第24話
「さー、全速力で漕ぐよー!振り落とされないようにな!」
ドレスのスカートを膝の上までぎゅっと縛り上げたジャネットは、ボンネットを浜辺に放り投げて小舟にえいっと飛び乗った。
風に流されてころころと転がっていくボンネットには、あのくるりとした巻き毛もいっしょにくっついていた。
そしてジャネットの頭というと、あの風にバサバサなびく赤毛はどこへやら、まるで水平のように短く刈られていた。
「あれっ、ジャネット髪…」
「あぁ、ドレスなら髪を巻けだのロールパンみてぇなズラを被れだの古着屋のババアがうっせぇからよ。そこらへんのナイフでザクっと切って、それをくるくるまかして帽子にくっつけさせたわ、がははっ」
懐かしい、この豪快さがジャネット、ダイヤモンド号の姐さんの気風なのだ。
「ほらほら、あんたらもサッサと乗んな、置いてくよ。ジャンプはベルの得意技だろ!」
ジャネットの言葉に背中を押されて、メイベルはエイッと岩から小舟に飛び移り、険しい顔をしていたロレッタも渋々スカートをたくしあげると、豪快にトターンと飛び移ったが、そのスカートはまるでダンスでもしているかのようにふわりと風に踊った。
その衝撃に驚いたのか、ドレスのスカートのポケットですやすやと眠っていたビーも目を覚まし、顔をぴょこっと出して「み、ミミー」と鳴き声を上げた。
「おや、ビーじゃねぇか。あんたも一緒に戻るんだね!いやー、ひっさしぶりだねぇ」
木のオールを豪快に動かしながら、ジャネットは合間にすすっとビーをなでた。
懐かしい顔に気づいたのだろうか?ビーは目を細めて、どことなく嬉しそうに見える。
ビーとキャット、この二匹もまたダイヤモンド号の仲間だったのだ。
「あ、あのね、ジャネット、キッドのことなんだけど、あ、あたし、連れて来れなくて…お、お城に置いてきちゃって…」
言い難い、しかし、彼女には言わなければならないだろう。大海原をずっと一緒に旅してきた仲間なんだから。
メイベルはキッドを離宮に置いて来てしまったことについて、ジャネットに説明することにした。
意図して置いて来てしまったわけではない。けれど、置き去りにされたキッドにとってはそんなメイベルの事情など、わかりようがないのだ。
「ちょっと出かけて来るね」と言ったまま、二度と帰ってこないメイベルをずっと待ち続けることになるのかもしれないのだ。
置き去りにされた辛さを誰よりも強く知っているはずなのに、同じことをずっと船でいっしょに育ってきたまるで姉弟のようなキッドにしてしまったことは、メイベルを居たたまれない気持ちにさせた。
ジャネットだって、キッドにまた会いたかったに違いないだろうに。
言い訳などできない、怒られたって仕方ないとメイベルはぎゅっと目を閉じる。
「あー、キッドのことか。そういやさっき言い忘れたな、車に乗れって言ってくれた王子がさ、キッドのことなら心配はいらない。自分がきちんと面倒を見るから、安心してしばらく預けておいてくれってメイベルに伝言を頼まれてたんだった」
しかし、ジャネットから返ってきたのは意外な言葉だった。
「えっ、王子が」
「そうそう、生き物の面倒は好きだし慣れているから、そのうち会えるようになってメイベルの元に連れていく時まで大事に世話するから、何も心配はいらないってさ」
正直ホッとした。
スカートをすっかり直し、上品に足を斜めにして横に座るロレッタも安堵したような表情を浮かべている。いくらメイベルに大丈夫だと言われても、彼女もやはりキッドを連れてこれなかったのをずっと気に病んでいたのだろう。
メイベルは胸の内でテュール王子に深く感謝した。
しばらく預かる、そのうち会える時かぁ、あたしがもし今度帝国に戻ってくることがあるならそれはキャプテンダイヤモンドの娘であることを隠し王子と結婚した罪を問われるとか、そういうことよね。そんなことになったら、キッドとはもう会えない…
でも、テュール王子にはそれ以外にキッドとあたしを会わせてくれる算段があるのかしら、いやいや、駄目よね。変な期待をしちゃいけない。あの立派なお城できちんと面倒を見てもらえる。それだけで感謝しなくちゃ。
