9. 蘆屋累
陽平と猫を拾った日、それは二人だけの秘密となった。団地の小山にある祠に猫の入った段ボールを置いた。明日は餌をもってきてやろうと陽平が意気込み、その日は解散した。とても気持ちのいい晴れの日だったのに、夜になると天気が急変する。
家の中まで響いて来る雨音、ゴロゴロと遠くに聞こえる空の慟哭。次第に強くなる閃光。ぴかっと光ればほぼ同時に空気を切り裂き雷撃が轟く。そんな中、美陽はカッパを着込み長靴を用意した。本当は陽平にも相談したかったが、夜遅くに連絡を取るなど許されぬことは知っている。一人でもいいから様子を見に行こうと思った。昼間拾った猫の元へ。猫が気がかりだったかと言えば、そうでもない。明日二人で見に行ってもいい。しかし美陽は守りたかった。
二人だけの秘密を。どうしてもなくすわけにはいかなかった。
視界が遮られるほどの豪雨に、もはやカッパも長靴も意味をなしてはいなかった。しかし夢中で山の階段をのぼる。土でできたそれはぬかるみ、足元がぐらつく。それでも必死に山をのぼった。頂上に着くと、背を向けた祠が見えた。そして正面に回り込もうとしたとき、いるはずもない人の気配を感じた。いや、今となっては人だという先入観だったのかもしれない。ただ不気味に祠の前にしゃがみこむ老婆の姿を美陽は見た。雨に打たれずぶ濡れの体は微動だにしない。気味が悪い。触れてはいけない。話してはいけない。気付かれてはいけない。硬直した足を何とか一歩下がらせた。きっと雨音と雨の簾が自分を隠してくれるはず。そう信じ込み引き返せと体に命じる。ようやくもう一歩後ずさったところで老婆の首が動いた。ひねった首がこちらに傾いている。
「あんたのかい?」
老婆の前には段ボール箱が置かれている。中で毛が動いているのが見えた。何と答えるのが正解か分からなかった。首を縦にふる。放棄すればよかったはずなのに、美陽には手放す事ができなかった。陽平との、大切な秘密を。
「あんたが持ってきたんかい?」
意図が分からない。ただ美陽はもう一度頷いた。幼い子供が嘘をつくには勇気がいった。それほど気味の悪い声が美陽を脅えさせる。
老婆の震えた声が美陽の耳に今でもこびりついている。忘れたくても忘れられない。思い出したくなくても思い出す。消えたと思ったのに聞こえてくる。
「ほなこれは
そう言うと立ち上がった老婆が獣道の方へと歩いていく。美陽たちでさえ勢いよく下れば滑って転げ落ちそうな険阻な道である。こんな大雨の日は危険だと、引き留めた方がよいかと考えたが、
さきほどまで動いていた猫がみるみると硬直していく。びびびびと痙攣したかと思えば尾っぽ、足先、尻、胴とぴんと張ったまま動かなくなっていく。
「ああ……」
美陽が猫の前にしゃがみ込むがどうすることも出来ない。次第に硬直が顔まで達するとギャっと苦しい鳴き声が漏れ、まるで口から魂を吸い取られたように口を開いたまま固まった。その壮絶な光景に美陽が尻もちをつく。ばしゃっと泥に手をついたがそんなことはどうでもよかった。ふと祠を見上げると狐のような尖った顔の何かが美陽を見つめている。その口元と目元は笑っているような、そんな薄気味悪い感覚を覚えていた。
「狐の置きもんとか、あそこにあったかな」
美陽が一連の出来事を陽平に話し終える。最後におぞましい「何か」が記憶から蘇る。真剣な顔のまま話を聞いていた陽平が祠や小山の頂上を思い出す。
「ないよ、そんなん。見たことない」
「そうか」と美陽がうなだれ、組んだ両手で額を支えた。
「あの日は、あったん?」
「分からん。鮮明に思い出すんが、こわい」
美陽の伏せた顔をのぞきこむ。陰った美陽の頬に手をあてがう。
「ごめん、もうええよ。後は俺が蘆屋に聞いて来る。美陽はもう忘れて休んどり?」
