第5話
「どうして、どうして……まだ約束の時間になっていないのに」
茫然とするメイベルの目には、もうダイヤモンド号の水面の影すら映らない。
何か急いで離れなければいけないようなのっぴきならない事情があったのかもしれない。
いや、ひょっとしたらメイベルがもう乗り込んでいると勘違いして出発してしまい、気付いて慌てて戻ってきてくれるかもしれない。
そう思って港で待つメイベルだったが、約束の時間を過ぎてもダイヤモンド号が戻ってくることはなかった。
「どうしよう、どうしたらいいの?」
カバンの中のキッドに問いかけるが、キッドは面倒くさそうに欠伸をしているだけだ。
「もうっ、あんた達だって置いて行かれちゃったんだよ。呑気に欠伸なんかしちゃってさ」
いらいらと語りかけても返事が来るわけでもなく、キッドはそっぽを向いて眠りに落ちてしまった。
「あぁ、こんなことならマーケットなんか行かずに、郵便局で用事を済ませた後にすぐに戻ってくればよかった」
何を言ってももはや後の祭り、一人と二匹で見知らぬ場所に取り残されてメイベルの目にはじわじわと涙が滲み始める。
もうお金もない、宿に泊まることもできない。
それにもしも一夜の宿だけ得られたとしても、船の中、水の上で生きてきたメイベルが陸で一人どうやって生きていけばいいというのか。
不安ばかりが暗い靄となって胸の中を覆いつくしてゆく。
じわりと湧きだした涙がい大粒になって零れ落ちようとしたその時、「もし、お嬢さん」背後からトントンと肩を叩かれ、だれかに話しかけられた。
「えっ!?」
驚いて振り返ったメイベルの目の前にいたのは、黒い山高帽にステッキ姿でキャプテンダイヤモンドと違いきっちりと手入れのされた口ひげを生やした品のいい中年紳士と、折れそうなほど細いウエストの落ち着いた藍色のシンプルではあるが裾には手の込んだ薔薇の刺繍が施されていていかにも上質なドレスを身にまといふんだんにレースを使った日傘を差した貴婦人の二人だった。
「驚かせてしまってすまないね、ここではなんだから一緒に馬車に乗って家まで来てくれないかな?」
名も知らぬ初対面の紳士にそんなことを言われて、メイベルは面食らう。
この二人は一体何が目的なのだろう。
まさか人買い!?
メイベルの脳裏に、あちこちから誘拐され手奴隷船に詰め込まれ、ダイヤモンド号によって解放された痩せこけておびえ切った少年少女たちの姿がよぎる。
(そういえば前にジャネットから聞いたことがあるわ。人買いや人さらいはどう見ても怪しいやさぐれ者だかりじゃない、いかにも品のよさそうなお金持ち風の扮装をして甘い言葉で警戒を解いて売り飛ばしてしまうのもいるって)
背筋がスーッと冷たくなる。
いくら困っているからといって、さらわれて奴隷船に乗りどこぞへ連れていかれるなんて御免だ。
「い、いえ、遠慮しま……す」
くるりと背を向けて脱兎のごとく走り出したメイベル。
「ま、待って」
その後ろからステッキを放り出した紳士風の男がぜいぜい息を切らしながら必死の形相で追いかけてくる。
(やだやだやだ、まだ追いかけてくるーどうしよう、どうしよう、あぁもう、いったいどこに逃げればいいの)
脇目も振らず必死で逃げていたメイベルは、ドシンと何か壁のようなものにぶつかってしまった。
ふらついて後ろによろけたメイベルをその当たった壁のようなものからにょきっと腕が伸びてきて、がしっと受け止める。
「旦那様、お嬢さんですか?」
「はぁはぁ、そうだよ。捕まえておいて」
「へい」
メイベルが運悪くぶつかってしまったのは、あの紳士風の男の手下のようだった。
(あぁ、もう逃げられないんだ。あたしはダイヤモンド号じゃなくて、今夜は奴隷船にのせられてしまうんだ。)
ビックリしすぎていつの間にか止まっていた涙が、まだじわじわと湧いてきて鼻の奥がツーンとしてくる。
「はぁはぁ、驚かせてしまってすまないね、メイベル。私の説明不足だった」
「えっ!?」
怪しい紳士風の男が何故自分の名前を知っているのか?
