29
鈴木が失踪したと連絡があったのは、翌日の昼過ぎのことだった。
昼食のアジフライを頬張りながら、そわそわと日置からの報告を待っていた。連絡は夜になるかもと思いつつ、ついスマートフォンを見てしまう。
「昨日のお刺身も良かったけど、フライも美味しいわね」
「でしょ、私が釣ったんだよ」
母の言葉に沙耶は目を輝かせる。
できることなら何度でも連れて行ってあげたいが、しばらくは水の近くを避けた方が良い。亡者がいる限りは、危険なのだ。
「確かに、美味いな」
フライを一口齧ると、ふわふわの身と鯵の旨みが口の中で弾ける。衣は軽い食感で、さらりとしたウスターソースの甘酸っぱい味がよく馴染んでいた。
感嘆の声を漏らしたその時、視界の端で着信を告げる画面が目に入った。急いで口の中のものを飲み込み、通話ボタンを押す。
「もしもし?」
「谷原さん、お聞きしたいことがあるんですが」
開口一番、焦った田牧の声が耳に入ってくる。
日置にしては早すぎると思ったが、少なからず落胆した。
それにしても、田牧が何の用だろう。
もしかして報告書を否認した件がもう伝わったのか。
どきりと心臓が跳ねる。
「先生、いえ鈴木宮司が何処にもいないんです。来年の神祭の日程決めで社務所に来たのですが、もぬけの殻で」
「それで電話を?」
「ええ、『俺が駄目だったら谷原を呼べ』って書置きが残っていました。何かご存知ですか?」
正直、心当たりはある。昨日の動揺した鈴木の様子を思い出した。もしかしたら麻生山に行ったのかもしれないが、駄目だったらとはどういう意味か。そこまで想像して、背筋に冷たいものが走った。
「田牧さん、そちらの天気はどうですか?」
「え? 普通に晴れていますが」
「良かった。今からそちらに行くので、駅まで迎えに来てもらえますか」
「……分かりました」
異常事態を察したのか、気圧されたように田牧が返事をする。
恐らく鈴木はあの洞窟に行った、亡者をどうにかしようとしたのだ。もし朝比町の上空を雷雲が覆っているとしたら、彼が失敗した証だが、まだ間に合うかもしれない。
「ちょっと出かけてくる。上手くいけば夜中には戻るよ」
「はいはい、帰りにコンビニでモンブラン買ってきてちょうだい」
「いってらっしゃーい」
また仕事か、という母と沙耶の反応。
午後から沙耶と出かけようと思っていたが、人命には代えられない。先のことを考え、登山できる服装に着替えて家を出た。駅に向かう道すがらで、電話の内容を思い出す。
谷原を呼べ、という書置きから、鈴木の意図は理解できる。あの木仏が何らかの役に立つのだろうが、そんな大切なものを何故自分に預けてしまったのか。しかも今は手元にない、日置が遺伝子鑑定に出してしまっているのだ。
特急に乗って二時間余り、朝比町に着いた時は日が傾きかけていた。見慣れたロータリーには、同じく見慣れた黒い車が停まっている。焦る気持ちを抑えつつ、助手席に飛び乗った。
「田牧さん、麻生山までお願いします!」
「お待ちしていました、……先生は山にいるんですか?」
「予想が正しければそうなります、なるべく急ぎで頼みます」
分かりました、と田牧は告げて車は急発進する。
朝比町の空は、雲一つなく晴れ渡っていた。もし黒雲が麻生山から湧いてきたら、時間切れということだ。虚空を睨んでいると、不安そうに田牧が尋ねてくる。
「先生は、何かトラブルに巻き込まれているんでしょうか?」
確かに彼には何の話もしていなかったが、どこまで説明して良いか分からない。いきなり屋敷の夢を見たといっても信じてもらえないので、お茶を濁すことにした。
「ちょっとかのし関係で色々ありまして。先週末、私が祓ってもらった時の後始末的な」
「ああ、それは厄介ですね」
田牧は顔をしかめながら、滑らかにハンドルを捌く。
車はいつの間にか山道を走っており、右側には棚田が見えた。焦りが伝わったのか彼はアクセルを緩めることなく、九十九折の道を登っていく。
「あれは先生の車です」
終点である通行止めの看板、その横にワンボックスカーが停車していた。やはりここに来ていたのだ。二人で急ぎ中を確認するが、当然誰も乗っていない。ボンネットを触るとエンジンは冷え切っており、相当前に到着したことが分かった。
「やっぱり登ってるか。田牧さん、ここからは自分一人で何とかします」
お礼を言い山道に向かおうとすると、登山靴に履き替える田牧に気付いた。
「監査の時に積みっぱなしにしておいて良かったです。私もお供しますよ」
「そんな、ここまで送ってもらっただけで充分です」
「お忘れですか、ここがどんな山か」
ほら、と田牧はチャック袋に入った何かの毛を見せる。
赤茶色のそれは人間のものではない。
そこまで考えて思い至った、ここはかのしの住処だ。
「朝比町のご老人達ならこういったお守り持っていますが、流石に谷原さんはないですよね。それに、かのしさま絡みとなるなら絶対に必要です」
