそれなりの生活ができるんだろうさ。それを『洗脳』と呼ぶのなら勝手にすればいいが、革命するというなら国家機関を超える洗脳方法を考えなければならないぞ。独裁だろうと監視されていようと、衣食住が足りればなんとかなるものだからな。広場に集まるのは体制に順応できた奴らだろう」
途端に静かになった。俯いてしまった覆面もいる。長くなってしまったが、俺は『質問』の最後を締めくくった。
「で、そうした国に従って真面目に生きる大多数を、お前たちの様な世間知らずがどうやって説得するのか。それが俺は聴きたい」
静寂が続く。
リーダーの表情は変わらず、冷酷な瞳は俺を見据えているだけだった。
もしかしたら即座にあの残酷な魔術によって俺の体は切り刻まれるかもしれない。それもいい。期待は捨てられ一瞬の内に死ねるのだ。ケイは不安だろうが、彼女の地位と能力があれば奴らの私刑に会う道理はないはずだ。無事なら、今日会ったばかりの俺などすぐに忘れてしまうだろう。
リーダーは無表情のまま、隣の副幹部のほうを向き、そして反対を向き、ゆっくりと、正面に顔を戻した。
「どうしよう」
眉が傾き、今にも泣きだしそうになっていたので俺は拍子抜けしてしまった。
「えっ、殺したら駄目なんだよね。じゃあさじゃあさ、バンバン殺しちゃったじゃん。私たちの意見ってもう聞かれないかんじかな。革命とかできなくない?」
突然女子中学生のような、ある意味で年相応の口調になったリーダーはおろおろと周りに意見を聞いて回った。覆面達はいやーとかはっきりしない返事をして腕組みをしたり頭を左右にひねったりしている。
「えーっと、じゃあ、はい! あの、なにか書くもの持ってきて!」
なんだこれは。
「扇動は諦めて、とりあえず国王を倒して主導権握れば」
「国民の反感を買ってすぐ分裂するだろうな」
「周りの国に呼びかけてどうにかしてもらう案は」
「だから後半をしっかり考えろお前は。どうにかってなんだ」
会議が第二段階に進んだときに大テーブルが運ばれたのだが、頭の痛い討論をしている間にプリミティブな軽食がひとつまたひとつと持ち寄られ、テーブル全体を埋め尽くした。わかりやすく言えば田舎の子供のおやつのような、野菜と、餅のようなものと、雑穀のにぎり飯。素焼きの細いコップに入っているのは発酵した葉を煎じた赤い茶だ。最初に敷かれた作戦地図はすでにクロスの代わりになっていた。
怪しいアジトは牧歌的な香りに満ち、それのせいか殺伐としていた団員達もなぜか砕けた態度に変わっている。
思い出したくもない光景を思い出してしまう。
「皆、まあ多分大学生くらいだろ。大学生と言って通じるかわからんが。戦術参謀は誰がやってるんだ」
おずおずと自身を指さしたのは、先ほどの『どうにか』で全てをどうにかしようとしていた奴だ。
「マジかよ……」
俺は思わず頭を抱える。
たったの九十年で、魔物との生きるか死ぬかの日々を戦っていた奴らが、こんなに平和ボケするのか……。
「いや、ザコの魔物に知性とかないですから」
覆面の一人がぽっと発言する。喋りながらなぜか右手をキツネの形にしてパクパクさせていた。
「この辺のって居ても野犬程度だったとかおじいちゃんから聞いてます。遠くに行くともっと強いって聞いたけど、犬くらいだったら、ねえ」
「『火球が起こせたら楽勝』って言うよね、あの世代」
覆面達が口をそろえて「あるあるー」と頷く。
俺は望みをかけて質問する。
「魔王は、知性があっただろう。それはもう恐ろしい戦争と策略を仕掛けたはずだ」
「いやあそれが、教科書の魔王軍と勇者の戦いもさ、結局どれも『魔王は強大な力に酔っていて油断しました』からの『勇者がすごく強かったので勝ちました』だよね」
「どれ開いても勇者スゲェしか言えないもん。なにを参考にすりゃいいんだっての」
「そりゃあもちろん」
『レベルを上げて物理で殴れ!』
狭い革命団のアジトは学生たちの爆笑に包まれる。頭がくらくらする。
「国同士の争いは、いや、この際子供の頃ケンカしたら、どう治めたか程度でも言ってくれ。人心をどうにかする知識は蓄えられてるだろ」
