腕を捜す死刑囚



 出発した旅客機はエンジントラブルと乱気流によって、進路から大きく逸れ始めていた。


 乗客は不安と絶望の表情を浮かべている。

 乗務員の女性が慎重な歩みで座席の間を歩き、耐ショック体勢の指示を続けている。その顔もまた青ざめていた。


「……最も近い空港……に不時着……乗客の皆様は……乗務員の指示があるまで、決して……」


 ノイズに遮られたアナウンスが流れる。


 後部中央に、ひときわ緊張感を放つ集団が座っている。数人の刑事に囲まれた、長身の男だ。

 刑事によって周囲から隔離された男は元海兵隊の殺人犯だ。


 アロハシャツとスラックス、足元はサンダルというラフな服装だが、その下には筋肉の鎧を纏わせている。

 口は硬く引き結ばれ、眉のない眉間に深い皺を作っている。鬼の如く恐ろしい顔立ちだ。

 離陸時からこの緊急事態の時まで、彼の表情は微動だにしていない。

 鋼鉄の手錠が頼りなく見えるほど太い腕には、付け根から手の甲まで、トライバル文様の黒い刺青が伸びていた。


 カディクは自覚的で、環境に関係なく、獰猛な殺人鬼だった。

 不気味なのは彼の起こした事件は残らず「素手の打撲による殺害」だったということ。

 相手がナイフやフルオートの拳銃を持っていようと、すべて彼は拳だけで相手をなぐり殺した。


 しかし、飛行機が着陸に失敗すれば彼も生き残る可能性は低い。


 カディクはやはり表情を変えず、ただ正面を見据えていた。


 強い衝撃が機体を襲った。







 日が暮れる前に、救助隊は数人の生存者を連れて引き揚げて行った。

 私が見つけるべきは生存者ではない。

 おそらく、救助されるより私が送っていく相手のほうが多いだろう。


 私は黒いコートの襟をひきよせ、山の五合目に降り立った。

 巨大な響きが襟を揺らしている。折れた金属の翼が地面に張り付いていた。山から降りる風がエンジンを通り抜け、その奇妙な音を鳴らしていた。

 ボーイングの機首は麓を向いていた。

 無残にへしゃげ、配線の繋がった機器類をばら撒き、機体はその原型をとどめていない。

 機長たちの体も似たような状態だ。あまり気分のいいものではない。


 私は足を止める。

 機首から後ろは尾翼をもがれ、上下逆さまに転がっていた。

 円柱形の機体に、ちょうど腹を捌いたような深い傷が走っている。隣山の崖でできた傷だろう。

 まるで秋刀魚の三枚おろしだと不謹慎なことを思いながら、私はまた歩き始めた。


 座席の破片や荷物に炎がくすぶっており、ばら撒かれた燃料を燃やし尽くそうとしている。

 黒い煙が夜空に吸い込まれるように昇っていく。


 今見えるのは、それだけだ。


 天へ上る魂を見たことはない。魂はいつも地上にいる。

 飛んでいても結局は空へ向かうことはなく、生者のいる地上を目指す。

 時に這いつくばりながら、差し伸べられる手を待っている。


 私が迎えに行く者たちは、皆、生前と何ら変わりない。宗教画のように雲の間へ飛んでいく者など居るのだろうか。

 おそらくだが、そうした死者に私の手助けは必要ないのだろう。だから私の目には見えないのだ。


 地獄のような風景の間を歩き、私は登っていく。





 ベゴン、と、急に遠くの残骸が鳴った。

 振り返ると黒い影が飛び出してきていた。

 山犬だ。

 残骸の上を飛んで藪の奥へ入っていく。口に咥えていたのは人の腕だった。

 新鮮な腕は太い筋肉を蓄え、表皮には黒い刺青が踊っていた。さぞかし食い応えがあるだろう。


 山犬の姿はすぐに見えなくなった。

 今度は私のすぐそばで残骸が跳ね上がった。

 さっきよりも大きな山犬だと思ったが、それは前足で喉元に掴みかかってきた。


「俺の、腕を、返せ!」


 人間によく似た声で、それは吠えた。

 太い左前脚が、私のマフラーを掴み上げている。全長は相当高く私は吊り下げられる形になった。

 次に目に入ったのは右肩の欠損だった。断面をさらしているが血は流れ出ていない。

