第13話
夕暮れの空の中に黒煙をもうもう上げて水の上を走る蒸気船、港がどんどん遠ざかってゆく。
船育ちのメイベルではあるが、その速さは異次元のものだった。
「わーすごい、もうあんなに遠くなっていく。けど煙たいわね。煙がこっちにまで流れてくるわ」
甲板で遠ざかる岸を見つめながら顔をしかめていると、ロレッタがすっと横に並んだ。
「そろそろ船室に行きましょうメイベルお嬢様、いつまでウエディングドレス姿でいるおつもりですか?」
そう言われてハッとする。
今のメイベルは走って眠って乱れた髪にウエディングドレス、そして足元は裸足というありさまだ。
この上甲板にい続けて顔が煤だらけにでもなったら、目も当てられない。
「そ、そうね、着替えなきゃね……」
案内されて入った船室は、またしてもメイベルを驚かせた。
「わぁ、これ本当に船の中なの?普通の部屋みたいじゃない」
小ぶりではあるがソファーにベッド、小さなテーブルまで備え付けられたその部屋は、ちょっとした宿屋の一室のようにも見える。いや、街の宿屋よりずっと清潔感にあふれている。
「今日はここに泊まるの?」
そう尋ねると、ロレッタは軽く首を振る。
「いえ、あちらにつくのに一晩もかかりませんわ。数時間のちにはつくでしょう」
「えっ!外国にそんな早く」
「へぇ、ですからお早めにお仕度なさってください。あちらの港にはお迎えの方もいらしていますから、お顔を拭いて身支度を整えましょう」
シンプルな黒のドレスに着替え、ロレッタに髪を結いなおしてもらう。
足も拭き、白のローヒールを履く。
全てロレッタが用意してくれていたものだ。
本当にありがたい、そう思いつつもメイベルは不思議に思う。
(あたしが教会から逃げ出してから後を追ってきたとして、ロレッタはなぜここまで準備万端だったのかしら。あたしはあの瞬間まで逃げ出そうなんてこれっぽっちも思っていなかったし、外国行きの打診なんて全く受けてもいなかったというのに)
「あ、あのロレッタ」
「あっ、私もうひとつ荷物を持ってこなければ」
尋ねようとするメイベルの声を遮るようにして、ロレッタは荷物を取りにすたすたとどこかへ消えてしまった。
表情から何かを探ろうにも、やはりいつもの鉄仮面、メイベルには何が何やらやはり全く分からない。
ぐるぐると狭い船室を歩き回っているうちに、ロレッタはバスケットを持って戻ってきた。
「メイベルお嬢様、お忘れ物です」
「えっ!?私何か忘れてた?ひょっとしてヴェール」
教会に取り残されたヴェール、それ以外に落としたものは思い浮かばない。
「いえいえ、あちらはペンハット家で回収いたしました。ここにいるのは」
バスケットの蓋を開けると、そこからびゅんと黒い弾丸、遅れて茶色い毛玉が飛び出してきてメイベルの足元にやって来た。
「あっ、キッド!ビー!」
「今回の旅は長くなると聞いております。そうなりますと、こちらの二匹も連れてくる方がよろしいでしょう」
「わー、ありがとう、さすがロレッタ、気が利くのねー」
思わず飛びつきそうになったメイベルを、ロレッタは俊敏な動きでさっとよける。
よろめいたメイベルは、ベッドの上にぽすんと倒れこんだ。
「あらメイベルお嬢様、お気を付けになってくださいませ。折角結いなおした御髪が乱れてしまいますわ」
自分がよけたからだというのにやはり鉄仮面、彼女にとってこれはメイドとしての仕事の一環でしかなく、飛びついてのお礼だなんて無用の長物なのだろう。
メイドオブメイド、冷静沈着、ロレッタは初めて会ったあのときから何一つ変わっていない。
いつもならやっぱり怖いなと思うところだが、今のメイベルにはその変わりなさがほっとできる唯一のことだった。
衝動に突き動かされて思わず飛び出してしまった教会、それからあれよあれよという間に事態が急速に動いて、今のメイベルは北の帝国に行くために蒸気船の中にいる。
