第7話
焼き立ての甘いパンの香りでメイベルは目覚めた。
天井を見上げたまままんじりもせず刻々と過ぎる時を過ごしていたが、やはり疲れていたのだろう。
いつの間にか深い眠りについていたのだ。
「メイベルお嬢様、朝食をお持ちしました」
昨日からたびたびその姿を目にしている紺色のメイド服を身にまといきっちりとしたお団子頭のメイベルとそう年の変わらなそうな若いメイドが、銀のトレイに載せた朝食を運んで来てくれた。
「あ、ありがとう、えっと」
名前を呼びたいが、彼女の名前はまだ知らない。
「メイドのロレッタでございます」
そんなメイベルの戸惑いに気づいたかのように、メイドのロレッタは自ら名を名乗る。
「ロレッタさ、ん、ありがとう」
「さんはいりません。ロレッタとお呼びください。メイベルお嬢様」
「あ、じゃああたしのこともメイベルでいいよ。お嬢様なんて柄じゃないもの。何だかこっぱずかしいっていうか、むずがゆくって」
「いえ、とんでもございません。私はこのお屋敷で雇われているメイドであり、メイベルお嬢様は子爵様の姪御様でいらっしゃいます。とても呼び捨てになど」
「そんなの気にしないで」
だってあたしは海賊の娘よ。という言葉をメイベルは飲み込んだ。
「お嬢様がよろしくても旦那様と奥様はそうは思われません。メイベルお嬢様は私をこのお屋敷から追い出したいのでしょうか?故郷には足の悪い祖母と幼い弟妹がいて私の仕送りを必要としているのです。何か粗相でもございましたでしょうか、直しますのでご申しつけください」
その丁寧な口ぶりと涙を誘うような内容とは違い、きっと睨みつけるようなまなざしで見据えてくるロレッタの視線にメイベルはたじろぎぶんぶんと首と手を振った。
「いえいえいえ、とんでもない!よくしていただいており、ま、すですっ!」
「そうですか、では何が御用がありましたらベルでお呼びくださいませ、それではまた後程食器をかたずけに参ります」
ぺこりと頭を下げて部屋を出るロレッタ。
そのしゃんとした背中をメイベルは怯えた目で見送った。
(うわーロレッタ迫力あるなぁ、怒らせないようにしたい感じ)
子供のころから父親をはじめとしたダイヤモンド号の猛者たちが荒くれもの相手に修羅場を潜り抜けているのを目にしてきたメイベルであったが、あんなに丁寧でありながら背筋を凍らせるような迫力のある視線に射られたのは初めての経験だった。
「そっか、チャールズさんって子爵なんだね、よくわからないけどたぶん偉い人なんだよね。あたしは一応その姪ってことになるから呼び捨てはダメなんだ。なーんか面倒くさいなぁ」
唇を尖らせながら、初めてのベッドでの朝食に挑む。
「ベッドの上でご飯って食べていいもんなんだね、いつもは立ったままなのに」
船の中にテーブルや人数分の椅子があるわけもなく、乗組員たちは空いた時間に適当にそのときある食糧をつまんでいた。
トレイの上に載っているのは朝食のためだけに焼かれたのだろうか、湯気が立ちそうなほどほかほかのあたたかでふんわりとした白パンに目玉焼きと野菜スープ、それにソーセージが三本添えられている。
「うわー、豪華だなぁ。あっ、キッドとビーにも」
分けようとして二匹を目で探すと、いつの間に用意されていたのだろうか、ビーの前には青々と草、キッドにはミルクに浸したパンの載った木皿が置いてあり、二匹とも一足お先に食事中だ。
「はー、ロレッタって行動が早いなぁ、このトレイしか持ってなさそうだったのにいつの間に、謎すぎるわ」
またしても首をかしげながら口にした朝食は、船で食べていた干し肉や堅い黒パンとは全く違う何だか高級な味がした。
「あぁ、みんなが食べたら飛び跳ねて喜びそう」
思わずそんな声が出て、メイベルはぎゅうっと唇を噛み締めた。
何が、何があったのだろう。どうして自分はここに。それを知るには、まず伯父の話を聞くほかはないのだ。
