第9話

 結局正式に返事をすることはなかったが、メイベルは伯父夫妻の養子となり母の旧姓であるペンハットを名乗ることになった。

 それについてメイベルには何の感慨もなかった。

 本来ならメイベルはメイベル・ミューラーであったはずなのだが、一度もその名を名乗ったことはないし、思い入れなどあるはずもない。

 伯父夫婦は初めのころこそ突然環境の変わった姪をおもんばかって腫れ物に触れるようにしてメイベルを気遣っていたが、二月ほどたったある日、唐突に伯母が今後について方針を並べ立て始めた。

「メイベル、あなたはお行儀がなっていません!船育ちということで心配していた読み書きは問題ありませんでしたが、学力に問題がなければよいというものではありません。あなたはもう私たちの娘です。お客様じゃないんですから、これからはビシビシ言わせてもらいますわよ」

「は、はぁ」

「まずはね、あたしというのはいただけません、これからはわたくしとおっしゃい」

「わ、わたくし」

「そうよ、その方がずっとエレガントだわ」

「はぁ、これからは伯母さまがそうやって教えて下さるのですか?」

「まぁ伯母さまなんてよしてちょうだい。あなたはこのペンハット家の娘、私はあなたの母になったのですから」

「は、はぁ、お母さま」

「よろしい」

 キャロラインの血の気のない青白い肌にほんのりと紅がさす。

 こんなに生き生きとした伯母の姿を見るのは初めてで、メイベルは少し面食らった。

「それでね、私が教えて差し上げてもよろしいのですが、やはりここは専門家に任せた方がメイベルが、レディになるために一番良いと思うの、ですのでここは一流のガヴァネスに来ていただくことにしましたわ!大公妃となられた公爵家の御令嬢、レディ・ミュリエルも彼女の薫陶を受けたおひとりですのよ」

 一気にまくし立てたキャロラインの頬はすっかり紅潮して、林檎のようになっている。

 よほどすごい人のようだが、メイベルにはそのすごさがさっぱりわからない。

 大公が国で一番偉い人であるということはさしものメイベルでもわかっているが顔も知らないし、ましてやその妃殿下などそれ以上にぴんと来ない。

 そもそも、ガヴァネスというものが何なのかさっぱりわからないのだ。

「あのー、ガヴァネスって何なんですか?」

「あら、そこからですの!でも先に聞いてくださってよかったわ、もしもスージー女史に直接そんなことを聞こうものなら、私申し訳なくて顔を向けられないところでしたわ」

 キャロラインの焦りが顔をみるからに、そのスージー女史という人はなかなか怖い人のようだ。

 メイドのロレッタと一体どっちが怖いんだろう。

 メイベルはロレッタの仏頂面を思い浮かべる。メイベルがここの娘となってから、ロレッタは身の回りの世話をてきぱきとこなしてくれていた。

 キッドやビーの世話もいつの間にかしてくれているスーパーメイドだ。

 しかし、メイベルが気軽に話しかけても眉ひとつ動かさず、表情が変わるのを一度も目にしたことがない。

 その完璧さも含め、第一印象で感じた怖さはいまだに変わることはなかった。

「ガヴァネスというのはね、学問や教養を教えて下さる家庭教師よ。スージー女史はその中でも一流中の一流でしてね、なかなかお頼みすることができませんのに、たまたま今は空いてらっしゃったの。公国中の親が彼女に頼みたくて仕方ないというのに本当にあなたは幸運よ、メイベル。あぁ、明日が待ちきれないわ」

 祈るように両手を組み、まるで夢見る少女のような様相になっている伯母のキャロライン。

(あぁそういえば、あたしさっきガヴァネスって何ですかって質問したんだったわ。ロレッタのあの鉄仮面を思い出しててすっかり忘れてた。しかし伯母さまったらそのスージー女史にずいぶん心酔しているいのね。いっそ伯母さまがその人から授業を受けちゃえばいいのに。あーあ、明日からはロレッタにスージー女史、この屋敷に鉄仮面が二人に増えちゃうのね。憂鬱だわ)