目まぐるしいその中でも、ロレッタはやはりロレッタ、いつもの鉄仮面なのだ。
しかし、やはりあの準備万端さは気にかかる。
「ねぇ、ロレッタ、どうしてあなたは私の着替えやらキッドやビーを連れてすぐに追いかけてきたの?まるで最初から用意していたみたいに」
やっと聞けたというのに、ぶぉーという蒸気の音がその言葉を掻き消してしまった。
「おや、もう着いたようですね。下船の準備をしてください」
メイベルの声が届いていたのかいなかったのか、ロレッタはまるで何も聞かれていないかのようにメイベルの荷物の入ったトランクを持ってさっさと先へと歩いてゆく。
(まぁいいか、あっちに着いてからゆっくり訊けば)
「あっ、待ってロレッタ、早いって、もっとゆっくり」
慌てて後を追いかけタラップを降りようとしたメイベルの目に、どこかで見たような青い光が映る。
まばゆい灯台の明かり、その下でぼわっと光る青いあの光、「夜光虫」ぼそっとつぶやいたメイベルの前で、「いいえ、あれはウミホタルです」ロレッタが訂正する。
「へぇ、ここにはそんなのがいるのね」
「いえ、この十一月に北の海でここまで発生するのは珍しいですね」
ロレッタはこの海について詳しいようだった。
ひょっとして、来るのが初めてではないのだろうか。
もう少し詳しく、そう思って口を開こうとするが、港にはメイベルを出迎える帝国の人々が待ち構えていて、挨拶に追われてそれどころではなくなってしまった。
「いやー遠いところをようこそいらっしゃいました。レディメイベル、お疲れでしょうから本日はゆっくりお休みくださいね」
先頭で待っていた初老のぽっちゃりとした紳士は、にこにことしながらメイベルが口をはさむ隙もないほどに一人でしゃべり続ける。
「このお出迎えの大役を仰せつかりまして私マルッキ・エールセン、いえエールセン一族にとってこの上ない誉れでございます。いやー、しかし話に聞くのにたがわず実に可憐なご令嬢だ。まるで砂漠に咲く一輪の薔薇のよう、いや、野原の野の花の中に一輪の百合が気品あふれて咲いているといった方が正しいのかな。王子はさすがお目が高い!」
何を言っているのかわからない。
王子とはいったい何のことなのか、メイベルは帝国はおろか公国の王子ですら会うどころか一度も見たことがない。
一体この人は、何を誰と勘違いしているんだろう。
しかし、自分は親善大使のような立場、王子の部分はお茶を濁して適当にやり過ごすしかない。
「まぁ、エールセン卿、お上手ですのね」
こう言っておけば、まぁ何とかなるだろう。
「いえいえいえ、黒の質素なドレス姿でありながら立ち上るその気品、やはり王子は」
「あなた、いい加減になさって!失礼よ」
結局メイベルはうまくやり過ごすことはできなかったが、横にいた痩せぎすでヴェールのついた帽子をかぶったご婦人にぎゅっと足を踏まれたことにより、ぺらぺらとよく動くエールセンの口はやっと閉じられた。
「お疲れのところ主人が失礼いたしました。長旅でお疲れでしょうから、本日はお城でゆっくりとお休みになってくださいませ」
「いえ、とんでもないです」
深々とお辞儀するエールセン卿夫人にぺこりと会釈をしながら、またしてもメイベルは困惑する。
(あたし、これからお城に行くの?シーライト公国でもお城なんてちらっと見たことがある程度なんだけど、それに長旅長旅ってさっきから言われてるけど、あっという間についちゃったんだよね)
ダイヤモンド号でもし同じ距離を旅したら、おそらく一昼夜はかかったはずだ。
そう頭によぎり、あの最後の夜に父と見た夜光虫を思い出して、メイベルの胸はチクリと痛んだ。
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