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 玄関から音がした。端から掛かっていない鍵を開けようとしたために、誤っての鍵をかけてしまって、慌てて再び開け直そうとしている。不毛な往復への腹いせのように、金属錠が大袈裟な悲鳴を上げる。むしろ鍵は掛けたままの方が親切だったのかもしれないと思ったりする。

 勢いよくドアが開いた後、ゆっくりと閉められる。鍵を閉め忘れたかもしれないと一瞬焦ったが、私の靴を見て胸をなでおろしたのだろう。心の動きが手に取るように分かる。

「来るなら言ってよ、莉帆」

 リビングに私を見つけた母は、安堵と非難が半々といった感じだった。

「驚かせるつもりはなかったんだ、ごめん」

「いや、別にいいけどさ」

 エコバッグから食材を出しては、母は冷蔵庫に押し込んでいく。

「夜ご飯食べてくつもり?」

「ううん。すぐ帰る」

 冷蔵庫が開閉するたびに、中段を占領するコーヒーパックが目に入ってくる。

「ていうか、仕事は?」

「午後休取った」

「なんで? どっか具合でも悪いの?」

 背中越しの声に心配が混じる。母は優しい。

「違うよ、お母さん」

 背中に向ける声に棘が混ざる。

「確かめたいことがあったんだ」

「何よ、確かめたいことって?」

「お父さんの部屋のこと」

 動画の一時停止ボタンを押したみたいに、母は固まった。

「お父さんがいなくなってから、何となくだけど、お母さんは私に、あの部屋に入って欲しくないのかなって、そんな気がしてた」

 早朝、父の部屋に佇む私を母は見咎めた。

 父の部屋に骨壺を安置した時も、体よく私を追い出した。

「ずっと気のせいかなって思ってた。お父さんが大変なことになって、お母さんも、少し不安定になってるのかなって」

 粘っこい夕日が部屋をオレンジに染める。

「でも、一応、確かめてみようと思った」

父の部屋で唯一、見ていない場所を思い出した。

「クローゼットの中を調べたの」

 そこには野暮ったい字体で「清流コーヒー」と記された段ボールがあった。中身はもうないはずなのに、ガムテープの剝がされた跡を覆い隠すようにして、養生テープが口を塞いでいた。

