第21話

 青天の霹靂、今の状況にこれほどふさわしい言葉はないだろう。

 ぼんやりとそんなとりとめもないことを考えて立ち尽くすメイベルの手を引いたのは、あの日自分の手を引きつい先ほどまで夫になるはずだった呆然とする目の前のテュール王子ではない、あの日力強くメイベルを引っ張った彼の両手は力なくだらりと垂れ下がり、震える手で必死にメイベルを動かしたのはロレッタだった。

「早く逃げましょう」

 前回の時とはわけが違う、あの時はいうなれば国にとって何も影響のないような下級貴族同士の結婚式であったが、今度は大国の王子なのだ。しかも、メイベルがお尋ね者の海賊王の娘だとその身うちからバラされてしまった。

 ワクワク感なんて感じられるわけがない。呆然としたままでもいられない。必死に、ただ必死に逃げるのみだ。


「待てー待てー」

 何が起こったのかこちらも今一把握していなかった様子の衛兵たちも、逃げるメイベルとロレッタに向かって、遅ればせながら追いかけ始める。

 こうなってしまっては、横目も振らずにひたすら走るしかない。チャールズとキャロラインの様子が気になったが、ちらりとも確認する余裕などない。

 どよめく客人たちの声の中に、二人のものがあるかどうかなど聞き分けることもできなかった。


「さぁ、あの車へ、早く早く!」

 ロレッタにせかされて、蒸気自動車に乗り込むと運転手はドアを閉めるなり急いで車を発進させ猛スピードで港までの道を急いだ。


「ねぇ、ロレッタ、あたしたちこれからどこに行くの?」

 そう尋ねても、ロレッタは暗い表情で握った拳を見つめているだけだ。

 部屋で留守番をさせていたキッドとビーが気になるが、こんな重く苦しい空気の中でとてもそんなことを訊ける様な状況ではなかった。


「はぁぁ」思わず出そうになるため息をぐっと飲み込むと、ウエディングドレスの足元が何やらむずむずする。

「ん?」

 気になって確かめてみると、シンプルでありながら贅沢にふんだんにあしらわれた何重にも重なったレースの隙間に、もこもことした見慣れた茶色の毛並みがあった。

「あっ!ビーじゃないの!どうしたのよ。こんなところに隠れちゃって」

 ドレスに着替えるために控室に行く前に確かにバスケットに入れて部屋に置いてきたはずなのに、いつの間にこんなところに紛れていたのだろう。

 バージンロードを歩いていた間も、ユリウスの暴露の時も、ロレッタに手を引かれて逃げているときも、ビーはずっとここにしがみついていたのだ。事情も何も分からずに。

「お前よく振り落とされなかったね。」

 必死でレースにしがみついているビーの様子を想像すると、こんな状況だというのにメイベルの口元には笑いがこみあげてきた。

「あー、もうホントにお前ときたら、いつも楽しませてくれるわね、あぁ、でもキッドはキッドはどうしたかしら」

 ビーに心を和ませてもらったものの、こうして再会できるとやはり残してきたキッドのことがどうにも気になってしまう。

「ねぇ、あんたと別れたときキッドどんな様子だった?まさかあたしが連れて来た猫だからって拘束されたりなんてしてないわよね?」

「ぴっ、ピピ、キュウー」

 分かっているのかいないのか、ビーは疳高い鳴き声を上げながら、メイベルの指に纏わりつき、そのまま掌の中で眠ってしまった。

「あぁ、お前の言葉がわかったらいいのにとこんなに思ったことはないわ、でも呑気なものね。あんたったらさ、こんなときにぐっすり寝ちゃってさ」

 穏やかな表情で手のひらに包んだビーを優しく撫でるメイベルを見ながら、ロレッタは申し訳なさそうな顔をしてスカートをキュッとつかむ。

「申し訳ございませんメイベル様、私としても今回のことは予期しておりませんで、車の手配をするので手一杯でキッドさんを連れ出すことができませんで…」

 細く消え入りそうなその声に、何だかメイベルの方が逆に申し訳なくなってくる。

「いいよ、いいよ。ロレッタ、キッドはすごく強い子だもん!お城で何とか生きていけるよ!何かあったとしても、逃げ足もすっごく早いよ!だって大海原の上を生き抜いてきたんだから!」

