第6話

(うぅ、頭がずきずきする。それに何だか変な匂いが……)

 メイベルは鼻の奥までツーンと来る刺激臭に包まれながら、目をうっすらと開けた。

「あぁ、良かったわ。あなた、気が付きましてよ」

 目の前では青白く鶏がらのように細く骨ばった手に握られたガラスの小瓶が揺れ、何やら液体が頬に降りかかった。

「臭い!」

 船の中のトイレバケツのようなアンモニア臭にフローラルで甘い香りが入り混じったその強烈な臭みにメイベルは思わず鼻を摘まむ。

「あらあらごめんなさいね、気付け薬がこぼれてしまったわ、今メイドにタオルと水を持って来てもらいますからね」

 青白くまるで幽霊のように痩せた中年女性は、傍らのベルをちりんちりんと何度か鳴らしたあとそそくさとその場を後にした。

(いったいこの人は誰なんだろう?)

 首をひねるメイベルの前に、さっきの女性と入れ替わるようにして薔薇模様の陶器の桶とタオルを持ったメイドとともに気を失うまでメイベルの前にいたあの中年男性、伯父を名乗るチャールズが現れた。

(あぁ、そういえば私街で気を失ってしまったんだった。)

「メイベル、驚かせてしまって悪かったね。あれから君を馬車にのせて我が屋敷まで連れて来たのだがずっと目を覚まさなくてね、妻のキャロラインがたいそう気をもんでずっときみに付きっきりで気付け薬を嗅がせていたんだよ。もう三時間にもなる」

 三時間、どうりであの臭い匂いが鼻の奥に染みついているはずだ。

 そしてあの女性は、このチャールズとともに港に一緒にいたあの日傘の女性のようだ。

 あの時は日傘で顔が隠れ、手も黒いレースの手袋で隠れていたため同一人物だとは気づかなかった。

 日に当たらないからあんなに幽霊のように青白いのだな。普段接していた大人の女性はぎらぎらとした太陽と潮風で焼けた小麦色の肌のジャネットだけだったメイベルにとって、あそこまで陽の光を遮断した女性は実に珍しいものとして映った。

(何かお日様に当たるとまずいことでもあるのかしら、まさか吸血鬼でもあるまいし)

