第22話
「さぁ、メイベル様、つきました」
つらつらと考え事をしているうちに、蒸気自動車は目的地へと着いたようだった。
車外に広がるその景色、それはメイベルには見覚えのある場所だった。
そこは海辺、しかし公国を出てこの帝国に足を踏み入れた初めての場所である港ではなく、教会から連れ出されてから初めてテュール王子と再会した場所、正確には三度目に会ったあの皇族のプライベートビーチだった。
「ど、どうしてここに」
あの日の出来事、子供のころから好いていたとテュール王子に告白された場所、そして彼のその想い、求婚を受け入れることに決めた場所、素足で踏んだあの日の砂のざくりとした感触、その冷たさに残るわずかばかりの日のぬくもりは足の裏がまだ覚えている。
何故ここに自分は連れて来られたのだろう。
「実は……一月ほど前に私あてに手紙が来たのです」
ロレッタは言い難そうに口ごもる。
「手紙?誰からなの」
「それは、その……」
ここまで気まずそうにされると、どうにもこうにもその相手が気にかかる。
「あたしには言えない相手?」
「い、いえ、メイベル様の知己の方です」
「えっ、あたしの?」
うんうん考えても、さっぱり見当がつかない。
自分の知己の人でロレッタに手紙を送るような人、それならば公国の人であろう。
クリストファーではまずない。
教会から逃げ出したメイベルを恨むようなタイプでもないが、結果的にメイベルと結婚しなかったことによって運命の相手と出会えたことを感謝して手紙を送るようなロマンティックなタイプでもない。実にあっさりした性格なのだ。
そもそも元婚約者ではあるが、知己と呼べるような関係性でもなかった。
お茶会に誘われたお嬢様たちとも、手紙を交わすほど親しくはない。
しいて言うならば。
「ガヴァネスのスージー先生?」
公国で唯一親しくしていたと言えるのは彼女だけだ。
作家になった後も、メイベルだけの物語を手紙として送ってくれていた。
しかし、帝国に来てからは一度もそのやり取りはない。
ペンハット屋敷に届いたものをチャールズとキャロラインが持って来てくれたのだろうか。
いや、でも一月前…
「いえ、スージー先生ではありません、メイベル様の生まれながらの知己の人、ダイヤモンド号の乗員であられるジャネットさんから私あてにお手紙をいただいたのです」
思っても見ない名前に、メイベルは仰天した。
それは確かに知己も知己、生まれたその日から十五歳で船を降りるまでのメイベルを知っているあの弓の名人ジャネットなら知己どころか家族も同然だ。
けれど、彼女はロレッタと会ったことはないはずだ。
それなのに何故手紙を。
「え、でも、ロレッタはジャネットのこと知らないでしょ?」
「いえ、存じております」
何故⁉メイベルの頭の中では、クエスチョンマークが飛び回る。
ロレッタはシーライト公国に来てからずっと身の回りのことを世話してくれた。
ペンハットの両親からメイベルの事情は、聞いていただろう。
しかし、自分から船の上での生活を話すことはなかったし、そんな姪であり娘であるメイベルを気遣ってか、チャールズとキャロラインの方からも詳しく聞いてくることはなかった。だから、父であるキャプテンダイヤモンドのことはともかく、ジャネットのことは誰も知るはずがないのだ。それなのに何故。
「あの、実はその昔、私はジャネットさんとお会いしたことがあるのです。それから折に触れ手紙をやり取りしていりました」
「えっ!」
初耳だ。ダイヤモンド号が港に係留するときジャネットもふらりと遊びに出ることはあった。その時に知り合ったのだろうか。
しかし、ロレッタはペンハット家に来る前は帝国で皇家に仕えていたはずだ。
ダイヤモンド号が帝国の港に行ったことはない。
「あのですね、私実はメイベルお嬢様にお会いしたのもペンハット家でが初めてではないのです」
「えっ!」
あまりにも驚きすぎる状況のせいで、ロレッタの自分への呼び方が教会後にお嬢様から様になり、そしてまたお嬢様に戻ったことにメイベルはついぞ気づくことがなかった。
