第3話
「五日後には陸にあがるぞ」
キャプテンダイヤモンドが思いつきのように発表すると、乗組員は一様にざわついた。
「おやっ、まだ一月ほど先のことだと思っておりやしたが」
「あぁ、その予定だったが食糧が思いのほか減っているし、このところのカラカラ陽気で水もたりねぇしな、ここらで一端小休止だ」
「いやっほー!ここいらだとノーストン港だな、あっこの魚料理はめっぽううめぇし、酒場の姉ちゃんもいろっぺーんだ」
大はしゃぎの大人たちに交じって、メイベルも瞳をきらきらと輝かせる。
(あたしもずいぶん大きくなったし、今回は公衆浴場だけじゃなくってマーケットとかも見て回りたいわ。後で父さんに許可をもらわなくっちゃ!)
そんなメイベルの心の声が聞こえたのか、キャプテンダイヤモンドはうきうきした表情の娘を近くに呼び寄せると、意外な言葉を口にした。
「メイベル、お前もずいぶん大きくなったな、それでお前にひとつ頼みてぇことがあるんだ」
「えっ!頼み!?何、何?」
意外な言葉に驚きつつも胸が高鳴る。
父親に頼みごとをされたことなど、今まで一度もなかったからだ。
(わー、父さんもあたしを一人前の大人だって認めてくれるのね。そうじゃなけりゃあこんなこと言わないはずだもの)
「うん、港からちょいっと行った先の郵便局にな、手紙を届けてほしいんだ。銅貨を三枚やるから余ったらマーケットでリボンでも買やぁいい」
「わぁ!マーケットにも行っていいの」
「おーいいぞいいぞ、おっと郵便局に先に行くのを忘れちゃいけねぇぞ」
「はいはい、分かってますって。ちゃんとやりますよー」
「はっはっは、そりゃ頼もしいな」
「えぇ、大船に乗ったつもりで任せて頂戴な!」
ドーンと胸をたたきえへんと顎を上げるメイベル、そんな娘を見つめるキャプテンダイヤモンドの何も映さないはずの右目に一瞬鈍い光が宿ったのに斜め後ろに佇んでいたジャネットは気づいたが、目を伏せて見なかったふりをした。
それからの数日間、メイベルのうきうきは留まるところを知らなかった。
浮足立った気持ちを発散させるように船中の床を何度も何度もモップ掛けし、つるつるしすぎて滑ると注意されたり、陸に上がる前にせめて海水で水浴びをとキッドを追いかけまわして暴れまわるキッドにとばっちりで足首を引っかかれたジャネットにお尻をぺんぺんされたりもしたが、やはり気持ちは落ち着かない。
ふわふわとし通しだ。
「全くベルったら、そんなにはしゃいでたら陸に上がる前に疲れちゃうよ。今度はあたいはついて行ってやれないんだから、迷子にでもなったらどうするの」
「大丈夫よジャネットったら心配性ね、あたしももうすぐ十五よ、いっぱしの大人だわ!」
「はいはいー、そうでござんすか。大人っていうのは尻の青い小娘のことを言うんですかー」
「失礼ね!あたしのお尻は青くなんかないったら!」
「そうね、ぺんぺんされて今はお猿のように赤くなってるか!」
「もー誰がぺんぺんしたのよ!ちっちゃい子供にやるみたいにさ」
「ベルが子供みたいにはしゃいでたからだろぉー」
足首をさするジャネットに、さすがのメイベルも申し訳なさそうな顔になる。
「だって、陸に上がる前にキッドの毛並みもきれいにしておこうと思って」
「猫は自分で嘗めてきれいにするからいいんだよ、ほらてかてかしてるだろ」
確かにキッドの毛並みは黒黒つやつやしていることはいるのだが、ある意味てかてかで脂ぎっているようにも見えるし時々かゆそうにフラッグポールに体をこすり付けているのだ。
「でもー。かゆそうにしてるしー」
「はいはい、もうキッドのことはいいから、熱でも出さないようにじっくり寝て英気を養っておきな」
ポンポンと頭を叩かれ段ベッドの下に潜り込むが、やはり興奮でなかなか眠れない。