『どうにか』の口癖が移ってしまった。
奴らはひそひそと相談をはじめる。遠慮がちに一番端に座っていた覆面が手を上げた。
「あのー……、そういうのって帝王学だから習わないし。魔術学校ってどちらかというとワンマン実力主義で」
「あっ馬鹿」
口を滑らせた者は両手で口の穴を塞ぎ、周りが寄ってたかってそいつを隠す。奴らの詳細な所属がわかり俺はもう一度推測を巡らせる。
階級と家柄による学力の区分けが悲劇を招いてしまったわけか。象牙の塔に籠っているうちに、なんとなく世間への不安を破壊衝動に転換した奴らの集まりだ。それも仕方ないのかもしれない。
王権制で、王室がすべて取り仕切ってしまっているなら何も知るすべはない。
「いいえ、民主制よ。一応」
それまで傍観していたケイが発言した。
「正確には共和国だし。でもベースが家柄主義だからそういう発想がないのよね。『犬に亡霊、ケルベロスに羊』だし」
もがもがと咀嚼音交じりに呟いたのは諺だろうか。ケイはふかしイモを一口飲み込み、もう片方の手に持っていたコップの茶をすする。
「魔術は特に生まれ持った体質が重要だから、その他の才能も血筋って思い込んでるのが多いし」
「えっ、違うんですか!?」
それほど衝撃だったのか、幾人かが身を乗り出してケイのそばに集まる。
たびたび当然のように思考を読まれて答えられるが、これはこれで話が早く進む。それは俺が何も失うものがなく相手を逆上させようと関係ないからそう思うだけで、日常を生きる者たちにとっては不便な時もあるのだろうか。
だが今は、もうなにかを考える気力も尽き果ててしまった。俺は自分の心を正直に呟く。
「どうすればいいんだ……」
「異世界史の授業でもしたら?」
彼らの質問の波を割って届いたケイの返答は、冗談に聞こえなかった。
「協会付属も選択で戦史は取れるのよ? でも資料がほとんどないってことは、つまりそういうことよね。虫食いの教科書が全てなわけないって私たちも分かってるんだけど、調べる取っ掛かりがないんだから」
「反乱抑止のためか」
「教えてあげるべきだと思うんだけどね。無軌道な子達が出るくらいならさ」
ケイは顔を俯かせる。
まともな史学が残っているならもう少しこいつらの思考もまともなはずだ。そう思いたい。
俺は深呼吸し、手を軽く叩く。離れつつあった彼らの興味をこちらに向かせようと試みた。
誰一人として振り返らない。
俺はテーブルを叩いた。思った以上に大きな音がして積載物が跳ねる。今度は全員がこちらを向いた。
「俺も歴史の授業は大嫌いだった。そもそも全てが嫌いだったんだが。要点だけ言う。力による革命は、成し遂げても、必ずまた違う力によって覆される。これは俺が俺の世界で聞いた『革命』という行為に対する感想だ」
人間とは楽な生活をしたがるし、一番楽なのは慣れた生活だ。だから、全体の意識を変えなければ同じことだ。
「多分お前達の活動は最初の失敗として記録に残る。だが無駄ではない。国内から馬鹿を何度も排出するわけには行かないからな、王も緩和策を考えるはずだ」
テーブルの一辺で大人しく座っていたリーダーが立ち上がった。恐ろしい形相で両手はわなわなと震えている。
いよいよ俺を殺す気になったか。
彼女が背後の旗に突進した。旗布が沈む。どうやら隣部屋に続く通路があったらしく、彼女の姿は完全に旗布の向こう側に飲み込まれてしまった。
「じいじぃいいいい」
涙交じりの甲高い声が響く。
突然のことに唖然としてしまったが、周囲はまたかとでも言うように、ケイまでもがやれやれと首を横に振っている。
「あまり虐めないでよ。ティナは器が小さいんだから」
責めるような目で俺を見る。
なぜかそうしなくてはいけない気がして、革命団のリーダー……ティナの逃げ込んだ部屋へと入っていった。
小部屋は赤い光に照らされていた。ケイの屋敷で見た色よりも、紫がかったワイン色だ。
そして、おびただしい数の書物に囲まれていた。岩を彫刻した本棚は円形の壁を埋め尽くしている。本のどれ一つとして、背の傷んでいないものはなく、埃も被っていないのが、感心するを通り越して異常な感覚を与える。
