第23話

 振り返って駆け寄って抱き着きたい、海の上の子供だったあの頃のように。

 でも、もう子供じゃない、それに…

 複雑な思いを抱えたメイベルは、そろりそろりとゆっくり振り返ろうとした。

 すると、「なーにお上品ぶってんのよ、ベルったら!」細く、でも引き締まったたくましい腕がメイベルを引き寄せ、そのままぎゅっと抱きしめた。

 公国で、そしてこの帝国で散々嗅いだ香水の甘い香りに混じって、しよっぱい匂いが鼻にふわっと入り込んでくる。

 懐かしい、潮の、海の匂いだ。

「うわーん、ジャネットー、会いたかった。あ゛いだかったよぉぉー」

 メイベルはその胸にしがみついてわんわんと幼子のように泣きじゃくった。

 ジャネットはそんなメイベルの頭をポンポンと優しくたたき、ふっと笑みを漏らす。

 しかし、ひとしきり泣いたメイベルはその胸の感触に何やら違和感を感じた。

 頬に触れるその布地はジャネットが普段着ている麻のシャツのごわりとしたものではなく、何やらすべすべとしている。上等なシルクのようだ。それにこの甘い香水の香りは?

 顔を上げてまじまじと見て見ると、そこにはいつもの様子とはすっかり違ったジャネットの姿があった。

 いつもバサバサと風になびかせている赤毛はくるりと巻かれて、孔雀の羽根の刺さったドロンボンネットの脇からちょこんとお上品に垂れている。

 潮焼けしている肌には白粉がはたかれ顔中に広がったそばかすもすっかり覆ってしまい、頬と唇には紅まで。

 そして、メイベルが違和感を持ったその胸、体を包んでいるのは少々昔風のドレス、コタルディだ。

 どこからどう見ても、貴婦人にしか見えない装いだ。

 声を聴かずにまずこの姿を目にしていたら、ジャネットだとは気づかなかったかもしれない。


「わー、ジャネット。どうしちゃったの一体⁉まるでどこかのマダムみたいよ」

「まーったくご挨拶だね!あたいは婚礼の儀に招待されたもんだから、あっちゃこっちゃの港で探し歩いてやっとこんなん用意したってのにさ!けどよぉ、古着屋のババアがかびくせぇだのなんだの言って香水ガバガバ引っかけやがってよぉ、くっせーのなんの」

 ガハガハと大口を開けて笑うジャネット、その両端からは小さな牙のような八重歯がひょっこり顔を出している。

「あー、あー、このちっちゃい牙、やっぱジャネットだぁ」

「全く、ちびちゃんベルの泣き虫はまだ直ってないんだねぇ、ぐずって寝ないときにあたいがこの歯を見せて吸血鬼だぞ、血を吸っちゃうぞって脅かした時もびえんびえん泣いてたもんね」

「えー、あたし、そんな泣いてないよぉ。あっ、そういえばジャネット婚礼の儀に来てくれようとしてたんだね、あの、実はね」

 メイベルはあの教会での出来事を、説明しようとした。

「あー、豪快な逃げっぷりだったね、あの若い王子?がキャプテンダイヤモンドの娘でござーいって言ったときにさ、あたい噴き出しそうになっちまったよ。そんなんこちとら18年前から承知も承知だってね」

「えっ!」

 メイベルの目は見開かれ、まん丸になる。

「ジャネットあそこにいたの?」

「おうよ、ベルのこっちでの親御さん?の後ろの後ろにいたっての」


 全く気付かなかった。そんな近くにいただなんて。


「実は、私も気づいておりませんでした。ジャネットさん貴婦人たちにすっかり同化してらっしゃったから」

 二人のダイナミックな再会劇に若干蚊帳の外気味だったロレッタが、半笑いで右手を上げながら割って入った。


「まーったく失礼しちゃうねぇ、ちょいと化粧してドレス着ただけなのに長い付き合いの二人ともあたいに気づかないなんてねぇ」

「ごめんなさーい」

 言葉とは裏腹に、声をそろえて謝るメイベルとロレッタを見るジャネットの眼差しは柔らかく、その口元はどこか得意げにゆるんでいる。

 自分の変装が近しいもの二人をすっかり騙しおおせたことに、満足だったのかもしれない。


「あっ、でもどうやってここに追いかけて来られたの?」

 メイベルは首をかしげる。

 この帝国で融通の利くロレッタはともかく、ジャネットにはそんなルートはないだろう。

 乗合馬車で追いかけて来たにしては、追いつくスピードが速すぎる。

「あー、なんか王子?がさ、あんたらが脱兎のごとく逃げてった後に走って追いかけようとしたあたいのとこに来てさぁ、裏に止めてある車に乗れってさ、そんでそのまま追いかけて来たってわけよ」

