23. 「信じる」と「疑う」
「南さ、引っ越し明日なんやって」
気まずそうに話す陽平の気持ちを察し、「そうやったな」と短く返した。
「本当はもっと早く引っ越したかったらしいけど、いろいろ手続きとか大変やったみたいで」
「南に会いに行ったん?」
陽平が首を横に振る。
「行ったは行ったけど、会えそうもなかった。外に出んのとか、人に会うの怖いみたいで。南のおばさんとおじさんもここから離れたら状況変わるやろうって。仕事のこともあるから県外へは出んみたいやけど、やっぱりこの町が目に入らんとこまで離れるって」
「そうか」と言うと美陽が身をかがめうずくまる。
「なあ、ヨウ。南はちゃんと戻れるかな。前みたいに、明るくて元気で。ヨウを好きやった南に、戻れるかな」
「ハル……」
苦しそうに歪んだ顔は横から見ても分かるほどだった。
「俺が南を――」
「やめよう。やめよう、ハル」
「俺がこんなヤツじゃなかったら」
自分を卑しめる美陽の背中に腕がまわされる。陽平の肩に顔がうずまると優しい体温を感じる。ぽんぽんと背中を叩かれると、どんどんと嫌なものが零れだしそうになる。それをこらえるので精いっぱいだった。
可哀そうなハル。賢くて真面目で、人の心が分かるからこそ苦しむ。俺のようにバカで幼稚で察しが悪ければよかったのに。辛いんよな、苦しいんよな。もっと早く、俺が間違いに気づいていたらよかったのに。
「今度は墨馬さんもいるから、大丈夫。良くなる」
陽平は本当に美陽を心配しているのだろう。鬼を孕んでいると聞かされた時から、なんども陽平は心配し手を差し伸べた。こうやって陽平が案じ思いやってくれる瞬間、美陽の中で何かがざわつく。前からずっと感じていた。しかしそれが何なのかつかめずにいる。今だって確かに感じている。体を流れる血が沸き立つような感覚を。こんなに苦しい気持ちなのに、陽平の肩に埋めた口元には微笑が浮かんでいた。
夏休みが明けて、学校が始まる。新学期とは大きな区切りであり、新しい出発である。夏休みを経てまた少し人が成長するようにも感じる。ただ陽平の中では、まだ過去を引きずっているような、そんな感覚だった。夏休み前から抱えていた気持ちが、ずるずると大きくなっただけだった。
始業式では蘆屋の姿も見た。あちらが陽平を見つけると、変わらず人懐っこい笑顔を向けてくる。そんな蘆屋から顔を背けてしまった。校舎が違う為普段顔を合わすことはない。しかし体育や特別授業などで陽平を見かけては馴れ馴れしく声を掛けて来た。陽平は一貫して関わらないようにしていたが、次第にそんな蘆屋が健気にうつってくる。罪悪感を押し込めるように過ごし2週間ほどが過ぎた学校の帰り道、突然後ろから肩をポンと叩かれた。振り返って現れた顔にさほど驚きはなかった。相変わらず余裕の表情を携えた蘆屋が背後に立っていた。
「つれなくない?」
軽い言葉に悪びれた様子はない。許した覚えもないのに肩を並べて歩き出す。まだ陽平は蘆屋と言葉を交わす気にはなれていない。
「ね、ごめんね。騙すつもりはなかってんけど。ほら、こっちにもいろいろあってさ」
むすっとした顔の陽平の横で軽快にしゃべりだす蘆屋。
「悪いとは思ってんけど、こんな早よバレると思ってなかって。ちょっと美陽くんのこと監察したかってん」
美陽の名前を出されて我慢が出来なかった。歩を止めるといきなり蘆屋の胸ぐらを掴む。同じく下校していた生徒たちが何事かと振り返ったが、気に留める事無く再び時間は動き出す。蘆屋の表情は変わることもない。それがさらに陽平を腹立たせる。
「なんでハルを鬼にしようとした!」
蘆屋に掴みかかったまま陽平が顔を寄せる。蘆屋は怯むこともなく平然としている。
