5. 事故―1
たった二両の電車が来るとドアの「開」ボタンを押す。通勤通学の時間帯は二両編成だが、普段は一両で走っていることが多い。乗り換えをする亀本駅までドアは手動で開ける。三人なら余裕で座れるほど空いている車内。横長の椅子に三人で並んで座る。陽平を真ん中にして美陽と南が両サイドに腰掛ける。南が身を乗り出し、二人に話しかけた。
「そういえばさ、昨日の雨で。聞いた?」
「何を?」と陽平が返す。
「山下さん。あのおっちゃん昨日
「あんな天気悪い日に? なんで厳霊山?」
厳霊山は駅から見て北西に位置する山。標高は750mほどとさほど高くはない。昔は山頂に寺院があったとも聞くが、陽平たちの興味をそそる話ではなかった。
「あそこほんまによく雷おちるよなあ」
南の口ぶりは疑問に思っているようだが、声のトーンから実際はあまり関心がないことがダダ漏れだった。
「この前ほら、帰り道でハルと一緒に会った時元気やったから。心配やな」
こちらは本当に心配しているといった表情の陽平。「そうやな」と美陽が静かに返した。
山下は一時意識を失っていたが、その後目を覚ましたと人伝いに聞いた。なぜあんなに天気の悪い日に厳霊山に行ったのか、誰も分からないとも聞いた。そしてなにより奇妙なのは、本人もそのことを覚えていないということだった。
「うわあ、今日も雨ひっど」
陽平が朝家を出ようとすると、またしても強い雨が町を包んでいた。しかしまだ傘をさせば出歩ける程度。面倒くさがりながらも駅へと向かう。まくり上げたズボンのすそはぐちょぐちょに濡れ、スニーカーの中まで雨が浸っている。やっぱり休めばよかったと考えながら駅の待合室に入った。これでは誰も駅に来ていないだろうと思っていたのに、待合室には人が一人座っている。項垂れた背中は具合が悪そうに見えた。
「ハル! どしたん。電車は?」
「あ、ヨウ。止まってて。ごめん、連絡すればよかったな」
だるそうに上げた顔は明らかに青白い。
「マジか。この雨やったらギリ走ってると思ってんけど」
なんで? と言いながら美陽の横に座る。すかさず美陽が陽平の体にもたれかかった。
「駅員おらんから分からん。山の方はもっとひどいんかもな」
陽平が美陽の額に手を当てる。熱はないようだ。雨がひどい日に体調を崩す原因は分からない。病院へも行ったというが異常は見つからなかったらしい。きっと美陽が一番不安なはずだ。
「大丈夫か? 家までおぶってくし、帰る?」
「いや、じっとしてたら良くなる、と思う」
もしかしたら雨の中に出れば余計に悪化するかもしれない。雨が弱くなれば連れて帰ろうと考えながら美陽の頭を撫でた。もう少しもたれ掛かりやすいように体勢を変える。すると沼の泥濘に身を沈めるように美陽がどぷりと陽平に体を預けた。
「大丈夫大丈夫。ハルがよくなるまで一緒におるから。なんかあったら俺がなんとかするからな」
陽平の言葉に美陽に纏いつき締め付けていたものが少しばかり軽くなったように感じる。美陽の表情が和らいだ。それを見て安心したのは陽平の方だった。
「ハル、俺がいたら大丈夫やから」
「うん」と小さく答えた美陽が目を閉じる。美陽が頼れるのは俺だけなのだと、しっかりと身体を支えてやる。外に目をやったが、未だ雨が弱くなる様子はなかった。
一時間、いや二時間は経っただろうか。陽平もうつらうつらとしてきた頃、突然駅舎の入り口を誰かが塞いだ。
「え! 陽平……と、美陽くん!?」
南の明るい声が聞こえ、入り口の方を見る。そこに立っていた南の後ろには晴れわたった空が映っている。
「え、なんで膝枕!?」
「南やん! 雨やんだんか。気付かんかった」
元気に手を振る陽平よりも、南の目は違うものを捕えていた。そしてゾッとした。
陽平の膝を枕に寝ていた美陽が薄目を開ける。薄く開いた瞼からのぞく視線と目が合う。この目だ。この目が南は苦手だった。まるで威嚇し敬遠するような。美陽自身に対してじゃなく、陽平に近づくものを遠ざけようとする目。まるでこれ以上縄張りに入れば獲物を絡めとり、絞め殺そうとする蛇のような目。突き刺さった視線で動けずにいる南を陽平が不思議そうにする。
「どうした? 雨やんだし、電車動くかな?」
何も知らないのは陽平だけ。今の美陽の事をたぶん陽平は知らない。ただ無邪気に明るい笑顔を南に向けている。
「そう思って来てんけど」
たじろぐ南がむくりと起き上がった美陽にビクッと身体を跳ね上げた。
「ハル、もう大丈夫なん?」
「うん、ちょっと前から大丈夫やった」
「そっか。よかった」
どうしてそんなにピュアな笑顔を向けられるのか。美陽の本性に気付かないのか、それとも知っているのか。昔から二人の関係はこうだった。なぜか陽平が美陽の傍にいることが危険なのではないかと、そう感じる事があった。
すこしばかり天気のいい日が続いたある土曜日の午後。陽平は美陽の家にいた。そして初めてもう一人の客人を迎えていた。翔也がそわそわとローテーブルの前に正座して座る。先日陽平がたまたま翔也の母親と遭遇した際に、翔也の子守を頼まれた。今日は両親とも帰りが遅くなるらしく、20時まで預かってくれないか、とのことだった。慣れた様子でマンガを読みふけっている陽平の横で硬直したままの翔也。いつもは自分が入る事が許されない禁域に踏み入ってしまった気分だった。ガチャリと音を立てて開いたドアに過剰に反応する。ドアにはお茶とお菓子を持った美陽が立っていた。
「そんなに緊張しなくても」
そう言ってお盆を机の上に置く。
「翔也、ケーキ好き?」
思ったよりも親しげに話しかけられ、ようやく翔也の警戒心もゆるまる。
「好き好き! ケーキ好き!」
「ヨウ、お前には聞いてない」
身を乗り出しアピールする陽平を美陽が制止する。翔也にもう一度優しい表情が向けられると、こくりと一度頷いた。
「じゃあ、宿題終わったら食べようか」
「よっしゃ! 早いとこ終わらせようぜ」となぜか陽平が張り切る。そんな陽平にため息をつく美陽を見ていると、なんだかいつもと変わらない二人の光景にだんだんと翔也の緊張もほぐれていった。
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