第26話
「さぁ、みんな、洗濯物を出して!今日は太陽がピカピカして雲一つない素晴らしいお天気じゃない。絶好の洗濯日和よ!」
陸の上での緊迫感から解き放たれたせいだろうか、寝台に横になったままぐっすり眠りこんでしまったメイベルは、朝日とともにヒバリのように早起きしてこのダイヤモンド号での空白を埋めるようにキリキリ働こうとした。
「おーメイベル、もっとゆっくり休んでいていいんじゃぞ、疲れたろうに」
「リーおじさんこそ、操舵でつかれたでしょう?船室で横になってなさいよ」
「いやいや、エディが腰が痛かろうって早めに変わってくれたからの、ぐーすか寝取ったわい。それよりメイベル、船に戻ってから何も食っとらんそうじゃないか。ホレこれでも食いな」
リーじいさんがほおってくれた少し干乾びた黒パンとチーズを受け止め、齧ってみる。
「美味しい」
パサついたパンと塩気の強すぎるチーズ、お世辞にも上等とは言い難い朝食であったが、空きっ腹に染み渡るような満足感を感じる。
考えてみれば、きついコルセットで気分が悪くならない様にと婚礼の儀の前の晩から少量のスープしか口にしていなかった。けれど、それを思い起こす暇もないほど怒涛の展開で自分でも空腹に気付いていなかったのだ。
「実はね、あたしすっごい腹ペコだったの。ありがとう、リーじいさん」
「ほっほほほ。しけたもんじゃがの、それでもここじゃあ上等じゃ。空腹は最高の調味料じゃからの」
リーじいさんは少し曲がった腰をさすり、白髪交じりのあごひげを撫でた。
リーじいさんはメイベルが生まれたころにはもうじいさんで、ダイヤモンド号の一番のベテラン総舵手だ。
「キャプテンとはな、古くからの付き合いじゃからの」
その言葉に以前のメイベルは何の疑問も持たなかったが、ひょっとしたら海軍提督だったころの付き合いなのかもしれない、両親の過去を知ってしまった今ではそんな考えがふと頭をもたげる。
「ねぇ、リーじいさん」
もしかしてリーじいさんも海軍にいたの?そう口から出そうになった言葉を、メイベルは飲み込む。
何故、海賊になったのか?国を捨て家族を捨ててまで何を追い求めたのか?知りたくないと言えば嘘になる。けれど、それはここでリーじいさんに気軽に訊くことではないように思われた。
訊くならばやはり、キャプテンダイヤモンド、父に直接ぶち当たるしかないのだ。
気まずいのだろうか、いつもなら朝日とともにデッキに上がって海原を眺めているキャプテンダイヤモンドはやはりまだメイベルの前に姿を現さない。
これでは何も訊きようがないのだが、わざわざ船の中を探し回ってその姿を探す気にはどうしてもなれなかった。
メイベルの方も、やはりまだ気まずいのだ。
自由に陸の上で生きてほしい、それが父の願い、しかし陸の上に上流階級の中に、公国でも帝国でもメイベルの自由はなかった。
けれど、それはメイベル自身のせいかもしれない。スージーのように確固たる自分があれば、陸の上だって自分の道を自由を見つけられたかもしれない、一度目も、二度目も、結婚は誰かに強制されたわけではない。他に道の見えなかったメイベルが自分で選んでしまったものだ。父はそんな流されるままの判断ではなく、身分を捨てて大海原に出た自分たちのようにメイベルが自分の道を見つけるのだと思っていたのかもしれない。
そんな期待に応えられなかったのかもしれない、そんな暗い雲のような考えがメイベルの胸を重苦しくさせる。
父さんはあたしのこと心配じゃなかったのかしら。せめてお前のためを思ってこうしたんだよとか後から手紙でも書いてくれればよかったのに。一度もこなかった。説明がなくても、どこか遠い場所の絵葉書とか、それだけでも送ってくれればどんなに気持ちが安らいだか。でも一度もそんなことはなかった。
もしかして、父さんはあたしのことが足手まといだったのではないかしら?
ジャネットのように力もなく弓の名手でもない、一度教えてもらったら練習用の木の矢は少しも飛ばずにへなへなと足元に落ちていってしまった。
陸育ちのロレッタだって体術の心得があるというのに。
今までは運よく奴隷船にしかほとんど遭遇せず、たまに現れる荒くれものたちとの戦闘の時は船室に小さくなって隠れているだけだった。
何の役にも立たないのだ。
海の上でこれからずっと生きていくのは無理だと思われて、それでペンハット家にいかされたのかしら?