 美容のために肌を焼かない。

 そんな意識は、海育ちのメイベルの中には微塵もないものだったのだ。

 ぼんやりと考えをめぐらすメイベルの前で、チャールズは気まずそうに指先で髭をもてあそびそれからトントンと踵を鳴らし、再び口を開く。

「いろいろと事情を説明したいところだが、君も疲れているだろう。今日はゆっくり休んで話はまた明日にしょう。あぁ、でも食事がまだだったね。お腹はすいていないかい?」

 マーケットを楽しみにしていたメイベルは、朝食も食べずにダイヤモンド号を出て結局今の今まで何も口にしていない。

 お腹が減っていないといえば嘘になるのだが、しかし今何かを食べたいと思うような気持ちにもなれず、静かに首を振った。

「そうか、じゃあゆっくり休んで、明日の朝食はベッドに運ばせようね」

 話の間に濡らしたタオルで顔を拭いてくれていたメイドとともに部屋を去ろうとするチャールズの背中を見つめながら、メイベルははたと大事なことを思い出した。

「あ、あの、私の鞄と着ていた洋服はどこに?」

 鞄の中にはキッド、服のポケットにはビーがいる。

 失神している間に着替えさせられていたのだろう、つるつるとした寝間着姿のメイベルの傍らには、鞄も服も見当たらない。

「あぁ、それならメイドが今洗濯を」

「キャーッ!」

 チャールズが言い終わらないうちに、廊下の先から甲高い悲鳴が響いた。

「く、黒猫―!それにネズミがぁー」

「えっ!どういうことだ!どこから入り込んだんだか!フットマンのボビーにいいつけてさっさと追い払わせないと」

 慌てて悲鳴の方向に向かおうとするチャールズの腕を、メイベルは必死につかんだ。

「あ、あの、その子たちはあたしの家族なんです!どうかひどい目にはあわせないで」

「あ、あぁ、メイベル、君のペットだったのか。しかし猫なんて連れていたかな?」

「鞄とポケットに入れていたんです。マーケットででも出てこないでおとなしくしていたし、ちゃんといい子にできますから」

「そ、そうか、でもねぇ、家にはキャロラインが可愛がっているマルチーズのピピがおるんだよ、それがネズミ捕り用の猫と相性が悪くてね、ネズミ捕りの役目がある夜中以外はフットマンのボビーが自分の小屋にいれているんだよ。さて、どうしたものか」

 腕を組んで考え込むチャールズをメイベルは懇願するような潤んだ瞳でじっと見つめる。

「あのお願いします。キッドもネズミ捕りの船乗り猫として役目をしていたんですけど、人間に悪さをしたことはありませんし、犬は……船にはいませんでしたけど、きっと仲良くできると思います。ここにいる今日だけでも、私と一緒にいさせてください」

「今日だけって‥…まぁその話は明日として、そうだね。じゃあここに連れてこさせよう。キャロラインには私から言っておくよ。しかしネズミの方はなぁ」

「ビーも大丈夫です!あの子はタビネズミで小枝や草しか食べません!お屋敷の食糧を荒らすことはありえませんから」

「ほう、そんなネズミがいるものなのか」

「えぇ」

「じゃあ、ボビーに連れてこさせるか」

 チャールズが怪訝そうに頷きながら扉を開けると、そこにはつい先ほど呼ぼうとしていたボビー、港でメイベルに立ちふさがったあの屈強な男がへとへとの体で腰を曲げて立っており、その足の隙間からたたーっと黒い影と豆粒のような茶色い影が走りぬけ黒い影は稲妻のようにメイベルの寝ているベッドの上に飛び乗った。

「だ、旦那様もうしわけございませんです。あいつらすばしっこくて、火掻き棒でも持って来て脅かしてやりましょうかい?」

「いやいやいや、それはいい。もういいんだ」

 キッドをぎゅうっと抱きしめ、拾い上げたビーを肩にのせてふるふると首を振るメイベルに言い訳するように、チャールズはまごまごしてボビーに事のいきさつを説明する。

「あの猫とネズミは姪のペットなのだよ。だからもういいんだ」

「へぇ、そうでやんしたか。奥様はご承知で?」

「あぁ、それは……私が何とかするから」

 はぁと大きくため息をついたチャールズは、寄りかかるかのようにボビーの背に手を置き頭を下げてとぼとぼとした足取りで部屋を出て行った。

 バタバタとしたご一行がすべて部屋を出ていき、メイベルはベッドの上でうーんっと大きく伸びをした。

 騒がしくて気づいていなかったが、こんな手足を目いっぱい伸ばしても指先すらもはみ出さないほど広々としていて、背中が全く痛くならないどころかふかふかと柔らかなこんなベッドに寝たことは生まれて初めての経験だった。

「あぁ、今日はいろいろあってすごく疲れたわね、ダイヤモンド号を出たのがすごく昔のことのように感じるわ、まだ一日も経っていないっていうのにね」

 メイドに持って来てもらったミルクに浸したパンをたらふく食べて満足したキッドは、メイベルに撫でられながらうとうとと気持ちよさそうにまどろみ、ビーも枕の横ですやすやと眠っている。

「あんたたちは順応性が高いのね、ここはダイヤモンド号じゃない、海の上じゃないのよ」

 いつもと違う白い天井、そこにつる下がっているきらきらちかちかとしたシャンデリアの明かりを眺めながらメイベルの瞳からははらはらと涙がこぼれ落ちてきた。

 張り詰めていた気持ちがぷつんと切れてしまったような気持ちだった。

 いつもの薄く堅い木のベッドとは違うふかふかで柔らかで寝心地のいいはずのベッド、しかしその感触が、自分はもうあそこに戻ることはないんだと思い知らされているような気がして、メイベルはただ海を想って泣いた。

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