 テュール王子だ。

 メイベルの胸は、ちくりと痛んだ。あんな騒動の中でも幼いときに会ったことのあるジャネットの顔に気づき、車まで用意してくれたのだ。

 何という気づかいだろう。

 謝りたい、会ってこんなことになってごめんなさいときちんと目を見て謝りたい。

 でも、それはもう叶わぬことだ。

 メイベルはきゅっと唇を噛み締めた。


「ところでジャネットさん、浜辺にダイヤモンド号の姿が見えませんが」

 そんなメイベルの様子に気づいているのかいないのか、ロレッタが話題を変える。

「あー、そりゃあさ、こんな港でもない浜辺にあんなでっかい船とめらんねぇからさ、沖の方であたいだけ小舟に乗って漕いできたのさ」

「えっ、そのドレス姿でですか?」

「おうよ、このなっげー裾はくくってさ、こん窮屈な尖った靴は脱いでこうやってよ」

 長いドレスの裾をまくり上げるジャネットに、ロレッタは頬を赤らめる。

「ちょっとおやめくださいな、はしたないですわよ!」

「あはは、なーに急に清楚なお嬢さんぶっちまってんだか、アッカートの港の酒場でポートワインラッパ飲みしてた底抜けロレッタがさ」

「ちょっと!メイベルお嬢様の前ですわよ!」

 ジャネットがロレッタの薄い背中をどんどん叩き、ロレッタはその腕をひねり上げて眉をギューッと上げる。

「うわっ、いたたたた、あたいは軽く叩いただけなのにさぁ、アンタ相変わらず細っこいのに腕っぷしが強いね、酒場でも酔っ払いの兵士をびょーんって背負って投げてたもんなぁ」

「だーかーらぁー、メイベルお嬢様の前ですからと何度も申し上げているでしょうが!」

「いたーい、いたーい、ギブギブアップ、降参でーす」

 若い男の船員にも腕相撲で負けないほど腕力のあるジャネットが、どう見ても強そうには見えないほっそりというか体の薄いロレッタに力負けしている。

 ジャネットの痛みにゆがむ表情を見る限り、演技で大げさに痛がっているようにはとても見えず、メイベルは口をあんぐり開けて唖然としてしまった。

「あー、これホント痛いよね、ブドーって言うんだっけ、えらい遠くの方の秘術?」

「秘術ではありません、東洋のジュージュツです」

「あー、もう何でもいいや」


 ロレッタ、謎過ぎる。メイベルはもうちんぷんかんぷんだった。

 妃殿下の侍女で、王子のガヴァネスで、何故か出張をするような仕事をしていて酒場でラッパ飲みをし、秘術のジュージュツで大の男を投げ飛ばす。情報過多すぎてとてもじゃないけど、処理できそうになかった。


「あ、あのジュージュツって」

 意を決してロレッタにじかに尋ねてみようとしたメイベルだったが、その声はロレッタの耳には届かなかった。


「あっ、潮の流れが変わっちまう!さぁ、お二人さん、さっさとあっちの岩場につないである小舟に乗って、はやくしねぇとダイヤモンド号に置いて行かれちまう。さーさー、早く早く、足動かせっ、走れっ!」

 慌てたジャネットの大きな声に、その細い声はかき消されてしまったからだ。


 置いて行かれる。ダイヤモンド号に。

 その言葉は今でもメイベルの胸を刺す言葉ではあったが、慌てるジャネットに背中をぐいぐい押されて砂に足を取られながら必死で走っていると、そんな感傷になど浸っている暇は少しもなかった。

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