 顔に毛はなく赤黒い色をしていた。岩のようにごつごつとした凶悪な面相だ。

 歯をむき出した表情は、限りなく人間に近く……。

 墜落機の乗客だろう。

 その体躯の質量はあやふやで霊体の特徴を備えていた。


「……どこにやった?」


 男の左腕には黒い文様が踊っている。つい先ほど見たような気がしたが。


「私にはなんとも」


 そう答えると、マフラーを掴む手が緩められた。私は着地を見誤り、したたか尻をぶつけた。

 できれば地上に降ろしてからにして欲しかったのだが。コートの土をはらいながら立ち上がる。


「本当に知らないのか」


 この男は命を落とす直前まで意識を保っていたらしい。

 そうした霊が自分の肉体に執着するのはそう珍しいことではない。


「探せ」


 彼は初対面の私に対して命令した。顎を上げ鋭い目で見下ろし、最大限の威圧を放っている。

 私はただ事実を述べるだけだ。


「そうはいっても、もう死んでおられますが」


「………」


 彼は巨躯を折り曲げて屈み、己の腕を探し始めた。早くも愛想をつかされたようだ。

 片腕で瓦礫を持ち上げた。物質には十分干渉できるらしい。

 死んだばかりでここまで元気なのは珍しい。

 このままだと腕を探し続ける地縛霊になりかねない。


「腕くらいでしたらどうとでもなります。幸いそこらへんに沢山転がってますから」


 足元にあった非常ドアをどかすと、黒スーツの袖に通った腕を見つけた。

 ちょうど肩のあたりで千切れている。

 私は片合掌でどこかにいる元の持ち主に謝ったあと、その霊体を肉ごと彼に差し出した。


「太さはだいぶ違いますけど、まあ……」


「………」


 男はおかしな人間に絡まれてしまったとでもいう顔をし、差し出された腕を押しのけた。


「仕方ありませんね。犬が咥えていったのかもしれません」


 発車ベルを鳴らすのを後にして、私は彼の腕を探すことにした。






 肉体と技術を磨き上げてきた者にとって、体の喪失は一層辛いのかもしれない。


 体格と顔つきの剣呑さから格闘家か何かだと思うが、クリーンなファイターではないことはわかっていた。

 彼の周りには沢山の霊がいる。絶叫した顔で固まったまま恨み節を歌い、纏わりついている。

 同じ幽霊同士でも認識できる者とできない者がいる。

 きっと彼自身には周りに浮かぶ霊は認識できないのだろう。


「旅客機というのはね、外皮の厚さは茶筒並ですよ。わかりますか? それに何百と人を入れて、羽根を付けて飛ばしてるんですよ」


 沈黙のまま歩くのも悪いので、私は世間話を始めた。


「って、身をもって知ってますよね」


 振り返る。が、彼は仏頂面のままだ。


 元より天候などというのは、人間の都合よく変化してはくれないものだ。

 それに左右される飛行機という乗り物の、なんと不確かなものか。


「恐ろしい乗り物ですよ。本当。操縦試験に落ちてよかったと思ってますよ今でも。体が小さいから戦闘機か潜水艦なんて言われましたが、どっちも棺桶みたいなものじゃないですか。全部落ちてよかった。ああ、よかったよかった」


 昔はどれでもいいから乗りたくて仕方なかったのを覚えている。酸っぱい葡萄という奴だ。


「俺は、空母付きだった」


 男はようやく言葉を発した。


「ハリアーは操縦できるが、あれは体が凝って仕方がない」

「はあ、そうですか」


 私は曖昧に返事をした。





 山林の間を強い風が通り抜ける。男は反射的に身を沈め、僅かにのこった質量が吹き飛ばされそうになるのを堪えている。


 軍人にしては規律正しさを感じられなかった。気性を隠しきれていない。

 私は帽子の鍔を整え、歩みを再開した。


「剣術を習ったこともある。格闘技も。だが、試合は茶番だと思った。身のこなしの基礎は勉強になったが、死に切迫した感覚とは程遠かった」


 男は話し続けた。


「狩猟もやった。鮫、鹿、虎、カンガルー……。銃をやめて鉈だけで挑んだ。ヒグマに腎臓を取られたが、それだけだ。五十体は狩り殺したが、血が沸くような気分は続かなかった」


