第19話
白い砂浜、湿った風、黒く凪いだ海、厚い雲に覆われた灰色の空の間にひときわ目をひく白銀の髪、ビーチに佇んでいたのはテュール王子だった。
「では、メイベルお嬢様。私は後程お迎えに参ります」
ロレッタはその場を去り、ビーチにいるのは二人きり。
メイベルとテュール王子のみ。
あの教会での脱走劇以来の再会だ。
(うーん、気まずいわ。ロレッタったら誰に会うとか何にも教えてくれなかったからものすごいビックリした。心臓がバクバクしてる)
何を言ったらいいのやらさっぱりわからない。
けれど、この場合身分を考えたらメイベルが先に挨拶をするより他にないだろう。
余計なことは言わずに、何気ないあいさつをすればよいのだ。
「テュール王子お久しゅうございます。この度はこのような素敵な場所にご招待いただきありがとう存じます」
メイベルは年ごろの令嬢らしく柔らかな声で礼を言い、若草色のふんわりとしたドレスの裾を持ち上げて片足を下げで品よくカーテシーをした。
(よし、これで何とかなるでしょう。いっぱしのご令嬢っぽいよね)
自分の令嬢ぶりに満足げなメイベルであったが、テュール王子の反応は思ってもみない者だった。
王子はチッと舌打ちをしいかにも不機嫌そうな顔をして、低くくぐもった声で「ずいぶん歯ごたえのない女になったもんだな。それじゃあ十把一絡げの貴族令嬢じゃないか。つまらん」吐き捨てるようなその言葉に、猫をかぶっていたメイベルもさすがに我慢しきれずカッとなってしまう。
「何よ!あなた一体何なの!王子だか何だか知りませんけどね、人に言っていいことと悪いことがあるでしょう!大体ねあなた失礼よ!教会からあたしをあんな風に連れ出しておいてそのままぷっつり姿を見せないでさ、いったいなぜあんなことをしたのかあたしまだちんぷんかんぷんなんだけど!」
怒りに任せて息をするのも忘れてまくし立てるメイベルを見て、テュール王子はさっきまでの不機嫌さが嘘のように整った顔を崩し今にも噴き出しそうになっている。
「ぶはっ、いいね、それでこそ俺の人魚姫。メイベル、君はちっとも変っていない」
(出た!また人魚姫だ)
「だから、その人魚姫って何なのよ。あたしとあなたが会ったのはこれで二度目、あの教会での時が初対面よね。まぁあたしもあなたに便乗して結婚から逃げた側面もあるからあの出来事をあなただけのせいにして責任を押し付けるつもりはないけど、やっぱり当事者としてあんな行動をした理由だけは教えてほしいものだわ!」
「本当に。覚えていない?」
メイベルの言葉に、テュール王子は眉を下げて悲しげな顔をする。
一つ年下とは思えないほど大人びているのに、そんなしょぼくれた顔をするとずっと幼く見えてまるで雨に濡れた子猫のようだ。
「本当にわからないの、悪いけど……」
つられてメイベルの声も、申し訳なさそうに湿ってくる。
「そうか、そうだよな、ずいぶん昔のことだものな」
「やっぱりあたし達会ったことがあるのね?でもそんな印象的な白銀の髪、一目見たら忘れるはずがないんだけど」
首をかしげるメイベル、しかし一方のテュール王子はメイベルの髪という一言を聞いて、顔に少し元気が戻ってきた。
「そうか、髪、だからわからなかったのか」
ポンと手を叩き、ベストの胸ポケットから黒いスカーフを出して頭にそれを巻いて髪を隠す。
「どう、これならわからないかい?ダイヤモンド号、黒い髪、君が海に飛び込んで助けてくれた」
テュール王子が羅列した言葉を聞いて、メイベルはハッとする。
「あっ、あっ、ひょっとして、あの海でおぼれた男の子?」
「そう、そうだよ。やっと気づいてくれたね」
ぱぁっと明るい表情になったテュール王子の破顔はやっぱり幼くて、まるで小さな男の子のようだ。
そして、この笑顔には見覚えがある。
十年前、まだメイベルが八歳のころ、ダイヤモンド号は西方の海で奴隷船を拿捕した。
そこに乗っていたのは身なりの良い幼い子供たち、そしてうら若い少年少女ばかりだった。