(あーついに明後日あたしは陸に行くんだわ。上がるのは初めてじゃないけれど、一人でお使いをするなんて初めてだもの。ドキドキするなぁ、市場ってどんな感じなのかな……遠巻きに見たことしかないけれど、子供たちがとっても楽しそうにしていたのを覚えてる。うーリボンもいいけれど何か買い食いもしてみたいなぁ、あっ、でも父さんにもジャネットにもお土産って銅貨三枚じゃ無理かなぁ、切手っていくらなんだろう)
一人で出歩いたことがないメイベルは、金の価値や街の物価についてほとんど知らなかった。
分かるのはせいぜい公衆浴場の入浴料が、大人のジャネットと自分を合わせて銅貨一枚ということくらいだ。
銅貨の下に小さな半銅貨というものがあることもまだ知らない。
しかしそんな無知ゆえの街へのわくわくが、メイベルを眠りへといざなう邪魔をしているのだ。
何もかもが新世界、見るものすべてが新鮮に映る。
そんな状況に踏み込むことを考えたら、未知への恐怖よりも希望やドキドキの方が勝る。
その点において、メイベルは自分が思っているよりもまだまだ子供だったのかもしれない。
やがて訪れる大人への扉がもう目の前に迫っているということ、それは希望にときめくわくわくへの入り口というだけではないことに彼女はまだ気づいていない。
大人にあこがれて早くそうなりたいと思っていた無邪気だった自分のことを懐かしく思う日が来るなんてことを、ほんの少したりとも考えることはなかった。
ごろん、ごろん、ごろん、木の板の上に敷いた干し草がぱらぱらとこぼれ落ちそうなほど寝返りを打って、朝を待ちわびる。
そうしていよいよ待ちかねた日を翌日に控えた夜、やはりまんじりともできなかったメイベルが甲板に出ると、そこには先客、キャプテンダイヤモンドがいた。
「あっ、父さんも起きてたの?」
「あぁ、メイベルか、海を見ていたんだ」
「わぁ、今日の海なんだか違うわ、こんなの初めて見た」
もう目と鼻の先まで迫っている港、その波打ち際からこの船に向かって青い光の道が続いている。
「あれって、夜光虫よね?でもこんなにいっぱい海のミルキーウェイみたいなのは初めて」
夜の港には数えきれないほど来ている。
波打ち際でチカチカと光る夜光虫も何度も見たが、いつもはぽつりぽつりとしたまばらな光だけだった。
「そうか、メイベルはノーストンは初めてか、ここではなときたま夜光虫がこうやってどっさり集まって俺らみてぇな船が通るとこうやって一斉にビカビカ光んのさ」
「へー、何だがあたしたちを歓迎してくれているみたいね」
「歓迎か、あぁそうだな」
闇の中でまばゆく輝く青い光に目を奪われたメイベルは、その道の先をじっと見つめるキャプテンダイヤモンドの覚悟を決めた表情には気付かない。
「光の道だ、お前はこの道を進んでいくんだぞ」
「えー、父さんも船のみんなもみんな一緒にいくんじゃない」
その言葉に返ってきたのが静かな微笑みだけだったことも、メイベルの胸に不安をよぎらせるようなものではなかった。
明るい道を通って皆で陸に行く。
朝になったら船から降りてお使いに行く。
マーケットをあちこち見て回って楽しいひと時を過ごす。
それが終わったらまた大海原に乗り出して、いつものようにみなで過ごす。
父さん、ジャネット、エディ、キャットにビー乗組員の家族みんなみんなといつものようにわいわいと。
そんなことはいちいち思い浮かべることもないくらいメイベルにとって空気のように海の水のように当たり前の日常だったのだ。
まさか、甲板で夏の始まりの生ぬるい潮風に吹かれながら父親とこうして青く光る夜の海を眺めるのが最後になってしまうことなど、この時のメイベルには思いもよらないことだった。
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