19. 発症―判明
鍵がかかっていない小屋のドアを開ける。土足となっている小屋の中は土のニオイが充満していた。電気の付いていない室内に一歩踏み入れると、泥の付いた靴底がじゃりっと音を立てた。
「ハル? いるん?」
陽平の呼び掛けに返事はないが、小屋の奥の方に気配を感じた。
「こんなとこで何してるん」
美陽であろう何かに近づいていく。その影は座り込んでいるのか黒い塊になって見えた。「帰ろう?」とその肩に手をかけようとした時、稲光が部屋の中を照らす。一瞬明白にうつった美陽の手が、口が真っ赤に染まっているのが見えた。そしてしゃがみ込んでいる美陽が何かを大事に抱えている。子供用のラグビーボールほどの大きさのそれが何か、最初は分からなかった。しかし土のにおいに混じり、生臭いにおいがツンと鼻をさす。
「何持ってんの」
陽平が美陽の前にしゃがみ込み、それを取り上げようとした時、ゴトっと音を立てソレが床に転がった。暗がりに慣れた目がソレをはっきりと映した。
カラスだ。腹が抉られたカラスの死骸だ。
ようやく美陽の赤く染まった手と口元のワケが分かった。
「ハル! お前何した!」
そんな事は聞くまでもなく状況を把握できた。「動物に危害を加えるのはただの戯れや」。蘆屋の言葉を思い出す。陽平が美陽の肩を掴むと、呆けたように宙を見つめている。どこか楽しそうに見えるその顔はまるで幼い子供のようだった。
「ハル? ハル! 聞こえてる!? なあ!」
軽く揺さぶってもその瞳が陽平に向く事はない。さらに転がったカラスを拾い上げ遊ぼうとする始末。思わずカラスに伸ばす手を叩き払った。美陽の手を染めた血のぬるっとした感触が伝わる。ぽたぽたと顎から垂れる血液は、まるで幼子の食べこぼしのように悪意なく滴る。
焦点の定まらない瞳、上がる息、その内うーうーと唸り出し体が震えだす。何度名前を呼ぼうとも美陽が戻ってこない。
「頼むから、俺やって、なあ、陽平やって分かってや!」
その体に腕を回しぐっと引き寄せる。自分の体に美陽をうずめさせ必死にしがみつく。唸りながらもがく美陽を離すまいと強く抱きしめる。
「なあ! 怖いって! マジで! 怖いって! 戻ってこいって、はよお! 連れていくなって‼ 美陽を返せって‼」
今まで出したことのないくらい大声で叫ぶ。
「ハルを返せって‼」
お願いやから、とぎゅっと美陽の肩に顔をうずめる。
「お前誰やねん」
か細く吐き出した言葉にだんだんと美陽の息が鎮まっていく。ぐしゃぐしゃに顔を濡らしながら陽平が美陽に縋りつく。雨か涙かも分からない、もう陽平の体はわけの分からない感情でびしょびしょになっていた。
ずしりと陽平の体に重いものが寄りかかる。眠ったのか意識を失ったのか、その顔は陽平の知っている美陽のものに戻っていた。
陽平が家に帰ってくる。家とは美陽の家であり、その足で美陽の部屋へ向かう。部屋の時計を見るとまだ朝の7時半を過ぎたところだった。長い夜に感じた。ベッドで静かに眠っている美陽を確認すると、ようやく安心したように陽平が座り込む。太陽の光が窓から注ぎ込み、その柔らかな光が美陽の肌に落ちる。目元にかかった前髪をかき上げてやる。こんなにも陽の光が安息をもたらしてくれるなんて、感じたこともなかった。ベッドを背もたれにし、陽平が座り直す。
「ビンゴかよ」
はあと息をつき、天井を仰ぐ。すると布団がもぞもぞと動いた。美陽が薄目を開け、眩しそうにする。
「起きた?」
ヨウと声を掛けようとした瞬間、美陽が吐き気に襲われえ思わずえずく。
「なに、臭い、気持ち悪っ」
「洗面器と歯ブラシ持ってくるから、ちょっと待ってて」
「は?」と現状を飲み込めない美陽が口の違和感と状況に顔をしかめる。慌てて一式を持ってきた陽平にとりあえず口を濯げと要求される。口に含んだ水を吐き出すと僅かに血が混じった唾液が洗面器を汚した。
「俺、何した? てか、お前なんかボロボロやん」