 はたしてそんなメイベルの想像は、杞憂に終わる。

 杞憂、その表現もまた違うのかもしれない。

 スージー女史は確かに想像していたような鉄仮面ではなかった。

 しかし、その想像をぶった切るような斜め上の方向の人だったのだ。

「はーい、こんにちは、あなたがメイベルね。初めまして、私はスージー・ボンネット、どうぞよろしくね」

 くるりとカールした黒髪をきゅっとまとめて、地味な紺のワンピースを身をまとったスージー女史は驚くほど元気で張りのある明るい声を発し、ひざを曲げて上品にカーテシーで挨拶した。

「は、はい」

 つられてメイベルがカーテシーをしようとすると、今度はにょきっと腕が伸びてくる。

 どうやら握手を求めているようだ。

 カーテシーをしたほうがいいのか、それとも伸ばされた手を握り握手をした方がいいのか、メイベルが迷っておたおたしていると、スージー女史は口を大きく開けて白く大きな歯をむき出しにしてニカッと笑った。

「レディメイベル、私はあなたのガヴァネスになりますが、別に目上の者ではありません。私にカーテシーはしなくて結構よ。さぁ、握手をしましょう」

「は、はい」

 包み込むようにぎゅっと握られた手はグローブを外したばかりだからだろうか、少しだけ湿っていて小柄な体からは想像もつかないほどに力強かった。

 礼儀作法を教える、そのはずなのにスージー女史は四角四面なお行儀マシーンではなく、よく笑うざっくばらんな人だった。

「レディ・メイベル、あなたの芯はまっすぐよ。そんな子は私に教わらなくても自分でまっすぐ素敵な大人の淑女になっていくものよ。まぁ私はお給金をいただけますからしっかりお仕事はさせていただきますけどね」

 明るく天真爛漫なスージー女史は、仕事の合間にいつも小さなノートに何かを記していた。

「ミススージー、いったい何を書いているの?」

 そう聞くとふふっと笑って答えてくれなかったが、ある日、メイベルの枕元に綺麗な花模様のメモ帳のようなものが置かれていた。

 手に取るとそれは豆本で、かわいらしいタビネズミの男の子が街に出て冒険するお話だった。

 小さな豆本の裏表紙には、小さな小さな文字でメイベルとその友人ビーに捧ぐと記されている。

(すごいわスージー女史!お話も、絵まで、玄人はだしね)

 翌朝、喜んだメイベルがお礼を言うと、スージー女史はいつものガハハ笑いをした後、ふっと真顔になった。

「お礼を言うのは私の方よメイベル、スーパーガヴァネスなんて言われていても私はこの国では立場の弱い婚期の過ぎた独身女性、実家では兄と兄嫁に邪魔者扱いされるし。ずっと独り立ちしたいと思って生きてきた。そしてね、この家であなたやビーにヒントを得て書いたこの物語を新聞社に送ってみたの!そしたらね、子供向けに土曜日の新聞に掲載してくださるって!評判が良ければ本も出せるわ」

「すごい、すごい、ミス・スージー、本なんてすごいわ!」

「ふふう、そうでしょう!」

 メイベルとスージー女史はお行儀のことなど忘れて、手に手を取り合ってくるくると回った。

 まるで小さな子供が野原でくるくると踊るように。

 楽しく、楽しく。

 それからほどなくして、スージー女史の物語は幼い子供とその母親に大人気となり当代きってのスーパーガヴァネスは、当代きっての絵本作家となり、ペンハット屋敷から去っていった。

 バイタリティに溢れ、自らの力で道を切り開いていくスージーの力強い後ろ姿はメイベルの胸にちいさな灯を与え、その灯はまたメイベルの胸に影を落とすことともなる。

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