13. 鬼が顔を出す
「ハル?」
こちらを振り向いていた陽平に気づかないほどぼんやりしていた。
「どしたん、そんな呆けて」
美陽の顔が面白かったのか、陽平がケタケタと笑う。
傾斜を下りきると陽平が手を離した。その先はあぜ道が続く。雑草が覆い茂った道はここを通る人がいない事を示している。傾斜の入り口から続いている雑木林の隣に沼はある。昼間なのにどよんと影が落ちているのは沼の淵をぐるりと囲んでいる木々のせいなのか、それとも気持ちがそう見せているのか。ひしめき合った樹冠は重そうに、今にも水面に浸かりそうなほどに垂れ下がっている。黒く濁った水は底を見せず、空を映し出していた。
沼に来たのは小学生ぶりだった。
「こんなちっさかったっけ?」
陽平の言う通り、記憶しているよりも沼はずいぶんと小さく感じた。
「俺らがおっきくなったからやろ」
「そっか」と陽平が沼の際にしゃがみこむ。少しも水中が見えないほどに淀んだ沼。それだけでも不気味だった。陽平と違い、美陽は沼から少し離れたところに立っていた。
「ハル、なんか変わったこととかある?」
ふるふると美陽が首を振る。
「ヨウ、あんま近づきすぎたら危ないで」
陽平の後ろから声を掛ける。少しだけ美陽の方へ振り向くと、よっこいしょと陽平が立ち上がった。
「これから学校行く時はこの道通ったらええんやんね? 明日からは一緒に行こうか」
「いや、でもヨウは一本遅い電車やろ?」
「駅まで行ってみよう」と陽平が歩き出す。その後を美陽が着いて行く。
「ここ通ってるときとか、ハルになんかあったら大変やん。学校に早く行く分には誰も文句言わへんよ。それに蘆屋も俺が一緒にいた方がいいって言ってたし」
先を行く陽平の背中を眺める。暑いのか、まくり上げたシャツから見える腕がたくましい。ロールアップしたパンツからのぞくくるぶしが力強く茂みを歩く。気付けば美陽が無意識に再び陽平の手を取っていた。美陽の手の感触に陽平が振り向く。
「怖い? 大丈夫やって。鬼が消えたら元通りやろ?」
そうだといいのだがと願う。その願いを口に出すことなくうつむく。「だいじょうぶだいじょうぶ」と陽平の鼻歌のような声が心を和ませる。
あぜ道を進んでいくと、舗装された道にぽっと出る。この道も一軒だけ建つ民家の為に作られたような道で、舗装は急に途切れている。道路とあぜ道の間には侵入禁止用のハードル型バリケードが置かれている。安全第一と書かれた黄色と黒色のしま模様のアレだ。陽平がバリケードをひょいと跨ぎ、美陽がそれを避けて通った。沼を抜けるとざわついた心が収まったようで、美陽がするっと陽平の手を離した。陽平が伸びをするようにして駅の方を眺める。
「案外駅までの近道かもしれんな」
陽平たちがいる場所からはもう駅舎の屋根が見えている。駅までの距離感もつかめたところで来た道を引き返そうときびすを返す。団地に置いて来た自転車を取りに戻らなければいけない。しかし回れ右をした陽平が歩を止めた。
「大丈夫?」
もう一度沼を通らなければいけない事を心配しているのだろう。
「駅から周って団地まで戻る?」
本当にヨウは、俺の事となると過保護の心配性だ。
「さっきも別になんともなかった。蘆屋の話が本当かと疑うほどや。心配いらん」
「分かった」と陽平がニカっと笑う。細いあぜ道は陽平が前を歩く。沼の前をもう一度通るが、やはりなんの変化もなかった。ただ少し違和感があった。嫌な感じではない。血液がめぐりだしたような、火照ったような感じに身体がそわそわとする。何かに対し、体が喜んでいる。そんな風にも感じた。
陽平と美陽が帰ったあと、残された家は寂しくだだっ広く感じる。先ほどまで充満していた声やニオイ、熱が忘れきれず、余計に独りを感じさせる。これが名残というものかと、そんな考えは虚しいだけだと蘆屋が気持ちを振り払う。
西日が落ち暗くなった部屋の中、灯りもつけずに携帯を手に取る。着信だけでも残しておけばいいかとコールしたが、耳元で「もしもし」と声がした。