詳細な記憶はないらしい。しかし記憶がない事は覚えているらしい。ボロボロなのは美陽のほうで、血色が悪くダルそうな美陽に昨晩の事を陽平が話した。一通りの話を聞くと、鼻に纏いつく生臭さと口内の不快感に合点がいったようだった。それと同時に自分への嫌悪感が美陽を蝕む。被った布団にぎゅっと顔を押し付け丸まった。
「口の中のもん、出来るだけ搔きだしたんやけどな」
「どうやって……」
美陽の目が布団から覗く。
「限界があって」
「え、だからどうやって」
陽平がうえっと舌をだし気持ち悪がる。
「なあ、ハル」
「ん?」
美陽に振りむいた陽平が、顔と顔を合わせる。目の前に陽平の真剣なまなざしが現れる。少しだけ吊り上がった目じり、美陽のモノより丸い形をした目の中に茶色い瞳が鎮座している。目頭からピンクの涙丘ははっきりと見える。猫目というやつだ。その目でまっすぐに見つめられると、力強さに目を逸らせなくなる。
「ヨウ、何?」
「なあハル、俺らは頼る相手を間違ってたんかもしれん」
頼る相手? 美陽がしばらく考えて、「あっ」と声にならない声をあげる。うんと陽平が一度頷いた。
雨の中美陽を抱き、小屋を後にする。美陽の家に戻ると、ずぶ濡れの自分たちをどうしたものかと考えた。まずは美陽の体を第一に、体を拭き着替えさせてやる。意識のない人の着替えをさせるのはこんなにも大変なものなのかと四苦八苦する。冷えた体を心配しながら布団にくるんでやった。自分もバスタオルで簡単に雨を拭うと時計を見る。朝の5時前。
「いい時間やな」
持ってきていた服に着替えて外へ出る。スニーカーは雨に浸され使い物にならなかったので美陽のサンダルを借りた。あんなにも止まなかった雨がぴたりと止んでいた。雲の隙間からは光さえ漏れだしている。とぼとぼと歩き陽平が向かったのは小山だった。蘆屋から近づくなと言われていた小山。実は陽平はそれから何度も一人で訪れていた。最初は躊躇いもあった。しかし自分は当事者ではないとかこつけて山に登っていた。なぜなら陽平は蘆屋の事など信用していなかった。蘆屋の話をきっかけに、鬼に関する手がかりを探していた。蘆屋の「近づくな」は何かを隠している合図だと考えた。美陽を救うのは自分でありたいと、利己的な考えがあったのかもしれない。
何回も山に登るうちに、誰かが祠に訪れている事を知る。いつも綺麗に佇むその姿。探りを入れるように置いて行った供え物が撤去されていたことも引っかかっていた。山に登る時間帯は毎回ずらした。そうするうちに、人が訪れているとすれば早朝ではないかと推測された。
頂上に着くとまずは祠の様子を見る。昨日の大雨のせいで、今日は祠の屋根に落ちた葉っぱや枝が被さり、足元も泥まみれになっていた。何を祀られているかも、存在さえも知られていないのにそこそこに立派な祠。それにはガラスの扉がついていて、開ければお供え物を置いたり、線香を焚く為のスペースがある。しかしいつもそこは空っぽだった。ガラス越しに陽平が中をのぞく。中には大きな石が鎮座している。一体どういう意味があるのだろう。裏側に何か書かれていたりするのか、覗いてみたことはあったが特になにも見つからなかった。
しかし今日は石の裏側、石の下に挟まる何かを見つけた。
「祟るなら俺を祟ればいいからな」
陽平が思い切ってガラス扉を開く。そして石の裏に手を回し、その何かを抜き取った。それは古びた一枚の紙だった。ぱりぱりになった茶色い紙が折りたたまれている。それを丁寧に開く。そこに書かれていたのはひょうたんのような形。そして上の小さい円の中に「山」。くびれ部分に「地」。下の大きな円に「黄泉」と文字が書かれていた。
「山……地……黄泉。……泉」
これは蘆屋が言っていた山地泉の法を示しているのではないか。しかし泉、ではなく黄泉となっている。深い意味はないのだろうか。陽平は祠の前に立ちすくみ紙を見つめていた。
「こら! この罰当たりが!」
突然叫び声が聞こえると、一人の老婆が背後に立っていた。
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