第25話

 どうしよう、どうしよう、どうしたらいいのか……

 ぐるぐるとした気持ちでダイヤモンド号へと三年ぶりに乗り込んだメイベルであったが、その心配は杞憂に終わった。

 キャプテンダイヤモンドがあたたかな出迎えで、わだかまりを一瞬で溶かしてくれたからなどではない。


「おー、メイベルじゃねぇか。大きくなったなぁ」

「いやぁ、すっかり見違えちまって、どこのお姫さんが乗って来たのかと思ったよ」

「やだぁ、そんなに褒めたってなにも出ないわよ。ボーおじさんに、ハンスさん」

「うわっ、メイベル、後ろのその綺麗なお嬢さんは誰だい、俺っちこんな綺麗な娘っ子初めて見たぞ!」

「もー、エディったら、ロレッタは都会の偉い人の侍女をやってたのよ。もっとお上品に自分の名を名乗って挨拶なさいよ。

「あっ、あっ、そうか、ロレッタお嬢さん、俺っち、いやわだくしはエディ・モンレースと申します。えっとお嬢さんのお名前は」

「いやだわ、エディさん、今ご自分でロレッタとお呼びになったではありませんか。それに私はただのメイドですから、お嬢さんなんてつけなくてよろしくてよ」

「わー、あたしエディのファミリーネーム初めて知ったよ」

「あたいもだよ、ほう、モンレースね」

「あー、もう、姐さんもメイベルもからからねぇでくんなせぇよ」


 出迎えてくれた船員たちとの数年の空白を感じさせないやりとり、頬を赤らめてもじもじするエディにそれを優しくしかし冷ややかに対応するロレッタ、そんな和気あいあいとするやりとりのなかに、キャプテンダイヤモンドはいなかった。

 メイベルたちの乗った小舟がダイヤモンド号につく前に、デッキから姿を消し一人船室にこもってしまったのだった。


「いやー、キャプテンもさ、久しぶりに娘と会うのが照れ臭いんだろうさ」

「うん、伯父さんと伯母さんのとこさ預けられて陸でちゃんとした勉強してたんだろ?行儀作法やらなんやらさ」

「そうそう、あの頃のメイベルとはすっかり違うもんな、ボロシャツでキャッキャとデッキを転げまわってキッドやビーと追いかけっこしてたのにさ」

「いやいやいや、あたしそこまで子供じゃなかったわよ。15歳になってたのよ」

「えーそうだっけか十くらいかと思ってたわ、ちんまかったからなぁ」

「ひどーい」


 メイベルが船を去った事情について、やはり船員たちは詳しく知らないらしい。承知の上で陸で暮らしていたのだと思っているようだ。

 何の挨拶もせずに船を降りたのも、照れ臭かっただとかそんな風に理解しているのかもしない。

 けれど、今のメイベルにはそんな彼らの様子が心安らいだ。

 置き去りにされただの、二度の婚姻への異議申し立てだの、そんなどろどろとした出来事はもう考えたくはない。せめて今だけはそんなことを忘れて、久しぶりのダイヤモンド号での家族との会話を楽しみたい。

 むしろ父がこの場所に顔を出さないことが、かえって良かったのだと思えてきた。


 さすがにヴェールは脱いで蒸気自動車の中に置いてきたが、ウェディングドレスはそのままだ。皇室に代々伝わるドレスのため返していきたかったが、着替えが何もなかったのでしかたなくそのまま着てきてしまった。

 その辺りを船員たちに突っ込まれるかもと思ったが、いかにもなドレスではないためどうやら誰も気づいていない。普通の白いドレスだと思ってくれているようだ。

 しかし、この船、ダイヤモンド号にはどうにも不似合いなように思えて仕方がない。

 何しろ、動きにくくてしょうがないのだ。

「ねぇ、ジャネット。あたしの服ってもう残っていないよね?」

 食糧や生活必需品、そして船員たちの酒以外はなるべく積み荷を増やさないというのが、このダイヤモンド号の流儀だ。それはメイベルがいたころから、変わってはいないだろう。

