第2話
ギャバーザザザザザ……
土砂降りの雨とともにやって来た強風がダイヤモンド号を揺らし、船の中で身を潜めて一昼夜過ごした翌日、海上は嘘のように穏やかになり、明るい日差しが甲板を照らしていた。
こんな日のメイベルはとても忙しい。
「おーいメイベル、俺のシャツもよろしくな。すっかりじめっぽくなっちまった」
「はーい、ハンスさん、桶の中に入れといて、あっ、ちゃんと埃は払ってくしゃくしゃにはしないのよ」
「ほいほーい、母ちゃんみてぇだな」
「もうっ!」
「あっ、ベル、あたいのもお願い、バンダナが磯臭いのよ」
「はーい、ジャネット、って手伝ってよー」
「あたいはちょっと忙しいのよ、ほら、えーっと、天気もいいしビール飲まなきゃ」
「もー!朝っぱらから」
「あー、じゃあこの俺っちが手伝おうか?」
「ありがとう!ってエディはもうすぐリーじいさんと操舵を換わらないといけないでしょ!」
「あはっ、そうだった」
「あー、結局あたしが一人でやるのよね、いっつも」
ほおっと溜息を吐きながらも、メイベルの表情はどこか楽し気だ。
ダイヤモンド号の乗組員は総勢三十人、その全員の洗濯をメイベルが一手に引き受けている。
女性はメイベルのほかにジャネットがいるが、弓の達人である彼女はおさんどんが大の苦手だ。
若手操舵手のエディは細々したことが得意で陸に上がって新鮮な食材があるときは料理を担当することもあるが、何分操舵で忙しいので洗濯までは手が回らない。
なので、特に役割を決めていたわけではないがメイベル以外に引き受けるものがいなかったのだ。
半ば押し付けられたような役目だが、メイベルはこの役割がそんなに嫌ではない。
桶にたまった雨水で磯と埃と汗のにおいがしみ込んだ大量の洗濯ものを洗い、甲板にばーっと干し、太陽の香りをさんさんと浴びせていると実にさっぱり爽快な気持ちになるからだ。
「あー、みんなもこうしてすっきりさっぱり乾いたお日様の香りの服を着ればちょっとは臭くもなくなるでしょう!」
ぷんぷん匂う服に囲まれているのが、ちょっとばかり嫌だというのもあるのだが。
「うーん、どうせなら旗も洗っちゃいたいんだけどなー父さんがだめだっていうし」
船首ではためく深紅の×模様が入った黒い旗にもちらりと目をやるが、これを外して洗っていてはダイヤモンド号の目印が無くなるということで、外すことは許されていない。
「うーん、意外と早く終わったなぁ、よしっ!キッドと
ビーも洗っちゃお!」
石鹸を握りあわあわの手でにじり寄ると、キッドは脱兎の勢いで逃げ出してしまった。
「あーあ、やっぱだめかぁ、猫ってホントに水が嫌いだよね、船の外は水がいっぱいでも平気なのにどうしてでしょうねぇ」
掌にのせたビーに話しかけながら泡でゆっくりと体をなでると、ビーは気持ちよさそうに体をよじらせる。
「ビーは体洗うの大好きなのにねぇ、ほら、さっぱり、さっぱり」
桶の水にゆっくりとつけて泡を洗い流し、タオルで水分をふき取るとビーは気持ちよさそうに伸びをする。
太陽の日差しはその濡れた茶と黒の毛をふわふわに乾かしていく。
「わー、ふわふわ、いいにおい。キッドもこんな風にいい子にしてくれればいいのになぁ」
メイベルはいつの間にか戻ってきていたキッドに口を尖らせたが、キッドはどこ吹く風で(そんなの必要ない。自分の体は自分できれいにできますからね)とでも言うように舌で体中を嘗め回した後、ごろんと甲板に横になって日向ぼっこをし始めた。
「あーあ、いい気なもんね。私だったらお風呂に入れるって言われたら大喜びなのにさ」
大海原の上では貴重な真水、貯めた雨水は洗濯に使えても三十名もの乗組員がお風呂に入れるほど使えるわけがない。
