第8話

 ベンジャミン・ミューラーは男爵夫人であった母の待望の長男として生まれたが、母のお腹にいる間に父がはやり病で他界し、遠縁の息子が既に家督を継いでしまったためベンジャミンは誕生した時点で成長しても無爵位となることが決まってしまった。

 実家に戻された母は居場所がなく、いつもどこか寂しそうにしていた。

 そんな母を守りたいと海軍の要職についていた母方の伯父を頼りわずか十五歳で海尉の試験に合格するとそれからは破竹の勢いで活躍を重ね、若干二十歳で軍船の艦長になると周辺の海を荒らしまわる海賊たちを続々と成敗し、翌年にはその活躍を評価した大公から直々に史上最年少で海軍提督に任命され子爵へ叙せられた。

 その祝いの席を取り仕切ったのがマリネットとチャールズの父であるペンハット卿だった。

 貴族の息子として生まれながらもその華やかな社交界とは一切縁がなく、軍人として無骨に生きてきたベンジャミンにとって自らを主役にした夜会は大層居心地が悪く、ダンスに誘ってほしそうに扇の横からちらちらと視線を送る令嬢たちの視線を避けるようにして一人バルコニーに向かった。

 星明りのみの薄暗いバルコニー、そこではぁっと大きく息をしたベンジャミンの足に何か柔らかなものがゴツンとぶつかる。

「あっ!」

 小さな悲鳴、それはそこにうずくまる少女から発せられたものだった。

「すまない、まさか先客がいたとは」

「いいえ、私パーティーって大嫌いなの!ダンスもね。お父様にがみがみ言われてしばらく我慢してたけど人が多くてすっかり気分が悪くなってしまって、ここでしゃがんで星を見ていたの。まさか他に人が来るとは思わなかったわ!」

 悪気がなかったとはいえ尻を蹴飛ばされても気にするでも怒るでもなくケラケラと笑い飛ばす少女、その笑顔はほんのりとした星明り、そして雲間から顔を出した月の光に照らされて花のように輝いて見えた。

「あ、あの、お名前は?」

「あら、人に名前をお聞きになるなら先ずはそちらからお名乗りになって」

「あっ、すまない。ベンジャミンだ」

「ふふっ、よくできました!私はマリネットよ!」

 これがのちにメイベルの両親となるベンジャミンとマリネットの出会いだった。

 陸にいるわずかな時間、ベンジャミンは足蹴しくペンハット家に通いつめ、勇猛果敢な若き海軍提督の大ファンであったペンハット卿の後押しもあり婚約の運びとなり、ほどなくしてマリネットが成人を迎えると二人はめでたく結婚と相成った。

 結婚後もベンジャミンは獅子奮迅の活躍をしてその名声は周辺国にまで轟き、芝居の演目にまでなった。

 めったに会えないとマリネットは実家にちょくちょく顔を出しては弟のチャールズに不満を漏らしたが、その口ぶりとは裏腹にその頬はうれしそうにほころんでいたという。

 そして、結婚二年目にしてマリネットの妊娠がわかると、ベンジャミンは飛び上がりそうなほどに喜び、生まれるころにはたくさんの土産をもって帰ってくると約束してまた海へと旅立っていった。

 しかし、ベンジャミンが再び姿を現すことはなかった。

 数年にわたり七つの海を荒らしまわっていたビーキーダッツ率いる多国籍海賊団との死闘を制しシーライト公国に帰還する海上で大嵐に巻き込まれ、消息不明となってしまったのだ。

