26. 陽平の中身
「陽平君はお茶? ジュース? オレンジならあるけど」
「あ、いえ、お気を使わずに。でも、オレンジジュースでもいいですか?」
素直な陽平に墨馬がふふっと笑いを零す。濃いオレンジ色の液体は果汁100%だと見た目で分かる。いつも陽平が飲んでいる無果汁の炭酸オレンジジュースとは匂いからして違った。口に含むとまるでオレンジにかぶりついたような、それ以上の濃厚な味と酸味を感じる。
「おいしっ!」
陽平の反応に墨馬も嬉しそうにしている。
「累もこれくらい可愛げがあったらいいのに」
そう言って陽平の前に腰掛けた。蘆屋の名前が出ると、陽平が思い出したようにはっとする。その様子に「やっぱり」と墨馬が何かを察した。
「僕に聞きたいことがあった?」
「はい、あの、それは」
言いづらそうにしている陽平に、「じゃあまずは僕からいい?」と問いかける。墨馬が陽平になんの用だろうと不思議がる。墨馬は陽平と違い、吐き出す言葉に躊躇いはなかった。
「美陽君の鬼については何とかしたいと思ってる。これは本当。だから先に君の方を解決しないとと思って」
なんのことだと陽平が固まる。墨馬が言い出したことに心当たりなど一つもない。
「君のご両親はあまりいい関係じゃなかったようだね」
「は?」と思わず声が漏れる。あまりにも関係のない話が出ると唖然となった。
「君の他人に対する明るさが、少し異常だと思ってたんだ。それは君が育った家庭環境から来ているんじゃないかって」
「いきなり何? 全然話関係ないし、そもそも親はまだ別れたわけでもないし」
「でも父親は何年も帰ってきていない。お母様はもうお父様にも君にも興味はない」
ぎりっと陽平が奥歯を噛みしめる。何だってこんなことを詮索されなければいけない。
「幼いころから何度もご両親の喧嘩を聞いた。何度も別れ話を聞いた。自分という存在がいるのに、自分では二人を止める理由にもなれない。自分が親にとって大切な存在じゃないと証明されることがこわい。怒った顔を向けられることがこわい。怒らないで、怒らないで、そう願いながら育ってきた」
ひざの上に置いた陽平の拳に力がはいる。垂れた頭は感情を押し殺し我慢している。
「その時君の心を助けたのが美陽君だった。美陽君が君を頼る。頼るように仕向けた。それが君の心の安寧を生み出した」
陽平の唇が微かに動く。垂れた
「君は怒りを向けられるのがこわい。それは自分の存在を否定される感覚に近いから。必要とされたいという欲求が人よりも強いのが君でしょ? だから君は美陽君が怒る事を恐れている、ずっと。そして自分を求めてくれることに至福を感じる」
「うっっっさい! やめろよ‼」
ふーふーと息を荒げた陽平の姿は誰もが見たことのないものだった。怒る陽平を、敵意をむき出しにする陽平を、誰も知らない。それでも墨馬はそんな陽平を冷静な目で見る。恐れるところはそこではなかった。
「別に僕は君の家庭の問題を指摘したいわけじゃない。僕が心配しているのは、君は美陽君が鬼を孕んでいることを嬉しいと思っている。そのことだよ」
「何。そんなこと……」
「そんなことない? 美陽君の脅えを癒せること、頼れる存在になれること、優越感を感じてない?」
下を向いたまま答えようとしない陽平にため息をつく。コツコツと眉間の間を叩くと深く息を吐いた。
「美陽君の中の鬼が喜んでる。欲しがる君に同調するように、鬼が君を欲しがってる。美陽君はそれが自身の感情か鬼の感情か区別がついていない。鬼がどんどんと美陽君に癒着してしまう。これは危険な状態なんだよ」
「ハルの気持ちは、鬼によるものってことなん!?」
どうして、どうしてこの子は論点がズレる。今心配すべきところは美陽の気持ちじゃないはずだ。
「美陽君が鬼になることが心配じゃないの?」
「心配じゃないわけないだろ!」
墨馬がずるっと背もたれに体を預ける。この二人の心は思ったよりも複雑だった。一本の糸で繋がっているわけではない。複数もの糸が絡まり、その状態は他よりも酷い。ひとつの糸の先がどの糸と繋がっているかなんて、本人たちでさえ分かっていない。人の心とは本来その様なものなのかもしれないが、二人のそれはあまりにも歪だった。
「それに、鬼に感情なんてあるんですか?」
その問いに気を害したのは墨馬だった。
「墨馬さんも鬼なんでしょ。だからハルの気持ちが分かるとか、そういうのですか?」
「累から聞いたの?」
黙る陽平に「そうか」と墨馬が息を吐く。
「確かに累が加持してくれなきゃ、僕は正気を失くし災いをもたらし人を駆逐する鬼だよ。でもすべての鬼は、元々は人なんだよ」
どうしてこの人を責め立ててしまったのかと陽平の良心が痛んだ。この人は鬼にされてしまった被害者なのに。
「すみません」と謝る陽平を責める気などない。
「鬼がどういう存在か、人にどこまで影響を及ぼせるのか、分かっていることなんてないんだよ。だからその力を調べ、手に入れたい。悪用せんと企てる輩が出てくる。僕や美陽君、累、そして姉を実験道具としかみてない輩がいる」
陽平が墨馬の姉の事を思い出した。
「そういえば、お姉さんは。お姉さんも蘆屋に加持っていうのをしてもらってるんですか?」
墨馬の目から、そうではないことは察することが出来た。
「姉が組織に引き取られた時はまだ累も小さかったから。君も知ってると思うけど、鬼なんか傍に置いてちゃ、いつ災害が起こって自分が巻き込まれるかわからないからね」
「だから……」
「あー、といっても僕がここに来たとき累もまだ小学三年生だったから。すごいよね、あの子」
姉の話ははぐらかされた。あの子と言った墨馬の目が心底心配しているようだった。どうすればみんながこの呪縛から逃れられるのだろう。
「だからね、陽平君。もう少しだけ協力してくれないかな。もう少しだけ、美陽君を僕に預けてほしいんだ」
「守るから」と付け足されると、もう陽平には何も言う事ができなかった。蘆屋だって敵じゃない、行動には理由があるはずだ。墨馬が陽平たちを騙し嘘を付くようにはどうしても思えない。これは陽平のただの勘なのかもしれない。だけどやっぱり人を疑うのは、陽平には向いていなかった。
夏休みが明けると積祈神社は騒がしさを増す。朝から夕方まで子供たちの声が溢れ、陰陰とした空気を拭い去ってくれる。天気のいい日が続いてくれていることに墨馬も安心し、境内の掃除に精を出していた。玉砂利に落ちた葉を掃いていると、じゃりじゃりと足音が近づいて来た。
「やあ、墨馬君。久方ぶりだね。ご無沙汰してしまってすまない」
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