硝子の世界

 春坂くんのことが好きだ好きだとひっそり思っているうちに、春坂くんは硝子症を発症して、それからどんどん透明になってしまった。今は色の薄い飴細工みたいになってるらしい。いずれもっともっと薄くなって、風に吹かれて壊れてしまうだろう。

「いいの? 黙ったまんまで。春坂くん、そろそろいなくなっちゃうんじゃないの?」

 友達の結子に叱られて、でも今さら好きとか言っても負担なだけだと思う。そのうち好きとか恋とか愛とか、考えているうちによくわからなくなってしまった。

「私、恋というものがよくわからなくなったよ」

 結子に正直にこぼすと「わかってる奴なんか早々いるかよ!」とまた叱られた。

 だから私は今、春坂くんの病室に向かっている。

 お見舞いに行っても不自然じゃないくらいには、親しかったと思う。たぶん。一緒に吹部でトランペット吹いてたし。春坂くんの音は、よかった。高いロングトーンがよく伸びて、青空みたいに澄んでいた。

 ドアに手をかける。心臓がどきどきする。飴細工みたいになった春坂くんを見ても、私は平気だろうか。深呼吸をひとつして、扉を静かに開けた。ノックしても、春坂くんはもう応えられないとわかっている。大きな声を出したら、きっと喉が破れてしまうだろう。

「春坂くん」

 扉を開けた先に、春坂くんはいなかった。診察だろうか? でも、もう動かせないくらい薄くなったって聞いたのに。

 病室の中には極薄の硝子みたいなものがたくさん飛んでいて、そのせいで部屋全体がキラキラして見えた。窓が開いて、そこから風が吹き込んでいた。

「春坂くん!」

 私は慌てて部屋に飛び込んだ。そのときに生まれたわずかな空気の揺らめきが、春坂くんだったものを窓の外へ追い出した。突風が吹いた。春の匂いがした。キラキラは吸い込まれるように病室から舞い出て、空へと上っていく。ロングトーンみたいな青空。

 窓に駆け寄った私は、真下の駐車場を見た。綺麗な女の子が、すらりと立って空を眺めていた。風に吹かれて揺れる黒髪に、キラキラしたものが纏わりついている。恋とか愛とかよくわからない私でも、あの子は春坂くんのことが好きだったんだと、すぐにわかってしまう。

 私は病室を飛び出した。泣かないように唇を噛んで、でも結局びーびー泣きながら家に帰った。あとで聞いたけれど、病室の窓を開けたのはやっぱりあの女の子らしい。女子高に通っていて、春坂くんとは中学が同じで、去年の春から付き合っていたらしい。

 やっぱり彼に好きなんて言わなくてよかった。でもやっぱり言えばよかった。恋も愛も好きもわからないままの私は、結子にそのままの気持ちをぐちぐちこぼしてしまう。

「今吸ってる大気の何パーセントかが春坂くんかもって思ったら、最近ちょっと元気出てきた」

「こわ」

 結子は(好きって言えばよかったのに)という顔をしながら、でもちゃんと私の話を聞いてくれる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る