 どうせ捨てられているだろうなと思いつつ、すがるような思いで聞いてみる。

 すぐにでも楽な格好に着替えたくて仕方なかったのだ。

「あー、ベルの服ね、ずいぶん大きくなって前のはツンツルテンになっちまってるだろうからさ、古着屋のババアに仕立て直させたよ、何しろ一度しか着ねぇおすましセットにへそくりの銀貨三枚はたいちまったんだからな、それくらいのサービスはしてもらわにゃあ、こっちもやってらんねぇからな。まぁつぎはぎになっちまったけど、勘弁してくんな」

 ジャネットは船室の引き出しからメイベルがよく着ていた麻のワンピースを取り出し、バサッと頭の上に被せた。

「ちょっ、ジャネットぉ、前が見えないよ」

「アハハ、勉強のし過ぎで頭もでっかくなっちまったかな、まぁ裏で着替えてきな。そんなかしこまったドレスじゃ窮屈だろ、前のは小っちゃくて履けねぇだろうからあたいのサンダルも使っていいからな」

 ジャネットの荒っぽい気づかいに感謝しつつ、メイベルは彼女と共同で使っていた小さな女性用の船室に入り、やけに派手派手しい赤い花模様の端切れが継ぎ当てられた懐かしいワンピースに袖を通した。

「あぁ、すごく楽、らくちんだぁ」

 上質で、けれど窮屈なドレスを脱ぎ捨ててコルセットを外し、大きく息を吸い込むとやっとこの場所に、自分のいるべき海の上に帰ってきたのだと実感することが出来た。

 小さな丸窓を覗いてみると、そこにはもう海しか見えない。

 陸地は、つい数時間前までここでずっと暮らすのだと覚悟していた帝国はもう影も形も見えなくなっていた。


「ずっとおかしな夢を見ていたみたい」

 ぽつりとつぶやき、寝台に身を横たえる。

 公国のペンハット屋敷のベッドのようにフリフリしたレースと蝶の刺繍でデコレーションなどされていない、帝国の離宮のベッドのように手足を目いっぱい伸ばしてもまだ余るような広々として雲の上にいるような柔らかな寝心地でもなく、堅く、背が伸びた今となってはつま先が出てしまうような小さな簡素な寝台だが、メイベルにとってはここが一番落ち着く寝床なのだ。船底の波を感じ、潮のにおいが立ち込めたこの場所が。

 窮屈なドレスの中で身を縮こまらせ、行儀作法を必死に会得し、お嬢様方のぽやぽやしたあてどない話を聞いているふりをしてちびりちびりと茶を飲みながら、適当に相槌を打つ。

 波のないはずの陸地で流されるままに二度の婚姻を受け入れ、そしてあっけなくそれらは水泡に帰した。

 自分の道を見つけ、そこを突き進むスージー、茨を自ら切り裂いて進んでいくその姿に憧れを感じ、そして妬みもした。

 自由に生きる、その意味が分からなかったから。

 メイベルは海が好きだ。このダイヤモンド号での暮らしが好きだ。ここ以外を知らなかった以前よりも一層その気持ちは強くなった気がする。陸地でのこことは比較にならないような贅沢な暮らしを経てその想いを再確認できたからだ。

 けれど、海賊になりたいわけではない。ジャネットと違って腕っぷしには全く自信がない。多少の武術は習っていたものの、よっぽど手加減してもらえないと、腰の曲がったじいちゃんズですら相手にならない。

 さりとて、優雅に庭園でアフタヌーンティーを楽しむような貴族のお嫁さんになりたかったわけでもない。

 じゃあ何がしたいの?と問われたら、このダイヤモンド号で家族たちとずっと仲良く楽しく暮らしたい。それ以外に答えることはない。ずっと子供でいることはできないというのに。

 メイベルにはスージーのように、こうなりたい自分といった確固たるものがないのだ。18年生きてきて、一度も将来の夢といったものを持ったことがなかったのだ。

 夢、夢、全てうたかたの夢、けれど足元にはその夢の名残のドレスが丸まっている。

 メイベルははぁっとため息をついて、ドレスのしわを伸ばすと丁寧にたたみ、一番きれいな麻袋に仕舞った。


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