 緊張感が欠片もない、パンドラの箱。

「ばれちゃったか」

 肩がわずかに震えている。

「開けちゃった?」

 捨て鉢な感じで母は尋ねてくる。唇の端が微かに上ずっている。

「ごめん」

 私は、箱の封を解いた。

 中には、父の警察手帳と、父の知り得たことがあまねく書き留められている捜査用の手帳が収められていた。

「どうして、隠したの?」

 答えの見当がついていないわけではなかった。でも母の口から全てを聞きたいと、どうしようもなく思った。

「私のしたことって、犯罪になるのかな?」

 母は私の目の前に腰かける。

「多分、ならないと思う」

 少なくとも捕まることは絶対にない。

「よかった。莉帆に逮捕されちゃうところだった」

 歪んだ笑いが能面にヒビを入れる。

「あの日、青柿さんから連絡を貰ってから、急いであの人の部屋に行ったの。初めて使う合鍵で中に入ってさ、でも、あの人はいなくてね」

 その時点で父はもう、この世にいなかった。

「机の上に、警察手帳と、あの人がいつも使ってる手帳が横並びで置いてあった。その手帳には、栞みたいにボールペンが挟まってた」

 母は手帳を開いた。

「これは見られちゃいけないものだって、すぐに思った。莉帆も見たでしょう?」

 凛香のたった一つの願いを、紙を破らんばかりの筆圧で、父は書き残していた。

 誰にも言わないで。

「私は、その子がどんな子か何も知らない。でも迷わなかった。その子が望まない限り、受けた深い傷のこと、これ以上、誰にも知られちゃいけないって思った」

 たとえそれが、警察であっても。

「そのことに比べたらさ、ほんとのことなんか、軽いもんでしょ?」

 母は凛香を守ろうとしたのだ。見たことも会ったこともない、だけれども数奇な縁で細く繋がっている、一人の人間を。

「ほんとにさ、どうしようもないよね」

 でも、それだけじゃない。

「そう思わない、莉帆?」

 答えられるはずがない問いを、黒い声が放つ。

「ほんと、何考えてんだろうね。自分勝手で、想像力がなくってさ」

 これは美しい話なんかじゃない。

「頭に来ちゃって、私」

 かろうじて原型を保っていた能面が、粉々に崩れ落ちていく。

 無表情の下に燻っていたのは、悲しみでも、後悔でも、やるせなさでもない。

怒りだ。

「あんなに大事で、危険なものを、机の上にほっぽりだしたままいなくなるなんて、ありえないでしょ?」

 まさか二度と帰ってこれないなんて、父は夢にも思わなかっただろう。でも、そう弁護したところで、母の怒りが収まるわけがない。

 結果論は結果論でも結果は結果なのだから。

「結局さ、あの人の頭の中には、事件のことしかないの。家族のことなんてどうだっていいのよ、あの人にとっては」

 まあ、だから離婚したんだけどさ。

「あの事故の前から、ずっとそう。休みの時は、ぼーっとしてるか部屋にいるかで、私が何か話しても適当に相槌打つだけ。いや、仕事で疲れてるだろうしさ、元々、凄く話す人でもないから、そういうもんかなって思ったりもしたよ? でも、ずっとそういう日が続いてると、段々、嫌になって来るのよ。ほんとにあの人は私の夫なのかなって、私は、ほんとにあの人の妻なのかなって。だってさ、あれじゃまるでお手伝いさんみたいじゃん。でも、そういう話を私がしようとすると、あの人、すぐ私のこと遮ってさ、形だけ謝って、それで済まそうとするの。そうされると、私ももう、言う気力がなくなるのよ。ああ、どうせ何を言ったって聞いてくれないって、そう思うから」

 その場を取り繕うことには、父は長けていた。

「あの事故の後、あの人がずっと引きこもってるとき、毎日ご飯を作って持って行って、洗濯もしてあげて、でも、あの人、お礼の一つもなかった。でも、私もすごい、心配だったから――一回、ご飯を持って行ってあげた時に、あの人がまた、あの事件の特集みたいなやつ見ててさ、その目が、据わってて、ああ、こんなことしてたらおかしくなっちゃうって思って、止めようとした。そしたらあの人『俺の気持ちなんか分かんないだろ』って言うの。当たり前でしょ。分かんないわよそんなこと」

あなたにも、私の気持ちは分からないでしょ。

「私はただ、色んなこと、一緒に協力したかっただけなのに、あの人には、端っからその気がなかった」

 濁り切った感情は止まるところを知らない。

「仕事に復帰してからは、何でか知らないけど家に帰って来なくなって、着替えを持って行ってあげても全然喋ってくれなくて、私、何のために家族でいるんだろうって思った。だから、私、あの人に聞いたの」


――私が離婚したいっていったら、あなたはそれでもいいの?


「あの人、何て言ったと思う?」


――君が、いいなら


「所詮、その程度だったのよ。あの人にとって、私は」

 薄く化粧が施された頬が震えていた。

「今回だってそう。あの人の頭の中は事件と事故のことばっかり。私の、私たちのことなんて、これっぽっちも考えたりしなかった。それで、自分はあっさり殺されちゃって、結局また、後始末をするのは私たち」

 吐き捨てるように母は言った。

「あれがもし、警察の人に見つかって大事になってたら、きっと、大変な騒ぎになって、手帳の子は、すごく追い詰められてた。これからだって分からない。もしかしたら捜査が進んで、本当のことが分かっちゃうかもしれない」

 潤んだ瞳が私を見る。

「しかもあの人は、莉帆まで巻き込んだ」

 赤い紐が瞳を囲んでいる。

「警察からしたら、あの人は裏切り者だよ。そしたらあなたは裏切り者の娘。」

葬儀に漂っていた、棘のある空気。

「陰口を叩かれたり、人事で嫌がらせされたり、そういうことをされるかもしれない」

母は私を心配した。母が手帳を隠したのは私のためでもあった。

 父は自分なりの仕方で、責任を果たそうとしたのだろう。

 でも母にとってはそれ自体、無責任な罪だったのだ。

「馬っ鹿みたい」

 確かに、そうかもしれない。父は馬鹿だ。救いようがない。

「結局あの人は、自分が楽になりたかっただけ」

 だけど。

「その気持ちを、上手いように利用されただけ。結局、自己満足――」

「もう、やめて?」

 それでも、私にとって、父は父だ。

「もう、十分でしょ」

 母は唇を丸め込むようにして口をつぐみ、喉元にせり上がって来ていた言葉を、そっと飲み下した。

 夕日が住宅街の後景に退き、部屋に薄闇のベールがかかりつつあった。私は腰を上げ、電気を点けた。のっぺりした光が充満し、明暗のゆらぎと移ろいが消えてなくなった。魔法がとけたみたいだった。母が話したこと、私の見たこと、全てが幻な気すらした。

「じゃあ、また来るね」

 私は言った。

「うん、また」

 母は引き止めも、振り返りもしなかった。

 三人で生きた家を、私は後にする。


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