14. 立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花

 絞り出した声は助けを求めていた。

「ヨウ……」

「大丈夫やって。ほら、俺が手握ってたら何も出来へんやん。俺の声も聞こえてた。今のはちょっと、なんかの魔が差しただけやって」

 「な?」と美陽の顔を覗き込む。美陽が正気であることを確認すると、陽平が傘を拾い上げ差し出す。美陽がしずしずと受け取ると、陽平も自分の傘を拾った。

「濡れたな。風邪ひくから、早く帰ろう」

 前に向き直った陽平。背後が気にならないわけではない。もしかして美陽が本当に鬼になってしまうのではないか、直に人を襲ってしまうのではないか。本当は心臓がどきどきと鼓動していた。頭の中が最悪の自体を想像しいっぱいになっていた。それでも自分の心配が美陽に伝わらないように平然と歩く。

「気にしない気にしない。一応蘆屋にも相談しとくし、ハルはこれ以上考えんな」

 へらへらと笑いながらたわいもない話題を振る。こういう時バカなキャラでよかったと、自分自身に感謝した。

「ハル、明日の休みは予定あり?」

「いや、特にないけど」

「じゃあさ、久しぶりに商店街の方行こうや。あ、でも小学校の前通らなあかんから、やっぱやめとこうか」

 振り向くことのない陽平の後頭部を見つめる。今もいつものようにのんきな顔をしているのだろうか。美陽が想像する。

「それは、大丈夫やけど。蘆屋に相談しに行った方がいいんと――」

「だーいじょうぶやって。蘆屋には月曜に話してみるから」

 ヨウ、お前は一体今どんな顔をしている?

 声はいつもの調子と変わらない。言動に不自然な点はない。

 じゃあ、どうして今お前の顔が見えないのだろう。



 昼前に温羅うら家のチャイムを鳴らす。玄関から出て来たのは美陽の母親だった。

「ヨウくん、いらっしゃい。お昼ご飯用意してるわよ」

 美陽の母親はこの地域では目立つほどに洗練されている。きっと都会へ働きに出ているからだろう。未亡人になったとたん、他の家の男性から声を掛けられ始めたと美陽から聞いた。独身もいれば、妻子ある身の男もいる。団地の中で出来上がっていくこの気持ちの悪いサークルが嫌だった。それでも美陽の母親は凛とし、美陽の母を務めあげていた。務めるとは失礼な言い方かもしれない。しかし陽平はそんな彼女を真に尊敬していた。そして羨ましかった。

「おばさん、いつもすみません」

「ええ!? やめてよヨウくん。いつも美陽がお世話になって、感謝してるのは私なんだから」

 気さくに笑いながらリビングに案内する。オープンキッチンでは美陽が食事の準備をしていた。

「ヨウ、おはよ」

「お、おはようじゃねーわ。一時間前には起きてたわ」

 美陽は表情をあまり表に出さない。いつも愛想がなくつんけんしたように見える。でもこういう時の美陽は笑っているように陽平には見えた。きっと心の声を感じているのかもしれない。

 母親の作ってくれたご飯を机に並べていく。陽平が家では食べたことがないグラタン。縁が少し焦げた皿の中、チーズのトロトロがジューシーに光っている。湯気とともに香ばしい香りが充満する。大きなガラスのボウルに入ったサラダは見たこともない葉っぱで溢れている。とりわけ用の小皿を美陽が陽平の前に置いた。

「お母さんこのあと買い物で町に出るけど、あなたたちも車に乗ってく?」

 エプロンをはずしながら母親が身なりを整える。

「いや、今日はその辺ぶらぶらしに行く。遠出になったらバス使うし、大丈夫」

 美陽の答えに「そう」と優しく返す。

 「出ていく時鍵かけていくのよ」と言われれば「分かってる」と美陽が淡泊に返した。母親が玄関へ向かうとドアが閉まる音がする。やがて車のエンジン音が聞こえたかと思うと、音は遠ざかり静かになった。

「いつもうまそうな飯やな」

 陽平が焦がれるような目で目の前のご飯を見つめている。手を付けずにひたすら目で楽しんでいる陽平に、グラタンをよそってやる。

「冷めんうちに早よ食べろって」

 皿を陽平に差し出すと、美陽がしまったと皿をひっこめようとする。それを陽平が取り上げ、自分の前に置くと手を合わせた。

「はい! いただきます!」

 陽平ががつがつとグラタンを食べ始める。

「おい! ヨウ、あかんって!」

 美陽が取り上げようとする皿を陽平が死守する。

「だーいじょうぶやって。てか、大丈夫な気がするねん。だってハルと飯食うのなんてしょっちゅうやったやろ? それでも今まで何もなかったし。おばさんとも一緒に食っとるやろ?」