ぐるぐるぐる雲にまかれて雁字搦めになりそうで、メイベルは自分の頬をピシャリと叩いた。
あれこれ悩んでも仕方がない、とにもかくにもここはペンハット家でも帝国のお城でもない、自分は陸を離れてこの海の上に戻ってきたんだ。
この生まれ育ったダイヤモンド号で、自分は自分にできることをするしかないんだ。
「あーなんかお腹が満足したらぼーっとしちゃった!お洗濯、お洗濯っと。リーじいさんはちゃんと最近選択してる?」
「ほっはっは、ジャネットは洗濯が不得意で服をボロボロにしちまうからなぁ、メイベル、お前さんが陸に行ってからはワシとエディでやっとったんだぞ、まぁ二月に一回ほどじゃけどなぁ」
「やだーリーじいさん、やらなすぎよ」
「ほっはー、シャツが魚みたいに生臭くなっとったわい」
「もー、あたしが戻って来たからにはそんな不潔なことにはもうならないわよ、さーがんばるぞー」
「おっ、メイベル、これも頼むよ」
「あっ、俺も俺も、着れるもんがもう一枚もなかったんだよ」
あちこちからわらわらと湧いてきた船員たちの山盛りの洗濯もの、それを洗っていれば余計なことを考える暇なんてなくなる。
メイベルはジャネットの御下がりの縞模様のバンダナをぎゅっと頭にまき、一心不乱に洗濯に取り掛かった。
じゃぶ、じゃぶ、じゃばん。シャボンの泡に混じって桶の中の洗濯ものからは茶色の汁がじゃぶじゃぶ出てくる。
洗っては干し、また洗ってを繰り返しているうちにメイベルの手はすっかり赤くなってしまい、指先は擦り切れてうっすらと血が滲んでいる。
「やだ、今まではこんなことなかったのに」
陸に上がりペンハット家に行ってからのこの数年間、メイベルは家事という家事をしたことがなかった。陸の上、ましてや上流階級のしきたりなど何一つ知らなかったメイベルが一宿一飯の恩義にと玄関先を箒で掃いているのを見つかったとき、お礼を言われるどころかキャロラインに「主の娘ともあろう立場の者が、そんな姿をさらしてはみっともない」とこっぴどく叱られてしまった。その怒りようは木登りをしたときよりも上だったように思う。
それに懲りたメイベルは、その後一度も家のことに手を出そうとはしなかった。
そんな暮らしの中で、皮膚もすっかり薄くなって弱くなってしまったのだ。
「あたしったら、もう洗濯すら満足にできなくなっちゃったのね」
はぁっと溜息をつき、赤い掌をまじまじと見つめる。
「頑張ってよね、あたしの手、あんたはお嬢さんの手じゃないのよ。海賊王の娘、ダイヤモンド号の洗濯係の手だってことを思い出してね」
そう語りかけて滲んだ血をスカートで拭い、ロープに所狭しと並びバサバサとはためくシャツやズボン、バンダナの皺をパンパン伸ばす。それらの隙間から見える海面はとても静かで、イルカもトビウオも顔を出さない。そして、「うわぁ、魚が跳ねた、えっ飛んでる?なにっ、何なのっ」とおっかなびっくりだった小さな男の子を思い出す。
あーテュール王子って、あたしに助けられたから好きになっちゃったのよね。別にあたしは自分にできる当たり前のことをしただけなのに。今頃悲しんでいるのかな、でも自分のことよりまずキッドのことを心配してくれるような優しい人だもん、すぐに素敵なご令嬢が現れるわよね。心配いらないか。安心安心。
安心、のはずなのにいつか現れるだろう素敵なその人とテュール王子とのことを想像すると何故かちくりと、ちょっぴり胸が痛む。
うーん、キッドのことが心配だからかしら、でもテュール王子が気に入る人ならキッドをいじめたりしない、きっと可愛がってくれるわ、それでキッドも懐いてあたしのことなんてすっかり忘れちゃうかも。やっぱり安心安心。
ちくりを気にしない様に、振り払うようにしてメイベルは洗濯ものの続きに精を出す。
そうして、山盛りの洗濯ものの入った桶の底が見え始めたその時、高見台から望遠鏡で海原を見つめていたエディが血相変えて走りよって来た。
「マズい、こりゃマズいぞ。マゼンダの旗が見えてきた!キャプテン、キャプテンはどこだ!」
マゼンダの海賊、その噂はメイベルも船員たちから聞いたことがある。
どくろ模様のついたマゼンダの旗を掲げたブラッディスカルのポイズンスカル号、南洋を荒らしまわる凶悪な海賊船だ。
遠い海原、しかしだんだんと肉眼で微かに確認できるほどに、小さく、でもそのマゼンダの旗はにじり寄って来ていた。
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