乗組員たちは子供たちを保護してダイヤモンド号に移したが、人買いは男の子の一人を人質にして首にナイフを突きつけ、キャプテンダイヤモンドが飛び掛かってナイフをはじいたものの男の子は海に投げ入れられてしまった。
その時、一部始終を見ていたメイベルがとっさに海に飛び込んで彼を助けたのだ。
「あー、あんなこと初めてだったからよく覚えているわ。まさか王子様だったなんてびっくりだけど」
「うむ、あの時俺は祖母の見舞いで南部に行っていたんだがその道中で供のものが襲われてさらわれてしまい、あの船に乗せられてしまったんだ。目立つからと髪は染料で染められていた。あの時は本当に助かった、人魚姫。君は溺れて息が止まってしまっていた俺に」
「わーっ、それはいいよ。言わなくても」
そう、助けた後には続きがある。
メイベルはテュール王子の塞がれた喉から水を吸いだし、息を何度も吹き込んだのだ。
「意識を取り戻した時、初めて感じたのは君の唇の暖かさとそのやわらかさだった」
「わーっ、だから言わなくっていいってば!」
人工呼吸、それはただの人工呼吸だ。
その時のメイベルは目の前の男の子の命を救うのに必死だった。
それに当時のメイベルは八歳、船の乗組員がやっていたのを思い出し見様見真似でやってはみたが、それがいわゆる接吻、キスと似ているということなど幼過ぎて全く分かっていなかったのだ。それはテュール王子とて同じことであろう。
同年代の遊び相手に飢えていたメイベルは元気なったテュール王子と親しくなり二人で仲良く麻ひもでキャッツクランブル(あやとり)をして遊んだりしていたが、人工呼吸のことを意識したことなど一度もなかった。
近くの港でのお別れの時は大泣きしたが、それは初めての同年代の友達と別れるのが辛かったからだ。
けれど、あの男の子が立派な青年になって目の前にいると、あの時のことが違う感覚で思い出されて耳が熱くなってくる。
「俺のファーストキスは君だった。メイベル」
こんな風にズバリといわれると、ますます意識してしまう。
「だから、あれは人工呼吸なの!キスじゃない!」
「そうか、君は他に人工呼吸をしたことが?」
「いや、あんなこと滅多にあることじゃないから、あれっきりだけど」
「じゃあ、君の唇の感触を知っているのは俺だけなんだな」
「もうやめてよ!」
急に恥ずかしい言葉を並べ立てるテュール王子に、メイベルは首筋まで真っ赤になってしまった。
「あー、じゃあ、あの時の救助のお礼にあたしに会いたかったのね」
無理やりに話題をそらす。
「それだけじゃない、もう分かっているだろう」
しかしテュール王子はそれを許さない。
「わからないわ」
くるっと背を向けると、テュール王子はさっと前に移動する。
「薄れゆく意識の中で俺にめがけて泳いでくる君の姿はとても力強く、そして美しかった。
命の光、その輝きに包まれているようだった。あの時からずっと君が忘れられなかった。成長してから君の居場所が知りたくてずっと探して、そしてやっと会えると思ったら君は見知らぬ誰かのところに嫁に行くという。とても耐えられなかったんだ!だって君の横にいるのは俺だってずっと決めていたから、そのためにずっと準備してきたんだ。だから君が俺の手を振り払わずに一緒に逃げてくれて本当にうれしかった。どうか、どうか、俺とともにこれからの人生を歩いてほしい。俺と結婚してくれ、メイベル」
砂を巻き上げるような風が吹いて、露になった晴れ渡る海のような紺碧の瞳を雲間から差し込んだ日の光が照らす。
(わっ、キラキラ、眩しいってそうじゃなくって)
まさかのプロポーズ、メイベルは驚愕しめまいがしてくる。
様々な謎は一気に解決したが、そこから突然結婚話だなんて頭が追い付いていかない。
「ちょっと、しばらく考えさせて」
震える声でそう答えるのが、精いっぱいだった。
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