 落ち込んで拳の震えるロレッタにはそう言うしかなかったが、本当をいうと、キッドのことはかなり心配だった。

 キッドは、子猫のころからダイヤモンド号という狭い世界でずっと生きてきた。お城の生活にはなかなかなじめず、船で食料を荒らすネズミを追いかけまわしていた元気も薄れメイベルが所用で少し部屋から離れると、怯えたようにベッドの下に隠れることが多かった。

 そんなキッドが離宮で出会った人々の中で唯一心を開いてすっかり懐いていたのが、ユリウスだったのだ。

 それは、メイベルにとっても同じだった。

 見知らぬ国、足を踏み入れたこともない立派なお城の中で唯一心を許せた、出会ったばかりとは思えない、まるで昔からの親友のように打ち解けていたユリウス、それは彼にとっても同じだと思っていた。けれど、違ったのだ。

 ユリウスにとってのメイベルは、心を許せる友などではなく、甥と結婚するなんてありえない、大罪人のお尋ね者、キャプテンダイヤモンドの娘でしかなかったのだ。

 メイベルにもわかっている。わかってはいるのだ。

 それは、自分ではどうしようもない現実だ。

 現実に鋭い刃で切り付けられているような心持ちについなってしまうが、現実、それはただメイベルの現状をありのまま映す鏡であり、それは割れてもおらず、罅が入って歪んでいたりもしないのだ。

 自分は確かに貴族の血筋ではあった。父もかつては尊敬される大提督であった。けれど、その真実のみを映している鏡にメイベルは打ちのめされる。


 どうして、どうしてなのユリウス、この婚姻が気に入らないのなら、もっと前に異議を申し立ててくれればよかったのに。あたしが打ち明けたときに、そんな怪しい素性のものはここから出て行ってくれときっぱりと言ってくれればよかったのに。そうしたら、あたしは何とかしてあそこから出ていこうとしたわ。それなのに。そうしたら、テュール王子のことだって傷つけずに済んだのに。


 教会から走り出すメイベルの手を掴もうとして、けれど唇を噛み締めてその腕を力なくだらりと下げたテュール王子の困惑から徐々に青ざめ、絶望に変わっていったあの悲しい表情が頭に浮かぶ。

 けれど、それよりもメイベルの胸に染みついて取れないのは、彼女が海賊王の娘だと暴露した後のユリウスの冷たい笑みと瞳だった。

 彼のあんな顔は、それまで一度も見たことが無かった。

 それほど、自分のことが憎かったのだろうか。

 二度と城の門を叩けないほどに、再起不能にしたかったのだろうか。

 それとも、メイベルが接していたあたたかな眼差しや微笑みが仮面であって、凍るように冷え冷えとしたあの顔がユリウスの本質であるのだろうか。

 しかし、メイベルにはとても信じられないのだ。

 あんなに生き物を、植物を愛し、ふらりと現れたメイベルにも親切にしてくれたあの穏やかさが嘘であるなんて、海賊王の娘であるという告白をあっさりと笑い飛ばしてくれ自分の生い立ちも話してくれた、あの優しさは確かに本物であったと思うのだ。

 ならば、その優しさを凍らせてしまった自分の生い立ち、キャプテンダイヤモンドの娘であるということが、やはり大きな罪であるのだろうか。

 そう思うと、指先に感じていたビーのあたたかなぬくもりですら消え去ってしまうほどに、メイベルの心はひんやりと凍てついてゆく。


 ねぇ、父さん。どうしてあたしを船からおろして置き去りにしたの?

 あたしのことを思ってしてくれたんだろうってことは、分かる、分かるよ。

 でも、もしあのまま海の上にいたら、陸での暮らしを知らないままだったらこんなに苦しい思いをしなくて済んだのに。

 テュール王子を、あんなに悲しませないで済んだのに。


 そして、そして、優しいあの人にあんな冷たい顔をさせないで済んだのに。


 置き去りにされて初めて、メイベルは父に心の底から恨み言を抱いた。




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