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 ホームに降り立つ足に緊張の糸が絡む。

 梅ヶ丘は一体、いつぶりだろう。

 実家がある経堂を訪れることは今でも多いし、その度に通過はしている。でも、少なくとも警察官になってからは降りた覚えがない。経堂からだと急行なので、梅ヶ丘に停まらないということもある。でもそれ以上に、父が住む町だということが大きかった。

 駅舎を出ると、線路と平行に真っすぐ伸びるメイン通りがある。

 行き交う人の談笑にケーキ屋のドアベルがかぶさる。高架を走り抜ける急行列車に、レジ袋を風になびかせる電動自転車。通行人が道を開けるのをまって、ノロノロと焦れたように進む自動車。

 懐かしさが込み上げた。

 一つ一つの店をつぶさに見て行けば、無くなってしまった店も、新しい店も沢山あることだろう。でも、街の雰囲気や佇まいは、何も変わっていなかった。

 南口を出てすぐ左手の、退色して灰色になったベンチに目をやる。母の姿も、青柿らしき女性の姿もない。

 このベンチはかつて、我が家の集合場所だった。

 父の仕事終わりに外食をする時は決まって梅ヶ丘だった。急な呼び出しがあるかもしれないからという父の要望に応えてのことだ。「電車で三分なんだから経堂でもいいじゃない」と母はしばしば愚痴をこぼしていたが、同僚に迷惑になるからと父は頑なだった。これに対して母が口を閉じればそれまでなのだが、「じゃあ私と莉帆には迷惑かけていいっていうわけ」とヒートアップすることもあった。すると一転、父は謝罪に転じ、何とかその場を丸く収めようとするのだった。

「莉帆」

 振り向くとその母がいた。

「早いわね」

 母が腕時計をチラッと見る。約束の五分前。

「仕事が早く終わったから」

「そう」

 母はせわしく頷いた。

「大丈夫、お母さん?」

 口に出してから、こういう時は大丈夫と尋ねてはいけないのではと思い出す。

「うん。平気、ありがとう」

 言い終わると、すぐに母の視線は私から離れてさまよった。ライトグレーのワンピースに揃いのジャケットというフォーマルな出で立ちに、張り詰めた心が現れている。

「一体どうしちゃったのかね、お父さんは」

 少しおどけた風に言ってみたが、母は「ねぇ」と心ここにあらずの返答をして、また口をつぐんだ。私も少し黙った。

 数分して、後ろで髪をまとめたスーツ姿の女性が現れた。

「上沢瞳さんと、莉帆さんですね?」

 示された警察手帳には青柿元子と記されていた。

 挨拶もそこそこに商店街を進んだ。母が先導し、私と青柿がついていく。しばらくぶりに歩く道だが、ノスタルジーにひたる暇はない。

 傍らの青柿をチラリと見た。背丈は私と同じくらい。整った顔立ちだが、キリリと上がった目尻には貫禄がある。

「莉帆さんは、交通機動隊でしたっけ」

 私の視線に気づいた青柿が尋ねてきた。

「はい。第七方面交通機動隊です」

「白バイ?」

「いえ、車両警邏です」

「第七方面っていうと、葛飾とか隅田とか、その辺り?」

「ええ、そうです」

 その後も警察学校を卒業した年や交通機動隊配属の年を聞かれた。

「でも松野さん喜んだでしょう、莉帆さんが警察官になるって聞いて」

 それまではテンポよく返せていたのが、少しうろたえた。

「どうなんでしょう」

 大学三年の時点で警察官になろうという意思は固まっていた。なぜなのかは自分でもよく分からない。父に憧れたというのが模範解答なのだろうが、警察官という道だけが目の前にあったというのが率直なところだった。

 母は「莉帆が決めることだから」と言って、賛成も反対もしなかった。父はただ「無理に警察官になる必要はないんだからな」と言うだけだった。

「父は、職場ではどんな感じですか」

 私は尋ねた。

「優秀ですよ。じゃなきゃ、捜査一課には来られませんから」

「優秀っていうのは、どんな風に?」

「どんな風に――」

 青柿は思案顔になった。

「しつこいところ、ですかね」

 もちろん良い意味で、と青柿は慌てて付け足した。言い得て妙だと私は思った。

「ここです」

 しばらくして母が立ち止まったのは、だいぶ年季の入ったアパートの前だった。白壁に貼りつけられた板に昭和のCMのようなフォントで「ラ・コーポ梅が丘」とある。

 心なしか、鼓動が速くなった。

 階段を上がった先、二階の奥が父の部屋だった。ネームプレートにはしっかり松野と書かれていた。なぜか偏(へん)の方が旁(つくり)より少しばかり大きい、父の字だった。

母は鍵を取り出し、ノブに差し込んだ。薄っぺらいがやたらと光沢のある、銀色の合鍵だった。

「失礼します」

 白い手袋をはめた青柿に引き続き、私は初めて父の部屋に入った。

 奥のカーテンが閉まっていることもあって薄暗い。入ってすぐ右の手狭な空間に浴槽と便器、洗面所が押し込まれている。先行する青柿がスイッチを押すと、のっぺりとした蛍光灯が室内を照らし出した。