「あ、おとん。仕事は? ――そうなんや。少し時間いい?」
父親の声を聞く蘆屋の顔は心なしか幼くみえる。陽平たちに見せていた、ませた小生意気な態度とは違っていた。
「やっぱり生まれてた。――そう、俺の友達。やっと、力を貸せそうなんよ」
下がった目じりと薄く笑った口元に蘆屋の喜びが滲み出る。父親からの言葉を嬉しそうに聞いている。
「ねえ、次はいつ帰ってくるん? ――いや、大丈夫。一人でも平気やから」
「じゃあ、また」と軽く別れの挨拶をすると通話を切る。報告が終わるとようやく部屋の電気をつけた。ダイニングへ向かい冷蔵庫を開ける。いつものように野菜炒めでも作るかと材料を取り出す。冷凍庫を開くと、冷凍された肉の中に牛肉を見つけた。
「ホイコーロー……」
蘆屋の中では少し特別な存在の牛肉。回鍋肉と書かれた箱に入った合わせ調味料を持ってコンロへ向かう。弾んだ気持ちの手さばきで夕飯づくりに取り掛かった。
6月に入るといよいよと梅雨真っただ中となる。あの豪雨を思うと、梅雨の雨は穏やかに感じた。しかし美陽の体調は芳しくはなかった。学校から帰ってきた駅の前、陽平が傘をさすと美陽を引き寄せる。
「俺がさしとくから、ハルは入っていき」
どうみても美陽に寄せられた傘のせいで陽平の左肩に雨が当たっている。
「ええって。あそこ道狭いし、一つの傘に入ってたら歩きにくい」
「そ、そっか……」
しょぼくれた陽平が美陽の後ろを歩く。今日も足元の悪い沼の道を歩いて帰る。あの日以来蘆屋の教えを守っていた。沼に近づき、山を遠ざける。あれから美陽は山に登っていない。
「今日は蘆屋おらんかったな。助かった」
陽平が息をつくと、美陽が「なんで?」と返す。
「え、いや別に深い意味は……。最近帰りが一緒やとついて来るやん」
そのまま美陽の家に行き、三人で過ごす事に少し不満を感じているなどと美陽には話せなかった。
「なあ、ハルはあいつもいた方が安心?」
陽平が美陽と肩を並べる。道路からあぜ道に変わるところで急に道は細くなる。さりげなく陽平が美陽の前へ出ると、先陣を切って歩きだす。
「いや、そんなん考えた事ない。ただなんかあった時いてくれた方がいいのかもしれん」
「俺だけじゃ不安やから?」
急に振り向いた陽平に驚きのけぞる。傘の張り出しがある分、いつもの距離感だと露先がぶつかりそうになる。
「そうじゃなくて、鬼の事は蘆屋しか分からんやろ?」
「そう。そうやな」
そう言って陽平が美陽から視線をはずす。離れていく陽平の瞳が一瞬、悦に入っていたように見えた。その瞬間、美陽の体がドクリと波打つ。心臓なのか、脳か、体か指先か分からない。ざわざわと感じるそれは今回が初めての感覚ではない。傘からちらりと見える陽平のうなじが異常に興味をそそる。なぜかそれを欲する衝動にかられた。傘の外へと手を伸ばす。伸ばした手でどうしたいのか美陽にも分からない。ただ陽平の首に手をかけたい。
ほしいものはどうすればいいのか、知っている。
はあと熱い息を吐いたその口に歯が覗く。犬歯につうっと唾液の糸が引いた。
「そういえば、ハルさ――」
振り向くと欲情したような顔で手を伸ばす美陽が目に入った。陽平に気付かれた瞬間、美陽が勢いよく陽平の首を掴みにかかる。
「ぅわっ、ちょ、ハル!」
抑制しようと陽平が両手で美陽の手首を掴む。傘がガサっと音を立て地面に落ちる。
こういう時、「まるでその目は美陽のものではないようだった」と、そうであれば幾分か良かった。なのに陽平を刺しているその瞳は、美陽のそれだった。それでも体格からして陽平が押し負けることはない。美陽の力が増しているとか、そのような変化がない事は救いだった。
「ハル! ハル、どうした!? 落ち着けって」
陽平の声に反応したのか、ぐいぐいと首を掴もうとしていた美陽の腕の力が抜けていく。陽平に手首を掴まれたまま、自分が何をしようとしたかを美陽が確信していく。やがて美陽の目元に影が滲みだした。
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