6. 事故―2
3時のおやつにと美陽が持ってきたケーキが机に並ぶ。今日のために美陽の母親が用意してくれていたものだった。真っ赤ないちごがまるごと乗ったショートケーキ。キラキラと艶めくパナージュをまとったフルーツタルト。こってりと濃厚なクリームに包まれたチョコレートケーキ。それらを前に翔也と陽平が目を輝かせる。
「どれにする? 翔也先に選び」
大人ぶる陽平だが、明らかに目がチョコレートケーキにくぎ付けだった。
「お兄ちゃんたち、先に選んで」
乗り出した身をひっこめた翔也に美陽が「いいのか?」と目で訴える。
「悩んでたら選べなくって。どれも美味しそうだから」
「じゃ、俺チョコレートケーキ」と真っ先に取り上げる陽平に「おい」と美陽が叱る。
「いいの、本当に。美陽くんも選んで」
眉をひそめながら遠慮する翔也に、それじゃあと美陽がショートケーキを選んだ。陽平と翔也が美味しそうに頬張り出すと、美陽もショートケーキをひとくち口に運ぶ。ぱくぱくとリズムよく食べ進める陽平の口元にはチョコクリームが付いている。美陽がティッシュを渡しながら翔也を見遣った。陽平と二人だと年相応にはしゃいでいるのに、やはり今日は借りてきた猫のようだ。
「翔也、ちょっと交換せえへん?」
そっと自分のショートケーキを差し出す。交換と言ったのは子供らしくない翔也への気遣いだった。翔也の頬がぽっと色づく。見事に美陽の配慮のノってくれたようだ。
「じゃあ、ひとくち交換」
翔也も自分の皿を差し出すと美陽のものと入れ替えた。
「え、俺は? 俺もほしい」
陽平まで参入してくるものだから、美陽がしっしと追い払う。
「お前は自分の食べとけ」
ちぇっと口を尖らせた陽平が最後に残った大きな欠片を口に放り込むと、もっもと頬張った。
「そういやハル、大学は京都行きたい言うてたやん?」
「ん?」と美陽が首をかしげる。そんな事を陽平に話しただろうか。
「この前ハルのお母さんがこっち残るみたいって言ってて」
「なんやいきなり。別に先の話やし」
口に頬張ったチョコレートケーキを飲み込むとそのままお茶をぐいっと口に含む。ケーキを流し込むようにごくりと飲み込んだ。
「でも京都っていい大学いっぱいあるんやろ? 俺は勉強あかんけど、ハルならどこでも行けるやろし」
煩わしそうに美陽が皿を片付ける。翔也は少し冷え付いてきた空気を感じたのか、自身の存在を薄くする。
「県外出んくても学校あるし」
「でもめっちゃ出たがってたやん。中学の時から大学なったらここから出るって」
「なに?」
美陽の目が険しく陽平を睨む。その瞬間陽平が慌てだす。
「いや、違って。もったいないなって。ハル頭いいんやから。諦めたらもったいないって思って」
「諦めるとかじゃない。ここにおってもええなって、最近思ってるだけ」
「でも、ほら、なんか理由あるんやったら言うてくれたら――」
「だから。しつこいって。俺に夢馳せるのやめろって」
あっと開いた口のまま陽平がフリーズする。
「俺が大学行くとか、応援したいとか、有名なとこ行ったら自分の自慢になるんやろ?」
胸の内を言い当てられたことより美陽の目つきが変わった事に焦った。
「ごめんごめん。ハルの気持ち知りたくて聞いただけで。いや、実際図星。ごめん」
「怒らんとって」と陽平の目が縋る。その目を見ると我に返る。いつもそうだった。
「いやだから、怒ってないから。言い過ぎた」
「ハルがここにおりたいなら、それがいいやん。うん、それがええよ」
飼い主に媚びる犬のようだと翔也が思う。あんなに謝り倒す陽平を始めて見た。今まで想像も出来なかった姿だった。陽平に対する印象が変わったわけではないが、この二人の間にある何かが少し奇妙だと感じた。それが何かと言われれば、答えることはできなかった。