「私がペンハット家に行く前にアンネ妃殿下の侍女であったことは、メイベルお嬢様ももうご存じですが」
「えぇ、そうね」
「そのころテュールお坊ちゃまのガヴァネス兼遊び相手のようなこともやらせていただいておりまして」
「はっ⁉」
「それで、王子が陸についた折にお迎えに上がったのがこの私なのです。その時にジャネットさんと少々お話いたしまして、次の出張先とダイヤモンド号の係留先が偶然同じことが判明しまして、パブで待ち合わせしてエールを飲み交わしているうちにすっかり意気投合いたしまして」
ん?ん?ん? テュール王子とのあの出会いは、彼に話してもらうまですっかり記憶の底で眠っていたが、思い起こしたそれを精査してみても、あのお別れの港で彼を迎えに来たのは子供ではなく大人の男女だった。そして、別れの時に抱き上げられた女性の胸で子供だったテュール王子がわんわん泣いていた。
そして、ジャネットと酒を飲む、当時すでに大人だったことは間違いない。
しかし、目の前のロレッタは出会った、もとい、メイベルが彼女を始めて認識した日から少しも変わらず若々しいままだ。
そして、侍女兼ガヴァネスなのに出張、一体ロレッタは何者なのだろう。
不詳、不詳、年齢ばかりか正体も不詳、ロレッタは謎ばかりだ。
しかし、メイベルが直球で聞いてもどうせ適当にはぐらかされてしまうだろう。
雲をつかむような女性なのだ。
「あっ、それで、ジャネットの手紙にはなんて書いてあったの?」
目の前の謎の存在にばかり気を取られてしまったが、どうやらこのビーチに辿り着いたのはその手紙が関係しているらしい。
返ってこないであろう返事に期待してロレッタの謎を解明しようと無駄な努力に時間を費やすより、こちらの疑問を解決するのが先決だ。
「えぇ、実は本日こちらにキャプテンダイヤモンド号が来るそうなのです」
「えっ!」
それしか言葉が出てこない。
産まれて十五年間、十八歳のメイベルの人生のほとんどを過ごしたあの船、そして無情にも彼女を港に置き去りにしたあのキャプテンダイヤモンド号が、このビーチに来るというのだ。
「ど、どうして港じゃなく、ここに」
「えぇ、実はテュールお坊ちゃまが、婚礼の儀にダイヤモンド号の皆様をご招待したいとおっしゃられていたのです。しかし、メイベルお嬢様の御父上であるキャプテンダイヤモンド様のお顔と船は帝国でもよく知られておりますし、この国の港の警備は厳しくとても停泊できる状況ではありません、けれど、手配の似顔絵の出ていないジャネット様ならお呼びできるのではないかと、いわばお嬢様の船でのお母さま的なご存在でもあったわけですしと、けれど、おいでにならなかったようですね」
テュール王子はそこまで考えてくれていたのだ。
たった数日を船で供に過ごしただけなのに、ジャネットがメイベルにとって大事な、特別な存在であることまで気づいて、そしてこっそり招待までしてくれていた。
その影ながらの思いやりに、メイベルの心は久しぶりにぽわっとあたたかになった。
「そっかー、でもジャネット来なかったね。でも、それでよかったかも。あたし、ジャネットの顔見たら笑っちゃって式にならなかったかもしれないし、あっ、そもそも式になってなかったんだった。アハハッ」
数時間前のあの衝撃的な出来事を、メイベルはジャネットのおかげでやっと笑い飛ばすことが出来た。
その時、「ちょっとー、あたいの顔を見たら笑っちゃうってどういうことよ!こんなにオメカシしてんのにさ!」涙をぽろぽろとこぼしながらけらけら笑うメイベルの耳に背後から飛び込んできたのは、酒と潮で焼けたハスキーで、でもとてもやさしくて温かいよく聞きなれたあの声だった。
数年ぶりであろうと忘れるはずがない、彼女の子守歌でメイベルは大きくなったようなものだ。
「ジャネット!」
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