「なんで? なんでって、聞いたんやろ? 俺はオニモチの家の子。組織に有益に動く役目。親もそれで食ってんねんから、それが宿命やん。仕方なくない?」
「はあ?」と陽平が顔を歪める。陽平の目が蘆屋を突き刺す。蘆屋にはその目が面白くなかった。まっすぐで、人の表側しか見ない、正義の目のような。人は裏側にこそ本質があると考えてもみないその目が。
「俺を疑うのもええけど、じゃあなんで香住の事は信じれるん?」
蘆屋が陽平の手を払う。そのまま駅へと歩き出したので、陽平が追いかけるようにその後をついて歩く。
「墨馬さんは積祈神社の神主で、鬼からあの町を守ってる。足立さんからも聞いた。疑うもなにも」
「はあ。ほら、陽平くんってそうやん。最初はそうやって俺の言う事信じて疑いもせんかったくせに」
「なに」と言い返そうとしたが、蘆屋の言う通りでもあった。今度こそ美陽を助ける道を間違えてはいけない。不本意にも蘆屋の言葉が陽平の頭を冷やさせる。
「だっておかしない? 古から鬼を抑えて来た神社の神主が? 何も手立てを教えてくれないまま? 美陽くんを放置?」
ぐっと喉が詰まったのを感じる。蘆屋の言葉がずぶずぶと腹を刺す。信じてはいけないもの、信じないといけないもの。どうやって見極めればいい。
「
えっと陽平の小さな声が漏れる。その反応に蘆屋が満足げに口角をあげる。
「あれ、香住は話してくれへんかったん? 国が表立って立てた組織が自然現象研究庁。そして隠されて存在しているのが怪異対策局。それがどんな組織なのか、教えてくれへんかったん? そこに姉を送り込んだことも?」
「そ、それは蘆屋が言ってたやん。鬼になった人を保護する機関って」
あっははと蘆屋が声をあげて笑う。何がおかしいのか、それを唖然として見る事しかできない。
「だから、陽平くんなんで俺の言葉信じるん。なあ、どっち? 疑ってんの? 信じてんの?」
あー面白いと蘆屋が上機嫌に歩いていく。もうその背中をどんな感情で見ればいいのか、陽平のは分からなくなった。
「俺は、疑うとか信じるとか、分からん。ハルを助けたい。ハルがハルのままでいられる方法を知りたい。蘆屋は知ってるなら教えてくれ、マジで、頼む」
後ろを振り返り陽平を見つめる蘆屋が目を細める。美陽の気持ちがよく分かる。光は強ければ強いほど影を濃く映し出す。近くにいればいるほどくっきりと輪郭を投影する。自分の影を自覚すれば、光をうらやむと同時に汚したくなる。自分のようなものの近くに置きたくなる。
「陽平くんは、優しいね」
しょうがない子だと、蘆屋が眉をひそめる。そのままとぼとぼと歩き出してしまう蘆屋を目で追うしかできなかった。しょうがないとはどちらだろう。そんな顔を見てしまえば、陽平はまだ蘆屋を嫌いにはなれなかった。
土曜日の午後。午前中の授業を終え、
蘆屋が賽銭箱を横切り拝殿の屋内へとずかずか入っていく。参拝者であれば恐れ多く近寄る事ができないであろうその場所へ躊躇う事もなく、むしろ慣れた様子で進んでいく。拝殿の奥にある本殿の扉を開けると、神事を行うための祭壇がある。その部屋に墨馬はいた。蘆屋が後ろ手に本殿の扉を閉める。正座して座る墨馬の横を通り過ぎると、着ていた学ランをするっと脱いだ。
「じゃあ、ヤろっか」
艶めいた笑みを浮かべ墨馬に振り返る。こわばった墨馬をよそに、脱いだ学ランの代わりに白い装束をシャツの上から羽織った。下は制服のまま、部屋の中央に坐する。蘆屋が前にしたのは護摩壇。台の真ん中には鉄でできた丸い護摩釜が置かれ、四方に建てた木の棒と縄がぐるりと囲う。釜の奥には小さな鳥居が立てられ、その上に白紙を切って作った
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