もう二度と会えないと覚悟していたジャネットにもこうしてまた会うことができたんだもの、生きてさえいれば、きっとキッドにもまた会える。今はごめんね、キッド、ビーとも離れ離れになって、寂しい思いをさせてしまうけど、しばらく我慢してね。
お城の贅沢な暮らしになれちゃって、あたしたちのこと忘れちゃったりしないでね。
あぁ、でもキッドもビーも帝国に来てからテュール王子に会ったことは一度もないのに、きちんと気にかけてくれていたのね。
まぁビーはついてきちゃったわけだし、王子がダイヤモンド号に乗ったときにはまだいなかったから一度も対面したことはないんだけれど、キッドには前に会ったことあるものね。
でも、言われてからいろいろあの時のことについて思い出してきたけれど、テュール王子って小さいときにおばあさまのお気に入りだったペルシャ猫に引っかかれてから猫が大の苦手になったとかで、キッドからもデッキから船室までずっと逃げ回っていたのに。もうすっかり平気になったのね。
それに、生き物の世話が得意だなんて、ちっとも知らなかったわ。トビウオにすらびっくりして、尻もちをついたまま後ろにずりずり下がっていたのに。
大人になったのね。人って変われば変わるものだわ。
あぁ、でも無理をして世話をしてくれるならちょっと悪いわね。
キッド、どうか仲良くしてあげてちょうだいね。
昔、逃げ回られた恨みを晴らして脅かしたりしちゃダメよ。
あれこれ考えを巡らせていたら、すっかり背が高くなって大人になったテュール王子が城の端から端までを小さなキッドに追いかけまわされて涙目で逃げ回っている様子が目に浮かんできて、メイベルはくすくすと笑いを漏らした。
「なーにー、メイベル楽しそうじゃないの、久しぶりに海の上でうれしいの?」
そんなメイベルの胸の内など知りようもないジャネットからは見当違いのことを言われたが、実際に久しぶりの直に肌で感じる潮風、ぐらりぐらりと波で揺れる小舟の感覚は海の上での暮らしをメイベルに思い起こさせた。
この帝国へと渡ってきたあの立派な蒸気船では、到底味わえなかった感覚だ。
海は眺めるものじゃない、その上でずっと生活する場所、生きていく場所、陸に上げられる前のメイベルにとっては、わざわざ言葉にするまでもない、それが当たり前のことだったのだ。
「うん、うん、海っていいね、波っていいね、潮風って気持ちいいね」
すっかり引っ込んだはずの涙が、また両の目からあふれ出してくる。
うれしい、うれしい、うれしい。
そんな気持ちでこんなに涙が出るのは、18年生きてきて初めてのことだ。
「あーあ、また泣いちゃってさ、今からこんなに泣いてたら、キャプテンと会ったらどうなっちゃうのよ、目も体も水分が無くなって干乾びちゃうんじゃないの。まーそしたら、釣り竿に引っかけて海ん中に浸してやるけどね」
しかし、メイベルの瞳はジャネットの発したそのキャプテン、の一言ですっかり乾いてしまった。その後の軽口も言い返すどころか、全く耳に入ってこない。
ダイヤモンド号の船長は言うまでもないキャプテンダイヤモンド、メイベルの実の父だ。船に戻ればおのずと彼と相まみえることとなる。
分かりきっていたはずなのに、あえて考えないようにしていた。
あの日、何の説明もせずお遣いに出したメイベルを置き去りにしたキャプテンダイヤモンド、あの父とどんな顔をして対面すればよいというのか、笑って久しぶりなんてとても言えそうにない、ならば泣いて暴れて恨み言をぶつけるのか?それもまたしっくりこない。
あんなに気軽に父の名を出してきたジャネットはじめ、船員は自分たちのそんな事情を全く知らないかもしれないのだ。
考えれば考えるほど、どうしたらいいか分からなくなる。
帝国からは早く離れたい、けれどダイヤモンド号に戻ってもどうしたらいいかわからない。
あぁ、いっそのことこのまま小舟に乗っていたい。
「あっ、ダイヤモンド号が見えたぞ、どーだベル、懐かしいだろ」
しかし、そんなメイベルの期待は、ジャネットの明るい声ですぐに泡となって消えた。
どんどん大きく近づいてくる懐かしいあの黒い旗、そしてその横、デッキに立って遠い水平線を眺めているのは、どんなに小さくてもわかる。
キャプテンダイヤモンドだ。
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