せいぜい濡らしたタオルで体を拭くことくらいしかできないし、からからの陽気が続いている時にはそれすらも贅沢だ。
「水は足の下に腐るほどあるのにね、でも海の水で水浴びしても乾いてからなーんかさっぱりしないんだよね」
物心ついてからずっと海の上で生活をしていたメイベルはだれに教わったわけでもなく泳ぎを覚え、海や周囲が凪いでいるときはよく飛び込んで泳いでいた。
そのため汗臭くなったりすることはなかったが、潮のにおいがずっと体にまとわりついている。
潮のにおい、海のにおいは好きだったが、やはりメイベルも年ごろの女の子、たまにはさっぱりとした気分になりたいのだ。
「うーん、父さんはそろそろ陸に上がるって言ってたけど、あたしも連れて行ってもらえるのかなぁ、宿に行けるなら公衆浴場の近くがいいな」
ダイヤモンド号の乗員は時折陸に到着すると交代交代でつかの間の陸での休息を楽しめるのだが、キャプテンの娘とはいえ一番年下でいわば下っ端であるせいか父であるキャプテンダイヤモンドからの言いつけでメイベルは留守番をすることが殆どでたまに陸に上がることを許可されてもジャネットと公衆浴場に行きそのままとんぼ返りで船に戻るようなことばかりで、ほかの乗組員のように買い食いを楽しんだり街歩きをしたりすることはできなかった。
「あーあ、子供だから危ないっていったってさぁ、そもそもここが海賊船なんだよ。ここより陸の方が危ないって陸っていったいどんなところよ、ねぇ」
足元にいるはずのビーに話しかけようとしたが、ビーはいつの間にか移動していてキッドのお腹の上で気持ちよさそうにすやすやと眠りこけていた。
「ふふっ、猫とネズミがこんな風に仲良く寝ているなんてね」
メイベルはくすくす笑いながら、二匹の様子を優しい眼差しで見つめる。
ビーは半年ほど前、陸から出発したダイヤモンド号にふらりと現れた。
茶色と黒のまだら模様、ふわふわの毛に短い尻尾のタビネズミのビーは、船にこびりついたコケや干し草、小枝しか食べず、陸で仕入れた貴重なパンやチーズを食い荒らす灰色のじめじめしたネズミたちとは全く違う。
そのせいか、ネズミ捕りが仕事のキッドもビーのことは追い回したりせずいつの間にかダイヤモンド号のマスコット的な存在になっていた。
おそらく陸地から迷い込んできたのだろう。
「タビネズミは集団行動をするもんだけどなぁ。なんでまた一匹でふらふらと」
キャプテンダイヤモンドは首をかしげたが、キッドにはいい友達、いや弟分ができたようでメイベルは少しうれしかった。
「でも、ビー、あんたは寂しいのかな、あんたの仲間たち、父さんや母さんはどこに行っちゃったんだろうねぇ、まさかあんたが海の上にいるなんて知ったらびっくりして腰を抜かしちゃうかもね。父さんがタビネズミは川を泳いで渡るって言ってたけどさ、船に乗って大海原を渡るなんてさ、ビー、あんたが史上初かもよ。大海原を渡ったタビネズミビー、あははなんかお話にありそうだねぇ」
こしゅこしゅと柔らかな腹をこすると、眠っているビーは少し笑ったように見えた。
「もしかして家族や群れとはぐれて一人ぼっちで寂しかったのかなぁ、そんで賑やかなこの船に入ってきちゃったのかな、ふふっ、わかんないけど。でもさ、あんたはもう独りぼっちなんかじゃないんだよ。キッドも、あたしも、父さんも、この船のみーんながあんたの家族なんだからね」
その言葉が聞こえたのか聞こえてないのか、ビーはけふっと小さくゲップのような息を漏らした。
その音が家族という言葉に対する返事のような気がしてきて、メイベルの胸はほわっとやわらかであたたかい何かが咲くような心地よさに包まれた。
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