美陽が陽平の胸にトンと頭を預ける。
「ヨウさ、俺に謝るハードル下がりすぎやで」
胸の中の美陽に向かい、陽平が「ごめん」ともう一度零した。
陽平がいつも入る事のない教室へと向かう。中をのぞくと窓側の席に目的の人物はいた。昼休みだというのに一人でぼうっと窓の外を眺めている。緩くウェーブがかった黒髪、それに右目の涙袋と左頬にあるほくろのせいだろうか。
陽平が無言のまま蘆屋の横に立つ。人の気配を感じた蘆屋がその方を見上げた。
「うわ! 陽平くんやん。めずらし」
黙っていればクールな蘆屋の表情が人懐っこく変わる。これが人の心を油断させる。人たらしとはこういう顔を出来る人の事を言うのだと陽平は思った。
「何? わざわざ建築科まで来て。陽平くんのいる機械科は校舎もちゃうやろ?」
陽平が握り締めていた手にぐっと力を入れる。もしあの時蘆屋が言ったことがただのジョークだったのなら、このことを話して美陽に変な疑惑を持たれないだろうかと懸念していた。陽平が何を語り出すのかワクワクとした目で蘆屋が見つめている。陽平が意を決して口を開いた。
「あのさ、蘆屋に聞きたいことあるんやけど。ここだとちょっと……」
「美陽くんのこと?」
ケロっとした声で蘆屋が尋ねる。陽平の体がぴくりと反応した。蘆屋が頬杖をつき顔を傾ける。興味津々の目で、楽しそうな口元で、こういう顔で人を誘うのだと陽平が警戒する。
「だから、ここだと」
「オニ」
「マジかよ!」と大声で騒いでいる生徒たちの声が教室内に響く。談笑する声、外でサッカーをする生徒の喊声、動画やゲームの音、何かを落としたのかガシャンと鳴る金属音。それらにかき消された蘆屋の声。はっきりとは聞こえなかった。ただ口の形が明らかに「鬼」と言った。
「その事ちゃう?」
動揺したのだろうか。陽平の瞳がゆらゆらっと泳いだ。蘆屋が隣の席を指さし、座ってと示す。空いているその席に陽平が腰を下ろした。ちょいちょいと蘆屋の人差し指が距離を詰めろと指示をする。陽平がガタリと音を立て椅子を近づける。相変わらず色気が駄々洩れている蘆屋に戸惑い目を伏せる。そそられたのかと勘違いしてしまう。陽平にはまだ免疫がない。
「その、蘆屋さ、小3の時やねんけど。鬼がどうとか言ってたの、覚えとる?」
「覚えとるよ?」
「あ、あれってさ、どういう意味、やったのかなって」
やっと告白してくれたのねと、そう言っているようにふふっと笑う。
「美陽くんに鬼が入っとるよって言ったやつやんな」
そうだと陽平が頷いた。ごくりと唾を飲み込み蘆屋の答えに備える。
「あの時は直接的な言い方避けてんけどな。美陽くんは孕んどるんよ」
「は?」
「やから、美陽くんは鬼を孕んどるんよ」
孕むとはどういうことか。理解が追い付いていない陽平の顔を楽しそうに蘆屋が見ている。理解が出来ないのはそれだけではない。どうして蘆屋がこんなにも悠長に状況を楽しむような顔をしているのか分からない。
頭がズキっと痛む中、美陽の事を考える。あまり表に出さない美陽の笑顔を思い出す。うっすらと浮かべる笑顔。儚く優しい顔。そして助けを求める美陽を思い出す。不安で怖くてたまらないと伝えて来た目を思い出す。その顔を振り払うように陽平が首を振った。
「蘆屋は、鬼のこととかなんか知ってるん?」
「知ってたら?」
のんびりと構えるその態度にイラついている場合ではない。
「知ってること教えてくれ。俺はハルを助けたい」
蘆屋の口がにっと笑う。
「俺は待っとったんよ? 陽平くん?」
深く頭をさげる陽平を満足そうに見つめる。「頼む」と懇願する陽平の肩に蘆屋がぽんと手を置いた。
第一章 完
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