 向かって左にベッドと机が並び、右には洋服箪笥があるだけだ。カーテンの向こうには名ばかりのバルコニーがあって、古びた洗濯機が置かれている。

 殺風景なワンルーム。

「先ほどいらっしゃった時も、この状態だったんですよね?」

 青柿に尋ねられた母がおどおどと頷く。

「ほとんど手は付けてません」

 腰に手を当てた青柿は、部屋を今一度ぐるりと見渡した。

「一通り調べさせて頂いてもよろしいですか?」

 肉親の部屋がくまなく調べられるのを見続けるのは何となく気が引けた。青柿をなるべく視界から外そうと目線を泳がせる。

 キッチンは綺麗なものだったが、多分使っていなかっただけだろう。案の上と言うべきだろうか、ゴミ箱には出来あいの弁当のプラ容器がいくつか突っ込まれている。冷蔵庫も開けてみたが、大容量のペットボトルのお茶が横たわっているだけだった。

 箪笥の上の壁にはマルーン時計があった。そうだ、家を出る土壇場になって父が持ち出したんだった。生真面目に青柿を見ている母を肘でつついて指差したけれど、曖昧に頷くだけだった。

 掛け布団やベッドの下、引き出し、箪笥、ゴミ箱の中まで、青柿は念入りだった。それでもこの狭さと物のなさだ。十五分くらいで一周した。

「何か手掛かりになりそうなものはありましたか?」

 遠慮がちに母が尋ねる。

「少なくとも三日ほど前までは、松野さんはこの部屋を使っていたようです。八月三十日の早朝が消費期限の弁当ガラが捨ててありました」

 父が期限を守ったとするなら、八月二十九日、あるいは三十日の深夜にその弁当を食べたということになる。

 それから先、父がこの部屋にいたという証拠はない。

「逆に、ないものもいくつかあります」

 警察手帳、財布、携帯、父がいつも使っていた捜査用の手帳。

「ここ以外で、松野さんがどこか借りられているということはありませんか?」

「ないと思います」

 食い気味に答えて、聞く側に回る。

「本当に父は体調不良だったんですか?」

「そうだとお伝えしたはずですが」

「なら、どうして警察手帳も捜査用のメモ帳もないんですか?」

 単なる外出中に事件や事故に巻き込まれたのだとしたら、この部屋に残されているはずなのに。

 青柿の視線を床に落ちていた。答えあぐねているように見えた。

「何か、ご存知なんですよね?」

 昨日の電話の時から、薄っすらと感じていたこと。

「もしそうなら教えてくださいませんか。もしかしたら、私たちになら分かることもあるかもしれません」

 なおも迷うような素振りを見せる青柿に、私は頭を下げた。「お願いします」と勝手に声が出た。

 自分の焦りを、改めて感じた。

「いずれは、分かることですしね」

 青柿の重い口が開いた。

「松野さんは、藤池光彦の事件を調べ直していました」

 聞き違えたかと思った。

「すみません、何の事件って――」

「藤池光彦の事件です」

 今度は聞き違えようがなかった。

 身体が粟立つのが私には分かった。

「父が、ですか?」

「ええ」

「どうして?」

 意味不明だった。

「何か、関係がある事件が起きたりしたんですか?」

 青柿は首を横に振った。

「藤池光彦の遺族に頼まれたと、そう言っていました」

 言葉がなかった。

 私の想像と理解を、父は超えていた。

 思わず母を振り返った。能面のような無表情をしていた。現実を受け入れまいと扉を閉ざしている。そんな感じがした。

「そう聞いて何か、心当たりはありませんか?」

「ありません」

 あるはずがない。

「父は、その途中で、いなくなったってことですか?」

「そういうことになります」

 答える青柿の顔に、血の気がなかった。

「このことはどうか、ご内密にお願いします。私の方でも少し心当たりを調べてみます」

 何もかもが遠く感じた。青柿も、母も、そして、ここにいない父も。


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