「元気、つけなくちゃね」
もぐもぐむしゃむしゃ、ごっくん、仕上げにベッドサイドにあったレモネードも飲み干して、メイベルはその時を待った。
昼下がりに伯父に呼び出されて向かった書斎、そこにはあの青白く幽霊のような顔に真っ赤な紅を差し、頬もピンク色に染め上げた伯母の姿もある。
「さぁ、ここに掛けて気持ちを楽にして」
伯母と並んでソファに腰かけ、骨ばった指先で両手を包まれて、とても楽にしてくつろげるような気分になれないままメイベルは伯父の話に耳を傾ける。
「メイベル、君のお母さんが私の妹だということはもう昨日話したね。マリネット、私の妹はここで十五年前に君を産んだんだよ」
「えっ!」
メイベルは思わず声を上げた。
物心ついたときにはすでに海の上、てっきり自分は海生まれ、海育ちだと思っていたのだ。
ぼんやりと覚えている母の記憶でも、「メイベル、あなたは海の子よ」と呼ばれていたのに。
それはどういうことなのか?メイベルは口を開きかけたが、手にかぶさっている伯母の指にきゅっと力がこめられ、質問したくなる気持ちを抑え、伯父の言葉の続きを待った。
「君はね、マリネットと海軍提督のベンジャミン・ミューラーとの間の子供なんだよ。君のお父さん、ベンジャミンはね、疾風のベンジャミンと呼ばれて本当に強く素晴らしい人で、我がシーライト公国の海の安全を守り国民に尊敬されていた。本当に素晴らしい人だったんだよ」
「えっ、あたしの父さんはキャプテンダイヤモンドです!海賊ですよ!そんな疾風のなんちゃらとかいう人じゃありませんっ!」
今度は黙ってはいられなかった。
母は子爵家の令嬢だった。それを知った今となっては、海賊と令嬢が出会って結婚するなんて荒唐無稽な話だということは分かる。
海軍提督との結婚の方が道理には合うだろう。
けれど、それならあの父は誰だというのだ。
メイベルを育て、そして守ってきたあのキャプテンダイヤモンドは一体メイベルの何だというのだ。
「メ、メイベル、落ち着いて」
伯父のチャールズの声、そして伯母のキャロラインの指先が震える。
「だって、これが落ち着いていられる?あたしは海で育って、ずっと海の上で……それで父さんは海賊、あのキャプテンダイヤモンドだって信じてたんだよ、それが、それがっ」
そしてメイベルの声も。
「じゃああたしは赤の他人を父さんだと信じ込んでいたってわけ?だから、だから、あの人はあたしが邪魔になって陸の上に置いて行ったの?じゃあ、じゃあ何で母さんは船に乗ったの?あの人は何であたしを育てたの?」
訊きたいことは山ほどある。言葉が次から次へと出てきて止まらない。
けれど、その答えを聞きたくないような、真実を知りたくないような、今までの自分が嘘になってしまうような気がしてメイベルはちぐはぐな気分にさいなまれる。
姪の矢継ぎ早の質問に一つ一つ静かに頷きながらチャールズはキャロラインの方を見つめ、キャロラインはゆっくりと大きく彼に向かって頷いた。
「口をはさんでごめんなさいね、メイベル、あなたのお父様はキャプテンダイヤモンドで間違いないわ、あの人は確かにあなたのお父様、赤の他人などではないのよ」
「どういうこと?だって父さんは、キャプテンダイヤモンドはお尋ね者の海賊なのよ?海軍提督なんかじゃないわ!」
全く訳が分からない。この人たちは一体何を言っているのだろう。
メイベルはすっかり混乱していた。
「いや、キャロラインの言うとおりだよ、義兄さん、ベンジャミン提督とキャプテンダイヤモンドは同一人物なんだから」
「そうよ、その通りなのよ」
伯父と伯母に挟まれて信じられない事実を聞いたメイベルはまた失神しそうな気分になった。
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