 一度口を開くとよく喋る。淡々とした口調だが、にじみ出ているのは倦怠だった。


「俺は、いったい何を求めていたのだろうな」

「さて」


 私はわざと呆れた演技をして言った。そうする必要があったからだ。


「少なくとも一番死に切迫したのは、あなたではなくあなたが殺してきた人達でしょうね」


 そう呟くと、男は黙った。


 生温い水に入ったように、周囲の空気が淀んだ。林の奥に行くほど濃くなってくる。


 迎えることのできなかった霊体たちがいる。

 この空間にわだかまる気そのものが、巨大な霊体の集合だった。

 視界が悪い。私は鞘の中で錆ついている刀を抜いた。


「この山は昔も、墜落事故があったんですよ」


 自分に対する怨念も見えていない男でもここの異常さはわかるらしい。

 まだ奥へと続いている。


「あなたの乗ってきたものよりもっと大人数でした。爆弾だと爆心地は跡形もなく吹き飛びますよね。大抵の物体は蒸発したり、爆風で決まった方向に飛ばされるので」


 山林の気のほかに、背後から追ってくる気配もある。今日墜落した乗客たちが合流しようとしているのだろうか。

 右手に握った刀を切っ先を前に向けたまま固定して、空間を裂くようにして進む。

 手入れを怠った軍刀は刃も零れ、黒い錆を纏っているが、それでも効力を保っているようだった。


「でも飛行機が落ちると、なんだかよくわからないものと一緒に混ぜっ返されてしまうんですよ。あなたは見て来たんでしたか」


 振り返ると、男の様子がおかしかった。立ち止まりすこし離れてしまっている。耳をふさいでいた。

 男の顔は、恐怖に引きつっていた。


「こういうお話が好きそうだとお見立てしましたが、違いましたかね」


 空気全体が唸るような異様な響き。山全体が巨大な楽器になったように、恐ろしい唸りをあげている。

 男の耳にもそれは聞こえているのだろうか。


 今の私たちは、巨大な霊の腹の中を斬り進んでいるようなものだ。


「その時の方たちではありません。この場所に残った記憶に釣られて来た者たちですよ。人間一人が振るう暴力とは比較にならないほどの、気流はそういうことを一瞬のうちに起こしてしまえる」


 突然、風が吹いた。


 強風が顔に叩きつけられる。生温い空気が混ぜ返され、一瞬気が遠くなる。

 私の意識に入り込もうとするものがある。悲壮と後悔がここには渦巻いている。気を抜けば、私自身もこの気の中へ混ざり込みそうになる。

 男は無事だろうか。彼が自我を失いこの空気に混ざってしまえば、連れていくことも出来なくなるのだが。

 あまり長居はしたくない。


 目を開けると、男はまだ姿を保って立っていた。鋭い目を見開いている。

 視線の先をたどると、肉を纏う魂の気配があった。


 一対の黄金色。分厚い闇にそれが浮かんでいる。

 私が灯りを向けると獣は素早く身を翻す。その口元に堅く握られた拳が見えた。


「待て!」


 男が駆けた。

 千切れた腕を銜えた山犬は木々の影に消える。

 男は隻腕の霊体で、バランスを崩しかけながらそれを追う。


「俺のだ!」







 カディックは海兵隊時代、その練度を試すかのように敵味方関係なく力をふるった。

 戦場の経験は二度、期待したような死地はなく、空爆の結果をチェックするだけの退屈な日々だった。


 訓練教官となり、部下に数々の体罰を与えた。

 まるで楽しむかのようにレパートリーが増え、過激化していった。それは被害者にも伝わっていた。

 ある時ついに証拠が押さえられ除隊処分になる。

 故郷の小島へ帰省したが、その1か月後『爆発』した。


 島の港街で彼は素手のまま観光中の外国人を含む男ら18人を殴り倒した。

 そのうち10人が脳挫傷、頸椎骨折、内臓破裂による出血で死亡した。

 現地警察に捕縛された後、軍情報部から通達が入った。


 兵役していた8年の間、基地の外で行い『見逃されていた』障害事件。

 調べ直された結果、彼の殺害人数は100へ届いた。


 軍隊に入った目的は「トレーニング」だったと、取り調べで彼は断言した。


 彼は自身の両腕に絶対の信頼を寄せていた。それ以外は何も信じられないとでもいうように。





「俺の腕だ。俺の。俺の……」


 彼はいつの間にか涙を流していた。

 野犬が落とした腕は、肉体の枷を離れて霊体の彼に帰っていく。


 刺青で刻まれていた跡はなく、細い子供の腕に変わっていた。

 彼自身の姿も、弱弱しい少年に。


「仕方ありませんね。ここに留まっているのもそう、悪いことではないでしょうから」


 彼の背中に向かって、私は言った。


「毎年供養してもらえますからね」


 発車のベルを鳴らす。




  了

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