寝椅子の上に乗る何かにティナが顔をうずめてすすり泣いている。それを人間だと判断するには、わずかな時間がかかった。
口を覆う長いヒゲは黒いが、九十近い齢に見える。漆黒のローブに身を包み、顔には深い皺が無数に刻まれ、長い眉毛が両目を隠している。禿頭の額には円形の印があった。黒い三日月に、白斑がかぶさる。
寝椅子に横たわる老人はその細い手を上げ、ティナの頭に置いた。
「レディ・フラガ」
後ろからケイの声がした。旗布をめくり部屋に入って来る所だった。
「見立ての通り百歳の大老よ。ギナミの創始者。とりあえず孫に謝りなさいって言ってるわ」
レディが家名か。下の名が個人名になる文明は比較的少ないが、そこまで珍しいわけではない。
俺は頭を撫でられている彼女に呼びかけようとして、迷いながらも、ケイと同じ愛称を使うことにした。
「ティナ、すまなかった。お前たちが間違っていると言いたかった訳じゃない」
ティナは頭を上げる。振り返った顔は涙で濡れていたが、依然として不服そうだった。
「浅はかだと言いたかった」
凶暴な猫が威嚇するかのような表情に変じたが、またすぐ祖父の胸にその顔を隠してしまった。
ケイが脇腹をこづいてくる。
「ちょっと、フラガはあれでも名誉教員なんだから。犯罪者でもあるけど」
ケイはさらっと言ったが、つまり地位はかなり高いはずだ。そんな男が義憤に燃えて革命を行おうとした。俺が感じた以上にこの国は腐敗しているのだろうか。
俺は今度こそ頭を下げて詫びた。
それで納得したのかわからないが、老魔術師は孫の頭を撫でていた手をおろした。
老人の思考を翻訳してケイが言葉をつむぐ。
「アキ。あなたは世界を救うそうよ」
嬉しくない予言だ。
ティナはようやく泣きやみ、どうにか姿勢を正して威厳を取り戻そうとした。あんな姿を見せた後では無駄な努力だが。彼女は俺の顔を見て吐き捨てるように言った。
「あなたがじい……祖父の言うように、この世界を救うとしても、あたし、いえ私たちの活動に口出しするのは遺憾です。けれどもまあ、今後の参考くらいにはしましょう」
今となってはこの台詞も祖父に吹き込まれたものとわかってしまう。
浅はかではあるが、ほっとけなくもあるので団員の人望も有るのだろう。たまに巻き込まれて殺されるにしても。
いや、待て。
こんな精神で凶悪な殺人魔術を扱っているのだ。創始者の孫だからと言ってリーダーに置いて、好き勝手にやらせて恐ろしくはないのか。こいつら魔術師の死生観はわからないが、やはりどこか狂っている。
「ティナちゃーんお茶淹れなおしたよー」
団員ののんきな声が届く。ティナがリーダーの鋭い表情を保ったまま退室した。
老人の腕が動いた。
「……この本?」
老人の念話を受け取ったケイは近くの本棚から一冊を抜き出した。背表紙は擦れて無地になっていたが、念話はイメージも送ることができるのか。
その表紙を開く。そして即座に閉じた。
ケイが苦い顔のまま、わずかに手の平に隙間を開けて持つようになったその本をフラガの膝に置いた。
老人の表情はわからないが、その細腕が本を持ち上げる動作はこれまでの彼の動きで一番素早かった。
「一冊くらいマシな本があると思った私が馬鹿だったわ」
彼女の様子からなんとなく察して、俺は深桃色に染まる部屋を後にした。
「お前たちが主張するべきはまず教育の改善だ。それも怪しいマスクをかぶって過激な行動を取らずに、学生の立場で堂々と主張しろ。正しい歴史を知りたいとな」
片肘をついて不機嫌な表情のティナ以外は、俺の言葉に耳を傾けていた。どこまで実行に移せるかは彼ら次第だろう。
ふと、疲労が膝に押し寄せて、歩くケイの肩に寄りかかりそうになった。
ケイも、俺も、どうにか解放されたが、アジトでの記憶は外の光を目にすると同時にぼやけはじめた。
革命団が情報漏えいを防ぐ魔術を使ったのだと後に知る。夢の記憶のように、ケイの屋敷へ戻る頃には俺自身が何を語ったのかも忘れていった。
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