メイベルの頭の中は、クエスチョンマークで埋め尽くされる。
「な、何であたしの名前を?」
思わずそんな言葉が口から飛び出す。
「は、はぁはぁ、ぜぇ、私はね、メイベル、君の伯父なんだよ」
「へっ!?伯父さん?」
メイベルにとっての家族は父であるキャプテンダイヤモンドとダイヤモンド号の乗組員の皆、そして物心つくかつかないかくらいの幼いころに亡くなってしまった母だけだ。
自分に伯父がいることなど、今の今まで一度も聞いたことなどない。
やはりこの連中は怪しい。逃げなくては。
そう思うのだが、メイベルを捕まえている男はそう大男というわけではないのにがっちりとしていて、屈強なその腕に両肩を押さえつけられていて身動きが取れない。
「だ、だって、あたし伯父さんがいるだなんて、一回も聞いたことないんだから!あんたたち怪しいわよ。どうしてあたしを捕まえようとするの」
もはやこうして口で抗うしかない。
メイベルにキッと強いまなざしで睨みつけられた紳士風の男はフロックコートの胸ポケットから取り出した赤いハンカチーフで額の汗を拭いながらおろおろと言葉を繰り出す。
「いや、本当なんだよ。私は君の伯父のチャールズ・ペンハットだ。君のお母さんの兄なんだよ」
「えっ、母さんの?」
朧げな記憶しか残っていない母、顔もうろ覚えで、目の前のこの赤く火照った顔と似ているのか似ていないのかは判別しようがない。
「で、でも、いきなりそんなことを言われても、あたし、あっ、港に戻らなくちゃいけないし、船が戻ってくるかも」
慌てて走ったせいで、港からはだいぶ離れてしまっていたのだ。
船が戻ってこないまでも、誰かが迎えに来ているかもしれない。
何の事情もなくダイヤモンド号が自分を置いていくはずがない。
いくら不安に思っても、メイベルはやはり家族を信じていた。
「ダイヤモンド号ならもうここには戻らないよ。私はね、君のお父さん、キャプテンダイヤモンドからメイベル、君のことを任されているのだから」
しかし、赤みの引いたチャールズの困ったような顔から発せられたのはそんな非情な言葉だった。
「そ、そんな、そんなわけないわ!父さんが勝手にそんなことするわけないじゃない!」
「しかしね、こうしてきちんと手紙ももらっているのだよ」
目の前に差し出された手紙、そこに羅列している文字は確かにメイベルの父、キャプテンダイヤモンドの筆跡にみえる。
少し右上がりに跳ねる癖、特徴のあるその文字。
【七月の一日に港につく、昼過ぎに港へ迎えに行ってやってくれ。メイベルはジュリエットに生き写しだからすぐにわかるはずだ】
そこには確かにチャールズの言う通りの文面が記されている。
しかし、メイベルにはそれがただの羅列するアルファベットにしか見えない。
ただするすると目の上を滑ってゆく。
そんなことを父が頼むなんて。
自分に何の相談もなしに勝手に決めてしまうなんて、どうしても受け入れられなかった。
しっかりとその文面を目に入れてしまったら、それが全て本当のことになってしまうようで怖くて仕方がなかったのだ。
「分からない、あたしには何も分からないわ。こんなの、こんなことって」
受け入れたくない、読みたくはない。
こんなことあり得るはずがない。大切な家族たちに自分のことをこんな風にいとも簡単に、鼻をかんだ紙屑のようにぐしゃぐしゃにまるめてぽいっと捨てられてしまうなんて、どうしても信じることができなかった。
けれど、自分を置いて船が行ってしまったことはまごうことなき真実であるのだ。
余りのことにメイベルの胸はその事実を抱えきれず、目の前が真っ暗になるような気分に襲われついにはその場で気を失ってしまった。
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