「一応は、気を付けてる」

 ぺろりとグラタンを平らげると、おかわりと二杯目をよそう。

「なあ、鬼っていうんは何なんや? 人みたいに心はないんかな。俺はハルといてても危ないと感じたことがない。案外鬼も大切な人を傷つけたいとは思ってないんかな」

 昨日あった事をもう忘れてしまったのかと美陽が気まずそうにする。陽平を襲うようなマネをしたのに、危なくないなどどうして思えるのか不思議だった。

「俺は山下さんも翔也も、傷つけたくないよ」

 「そうやんな」と相槌を打つ陽平の目元が陰る。もう食べてしまったものは仕方ないと、美陽もご飯に手を付ける。陽平が大丈夫で翔也がダメなのなら、飯の事とは別で事故が引き起こされたのなら。『母体の心は鬼とリンクする』と言った蘆屋の言葉を思いだす。それならそれで自分の汚い部分を自覚せずにはいられなかった。


 昼ご飯を食べ終わり、外へと出かける。今日は快晴だった。じめじめした梅雨の気分を吹き飛ばすお出かけ日和だ。

「歩いて行こう」

 陽平の提案に美陽も乗る。商店街へは積祈神社と小学校を通り過ぎ、さらに進むとたどり着く。小学校までの坂も、小学校前の水路も、通るのはあの日以来だった。遠足気分で機嫌よく歩く陽平を見ていると、美陽の心も弾んでくる。陽平の無邪気さが、美陽は本当に好きだった。

 青葉台を抜け、近道の階段を下りる。すると目の前に広い二車線の道路が現れる。そこから坂道が続き下っていくのだが、見晴らしのいい坂の上からは例の水路を見ることが出来た。

「ハル?」

 本当に自分のことになると心配性になると美陽が眉を落とす。

「大丈夫やって」

 落とした眉のまま薄い笑みで返す。「ん」と納得した陽平が再び歩き出した。

「なんで今日は商店街なん?」

「ん? ああ、久しぶりに食べたいなって。八戸やとさんのコロッケ」

 八戸さんとは八戸精肉店の事で、ここで売っているコロッケは小学校に通っている生徒であれば誰もが食べたことがある絶品のおやつだった。

「それだけ?」

「それだけ。あ、あとヒロマガ買いたい」

 少年誌ヒーローマガジンは週刊誌だが、コンビニのないこの地域では唯一商店街にある本屋でしか手に入らない。もちろん今では携帯で読む事も出来るのだが、陽平は昔から雑誌を買って読む派だと言い張っている。

「じゃあ本屋行って、八戸さん寄って、積祈つみき神社で食べようか」

 穏やかに話す美陽の声が心地いい。一ヵ月前まではこんな風にのどかに、平和に過ごしていた。それが短期間で事態が一変した。一番不安を感じているであろう美陽の気持ちを少しでも晴らしてやりたい。だから美陽から放たれる声が穏やかな事が、陽平は嬉しかった。

 本屋で雑誌を買い、八戸精肉店でコロッケを買う。店主は陽平と美陽には気づいていないようだった。毎日たくさんの生徒が買いに来ているのだろう。いちいち生徒の顔など覚えてないのも無理はない。

 アツアツコロッケが入ったビニール袋を下げて積祈神社に向かう。神社に行く前に陽平の提案で隣の小学校へ寄ってみる。少しも変わらないその光景に懐かしさを覚える。一階の窓から中をのぞくと、壁に張られた絵には知らない名前ばかり書かれている。それが寂しい気持ちにもさせるし、希望のようなものも感じさせ複雑な思いになる。

「ハルが転校してきた時ビックリしたなー」

「ほぼ同時期やろ」

 陽平が越してきたのが一年生の夏休み。美陽はその後すぐの九月に越してきた。たった二カ月差なのに陽平は兄貴面をする。

「だって、めっちゃ綺麗な子が来たんやもん」

 綺麗な子という表現に美陽が引く。

「いやいや、違うって。身なりとか、言葉遣いとか、雰囲気とか。立ってる姿はなんかの花みたいな、言うやん」

「芍薬な」

「そう、それ!」

 芍薬がどんな花なのか知っているのかも疑わしい。しかし陽平の目にそう映っていたのなら悪い気はしない。

「芍薬は種類によっては毒あるけどな」

「あ、あー。そう、そうなんや」

 陽平が何を言おうとしたのかはだいたい想像がつく。危険なものをはらんでいた方が魅力的だと人は思う。しかし小学生にとってその魅力は仇となった。自分たちと違うと思えば排除する。そういう負の感情を子供は直球でぶつけてくる。

「ヨウがおらんかったら、どんな小学校生活やったかな」

 「ハルなら一人でもなんとか出来てたよ」なんて事は言わない。

 俺が全部追い払ってやった。守ってやった。だって、ハルは弱いから。

「でも誰もハルに頭で勝てんってなったら、大人しくなったよな」

「別に誰かを負かすつもりはなかったし」

 ただ、陽平がすごいすごいと褒めてくれるほど、もっとその言葉が欲しくなった。

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