美陽と陽平がケーキの皿や飲み干したジュースのコップを片して立ち上がる。「夕飯は? 三人で食べるんやろ?」と陽平が聞けば「今日は出前」と美陽が返す。いつもの空気に戻った二人が階段を下りていく。足音とともに二人の話声も小さくなっていった。
昼間はあんなにも晴れていたのに。皆が寝静まったころにそれはやってきた。
部屋のベッドで寝ていたはずなのに、まるで滝壺の中にいたかと錯覚するくらいに水の音が煩い。
手を引かれて歩いていたような、自らの足で歩いていたような。
瀑布の中を歩いているのか視界が悪い。数寸先が全く見えない。
うつらうつらと歩いていると、突然足首を何かに掴まれた。
抵抗、状況把握、そんなものする間もなくずるっと水の中に引きずり込まれる。
慌てて足を引き抜こうとした瞬間、ずるずるずるっと胸まで一気に落ちていく。
頭の上まで水に浸かると息が出来なくなった。パニックになり吸い込んだ肺に水が流れ込む。
そのまま意識を失い、助けを求めて水の上へと伸ばしていた手が力を失くした。
間もなくして季節は梅雨を迎える。からっと晴れては土砂降りを繰り返していた町も今はじめじめとした空気に覆われる。これはこれで気分が下がるような毎日だった。以前の嵐のような天気に見舞われることはなかった。たった一日をのぞいて。
陽平がアラームの音で目覚めると枕元に置いてある携帯に手を伸ばす。時間を確認するついでに画面をチェックするとメッセージが届いていた。送信主は南佳織だった。メッセージを開いた陽平の頭が一気に冴える。
『昨日の夜中、小学校近くの水路で子供が溺れたって。青葉台に住んでる子らしいけど、知ってる子とちゃう!?』
南が子供というくらいだから小学生くらいだろうか。まっさきに頭に浮かんだのは翔也だった。飛び起きて一階へと駆け降りる。まだ母親は起きてきていない。テレビをつけたが、明るい情報番組や天気予報が流れているだけで、こんな山奥の小さな町のニュースなどどこも報じてはいない。それもそうだ。まだ溺れたという情報なだけで、その子供がどうなったかなど分からない。大したことがなければニュースなどにはならない。陽平が再び携帯を見る。美陽から何か連絡がないか気になった。しかしホーム画面は何も伝えてはこなかった。
外着に着替えると家を飛び出す。自転車にまたがると一目散に向かったのは小学校だった。小学校へは団地から抜け、緩いカーブを描く坂道を下っていく。左には田んぼが広がり、右には林と呼ぶか、森と呼ぶか迷うほどの木の茂みが続く。茂みは傾斜をなして上にそびえる。それは小学校の裏山と呼ばれる場所から繋がり続いている。
青葉台の方面から通学する生徒たちはみな正門ではなく北門を使う。そして北門の隣にはそこそこに立派な神社があった。
陽平が北門を目指し坂道をくだっていると、すでに学校の前の水路が騒がしくなっていた。田んぼ用に作られた大きめの水路は小学生からすれば川のようだが、普段はちょろちょろと水が流れている程度で危険性はない。ただ昨晩局地的に降った雨のせいで水が溢れだすまでになっていたのかもしれない。それでも子供が溺れるとなれば不自然だった。水路の高さ然り、その時間帯然り。
人だかりが出来ているその場所には近づけないようにロープが張られていた。パトカーと警察官数人の姿も見られたが、事件性はないようだった。そして集まってきていた人の中に見知った人物を見つける。慌てて自転車を道路脇に停めるとその人物へ駆け寄った。陽平に気付き振り向いたその顔に特別驚いた様子はなかった。
「ハル! どうして」
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