8. トラウマ

 だれもいない美陽の家は秘密基地のようだ。そう小学生の頃から思っていた。日常から隔離された秘密基地。いつもここに来るとワクワクとした。しかし今日はいつもと違った。

 陽平が冷蔵庫からお茶を出してコップへそそぐ。他人の家とは言え、もう何年も通い親しんだ家。勝手はだいたい分かっている。コップに入れたお茶を持ち二階へとあがる。部屋のドアを開けると美陽がぽつんと座っていた。

「ごめん、勝手に台所入ったで」

 美陽の前にお茶を置く。それに手を付けるようすはない。陽平が美陽の横に腰をおろす。なるべく明るく振舞った。

「ハルのタイミングで話したらええで」

 コチコチと時間を告げる時計の音が鳴り響く。陽平はひたすら待った。たまに美陽を見ては優しい顔を向ける。胡坐をかいた身体を前後にゆらゆらとゆらしながら気長に待っていた。

「最近天気が悪いと体調崩すやろ」

 美陽の声が聞こえると陽平の体がぴたりと止まる。

「雨のひどさによって体のだるさも強くなるねん。去年くらいから? この辺りで豪雨続いたやん。意識が薄れることもあって、その日のことよく覚えてないこともあって」

「病院では異常ないって言われたんやんな?」

 こくりと美陽がうなずく。

「今日みたいな、なんか変な夢みることもあったん?」

「夢……なんやろか。さっきの事も、自分の意思っていうか、意識があったように思う」

 理解に苦しむ陽平が顔をしかめる。

「ハルが翔也を溺れさせたって思ってるん?」

 「分からん」とだけ美陽が答える。陽平が頭を抱えた。

「そのさ、体調悪くなったんって、いつから? 記憶なくなるみたいな」

 それが今回のことと関係していると美陽は考えているのだろう。実は陽平にも思いあたる事があった。もし、美陽がこのことと関係しているならだ。説明を付けることが出来るとしたら、これしかなかった。もちろん、そんなことありえないとまだ疑っているのだが。

「中二くらいからひどくなった。でも変やと思ってたんはもっと前。何となく、いつからかは分かってる」

 異変が起きた分水嶺に心当たりがある。それを口にしたくないのだろう。美陽にとっては未だにトラウマなのだ。


「猫ちゃう?」

 陽平が静かに、まじめに、今度こそ美陽を逃さないと言葉を刺した。はっとした美陽が陽平の顔を見る。笑ってはいなかった。真剣な顔が美陽を見ている。美陽がひゅっと息を吸う。緊張した美陽の額に汗が滲み出ている。おでこに張り付いた前髪を陽平が整えてやった。

「大丈夫?」

「ヨウ、何か覚えてるん? あの日のこと」

 あの日とは猫を拾った日、もしくはその次の日のことだろう。しかし陽平は首を振った。

「あの日のことはそんなに。やけどさ、ハル覚えてない? 蘆屋が言ったこと」

 蘆屋。その名前はもちろん覚えている。小学校の同級生、蘆屋累あしやるい。小学三年生の春に転校してきた男子生徒。大人びていて浮世離れしていた雰囲気のせいで、転校当初は近づきにくい存在だった。皮肉まじりにニヤつく顔をはっきりと覚えている。そんな蘆屋が美陽に言った。丁度猫の事があったすぐ後だった。

「美陽くん、中に鬼入ってんで」

 からかうなと陽平が言い返した。それでも蘆屋が楽しそうにカラカラと笑いニヤついていたのを、はっきりと覚えている。


「ヨウは、あれ信じるん? もしかしてほんとに鬼なんかいて、それが俺の中におると思うん? それで今回のこともその鬼の仕業と思うん?」

「いや、分からん。でもずっとひっかかってて、ずっと忘れられへんかった。今日ハルが怖がってるの見て、ほんまにそうちゃうかなって、思えてん」

 鬼がこの世に存在する? ハルの中に入ってる? 信じられないことは分かっている。それでも美陽を苦しめている何かがあるのだとしたら、その可能性があるのだとしたら、陽平はそれを消してあげたいと思う。

「蘆屋な、今同じ高校やねん。だいたい俺と同じ電車やったからハルとは会わへんかったかもやけど。まあ、俺も高校であいつと話したことないねんけど」

「……そうなん?」

 少し驚いたように美陽の目が丸くなる。中学から地元を離れていた美陽にとって小学校の同級生との関係が希薄になっているのも不思議ではなかった。

「なあ、ハル。嫌かもしれへんけど、教えてくれへん? あの日、何があったん? 何を見たん?」

 美陽が少し口を開く。しかしどうしても心がセーフティとなり言葉を吐くことを拒ませる。

「ハル、大丈夫。俺がいるから、俺がなんとかするから。ずっとそうやったやろ? ハルを守ってやれるのは俺やったやろ?」

 そうだ。ずっとそうだった。ここへ転校してきた時、揶揄われる美陽をかばってきたのは陽平だった。いつも美陽は陽平の背中を追っていた。たくましくて優しいその背中が好きだった。そのことを思い出すと自然と心がすっと落ち着く。陽平が傍にいるという事実が美陽の安心感へとつながる。まるで太陽のようにぽかぽかと暖かい光が美陽の心を包み込む。

 だんだんと息がしやすくなる。ゆっくりと美陽があの日の事を話しだした。

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