 その話を耳に入れない様にペンハット卿は実家で出産することをマリネットに勧めると、外部との連絡を遮断した。

 しかし、出産後ほどなくしてメイドたちのうわさ話でマリネットは真実を知ることとなる。

 憔悴しきったマリネットは食事もほとんどとることができず、 娘の顔を見るたびに泣いていた。

 しかし、ある日届いた差出人不明の手紙を目にしてからはみるみる元気を取り戻し、ペンハット卿もチャールズも安心しきっていたところ、突然娘を連れて出奔してしまった。

 これが、チャールズの知る全てだという。

「正直、マリネットも君ももうこの世にはいないものだと諦めていたんだ。父も妹が姿を消してからすっかり気落ちしてしまって、自分が結婚を後押ししてしまったのがいけなかったのではないかと亡くなった母の肖像画に毎日毎日語り掛けて、二年後に母のもとへと旅立ってしまった。しかし、半年ほど前にベンジャミン、キャプテンダイヤモンドから手紙をもらってね、君たち親子が生きていることがやっとわかったんだ。実際のところ私にとっても青天の霹靂のような出来事だったんだよ」

 一息で話し終えると、チャールズはやっと肩の荷が下りたかのようにほおーっと深い吐息をついた。

「えっ、えっ、でも生きていたならなぜここに戻ってこなかったんですか?一体どういうこと?」

 伯父が知るという全てを聞いても、メイベルにとって到底納得のいくような話ではなかった。

 海賊を討伐する側の海軍提督が、何故海賊へとその姿を変えたのか?

 母のマリネットにしてもそうだ。

 何故夫が生きていることを家族のだれにも知らせずに、姿を消して海へと消えたのか?

 若き日の両親の意図が、メイベルには理解できない。

 謎だらけのその行動は、いったい何のためだったのだろうか。

「すまないねメイベル、私の知っていることはさっき話したことで全てなんだよ。ベンジャミンが何故あんなに身を削ってまで真摯に取り組んでいた海軍提督の職を捨てて海賊になったのか、何故生きていることを私たち家族にも今の今まで知らせてくれなかったのかも」

 申し訳なさそうに肩を落とすチャールズに、メイベルはそれ以上詰め寄ることはできなかった。

「これは私の憶測でしかないのだが、あの差出人不明の手紙はやはりベンジャミンからのものだったのだろうね、妹は、マリネットは君たちとともにダイヤモンド号に乗っていたんだろう?」

「はい、あたしが幼いときに亡くなってしまったのであまり詳しくは覚えていないのですが、いつも笑っていた優しい母だったと思います」

「そうか、そうか、マリネットは幸せだったんだね。短い間ではあったかもしれないが、親子三人で幸せな時間を過ごせたんだ。良かった。良かった」

 チャールズは目じりを拭うと、ふうっと今度は大きく息を吸ってメイベルの目をじっと見据える。

「ところでここから本題に入らせてもらう。ベンジャミンからの手紙のことはすでに話してあるが、彼は君の将来についてとても心配していた。もうすぐ十五歳になる君をいつまでもダイヤモンド号にのせて不安定な暮らしをさせるわけにはいかないとね、自分を含め乗組員たちは陸に居場所のない海でしか生きられない者ばかりだが娘は、君は違うと。他の生き方を選べない状況に自分がしてしまったと。だから君にはこれから自由に、今まで立つことのなかった陸の上で自由に生きていってほしいと、よろしく頼むと書いてあったんだ。私たち夫婦には子供がいない。十五年の空白はあるが、ここは君の生まれた場所だ。これからは私たちの娘としてこのペンハット家で暮らしてほしいんだよ」

 父の気持ちを知って、メイベルの胸は押しつぶされそうだった。自由に生きてほしいならなぜ自分に選ばせてくれなかったのだろう。海の上で生きるか、陸の上で生きるか、自分自身に決めさせてほしかった。

 胸の内を打ち明けてほしかった。

「どうだいメイベル、ここに残ってくれるかい?」

 チャールズとキャロラインが心配そうにメイベルの顔を覗き込む。

 メイベルはその問いに答えることができなかった。

 ここに残るしかない、いくら海に、ダイヤモンド号に戻りたくとももうその術はない。

 ここで生きるしかないことは分かりきっていても、ここで自分が頷いてしまったら自分からダイヤモンド号からまだ繋がっているように感じている細くつたない糸を断ち切ってしまうような気がしてどうにも応えることはできなかった。


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