第10話 気色ばむ一葉

わずかに周囲15メーターくらいの結界にいるがごとしである。‘プータロー’とは言え最前より私は彼女に温かい缶コーヒーか何かを買って差し上げたくて仕方ないのだが、一旦この結界を出てしまえば彼女が消えていなくなりそうで果たせそうもなかった。今の奇跡を惜しめばこそこの出会いのゆえを探る他はない。

「本郷に帰るには…」と云いかけて私は口を噤んだ。つまらぬこと(だろうか、彼女にとっては切実だが)を云って時間を失いたくなかった、共有をこそ私は改めて願いつつその為のキーワードを口にする。「いや、その…あなたの‘うもれ木’の事です。とても感動しましたが、しかしどうでしょうか、現実にお媟のような女性がいるでしょうか?男性から見れば彼女のような女性は理想的です。又世間の規範からしてもそうでしょう。すれば失礼ですが、あなたは果してその理想の立場からこれをお書きになってはいませんか?あなたが本当に立脚するのもからではなく、です」一葉の眼が変わった。私の感想が意外だったのかあるいは何かしら彼女の心の琴線に触れでもしたのか、文字通り膝を詰める勢いで彼女はこう聞いてきた。

「ほう、そのような感想をいただくのは始めてです。それでは伺いますがあなたのおっしゃる私の本来の立場とはどういうものですか?私はどう書けばよかったのでしょうか?」邂逅の当初のごとき挑むような、突っかかるような調子に戻っている。私はあなたの敵ではないと指摘して茶を濁すなどいまさら出来そうにもなかった。言葉を選びながら私は慎重に返事をする。一葉の日記(塵中日記)からして今日明治27年2月某日という日がどういう日であったかを私は思い出していた。

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