「分かりました、ありがとうございます」
もう一度あれに憑かれるのは避けたい、田牧の言葉に甘えるとした。
先日登ったばかりの道を、同じような時間帯に歩き始める。
夕方の色が濃くなったせいか、登山道は妙に薄暗い。痩せた杉が等間隔に植林されているため、もっと日が入っても良いはずだ。太陽の翳りとは関係なく、この森の持つ雰囲気がそう見えさせているのか。そして、相変わらず誰かが囁いているような嫌な静けさが満ちていた。
一度訪れている自分が先導する形になったが、正直心細い。振り返ると、今日も仕事をしていたのか、スーツに登山靴という恰好で田牧が登っている。静寂に支配された空気が嫌で、わざと明るい声で話しかけた。
「この前も夕方に来たんですが、かのしに追いかけられて、えらい大変でした」
「今日はこのお守りがあるので大丈夫ですよ、でもよく逃げられましたね」
「あの時は、鈴木さんが日本酒を撒いてくれたおかげで助かったんです」
「先生らしい話だ」
田牧の快活な笑い声が背中から聞こえてきた。
彼はお守りに信用を置いているのか、ただの登山といった感じで応えてくれる。その雰囲気に当てられてか、段々と心が軽くなる。
山が深くなり、木々が葉の少ない杉から自由に生い茂る常緑樹へと変わってきた。幾分か視界が悪くなるが、会話を続けていれば安心できる。足元もふかふかとした腐葉土になり、植生の違いがあらゆる箇所に影響を及ぼしていることに気付いた。前回はそんな余裕がなかったのに、二回目だからだろうか、経験というものは人を成長させる
しかし、左右前後に目配せし、耳をそばだてるのは忘れていない。どこかでかのしの兆候を感じたら即座に走る、と心に決めていた。前回効果を発揮した日本酒があればなお良いのだが。
「田牧さん、お酒ってないですよね?」
「先生の話をしてたら飲みたくなったんですか? 谷原さんお好きですねえ」
どうしても中年の登山客同士のようなやり取りになってしまう。笑いながら振り返った時、違和感に気付いた。
一瞬、田牧の後ろの木立が揺れたのだ。
風かとも思ったが絶対に違う、慌てて何かが隠れたような揺れ方であった。氷の塊を落とされたように胃が縮みあがり、顔から血の気が失せていくのが分かった。笑いかけたまま固まる自分に、田牧が怪訝な顔をする。
「谷原さん、どうかしましたか」
「え、ええ。……あれが、かのしがそこにいるかも知れません」
「馬鹿な、犬の毛を持っているのに近寄ってくるなんて」
田牧は初めて怯えを露わにした。
彼は祖父を失っているため、普通の人間より危機感が強いはずだ。
「気のせいかも……。とにかく先を急ぎましょう。それに越したことはない」
言うや否や足を速めた。
何かに追われているという恐怖が背中に纏わりつき、振り向けない縛りがさらにそれを増大させる。会話によって保たれていた安寧が消えると、階段を転げ落ちるように焦りが膨らんでいく。
「谷原さん、もう少し速くなりませんか」
すぐ後ろから荒い息遣いが聞こえる。
背中に何かを感じているのか、必死な声で田牧が懇願する。
「はあはあ……、前後交代しましょう、先どうぞ」
折角着いてきてくれた田牧を、盾代わりに使うのも申し訳ない。道を譲ると、彼は少し前を行くが、それ以上は距離が離れない。気を遣っている訳でもなく、スーツが歩みの邪魔になっているようだ。そのまま例の大樹の目印を左に曲がり、藪の古道へと入ると、後ろからがさがさと笹を掻き分ける音がした。
「やっぱりいる! 着いてきている!」
悲鳴のような擦れた声を上げると、田牧が急に立ち止まった。ぶつかる寸前でぎりぎり避ける。
「田牧さん、止まっちゃ駄目です」
「……空が」
釣られるように見上げると、空は漆黒に塗りつぶされていた。
夜になるには早すぎる、その証拠に山の中はまだ薄暗いだけだ。我々の真上だけが暗い、いや暗すぎる。空は墨が流れ出たように黒く染まっており、その縁から夕日の光が漏れ出ていた。これは雲だ、山頂から漏れ出ている黒雲。
「まずい」
田牧が茫然と呟く。
その刹那、一帯が光に包まれた。
同時に爆弾が落ちたような衝撃、背後から強烈な光が差し、田牧の背中が白く焼き切れる。前に旅館で見た時は、光の随分後に轟音が聞こえてきたが、今回はほぼ同時だ。
ああ、近いんだ。真後ろで雷が落ちている。
今、振り返ってはいけない、あれを見てしまう。
そしてあの時は気のせいだと思ったが、明らかに普通の雷より長く光っていた。
これは雷ではない、神が降臨する時の光だ。
神鳴りなのだ。
気付くと薄闇の中、二人でぼうっと突っ立っていた。
頭を棒でぶん殴られたような衝撃で、思考が纏まらない。
「先を急ぎましょう」
田牧はそう呟くと、ゆっくりと歩きだした。
平坦な声からは何の感情も読み取れず、前を行っているため表情も伺い知れない。置いて行かれないように着いていくが、雲の上を歩くようにふわふわと力が入らない。
岩だらけの急勾配に達した時に、鳥居があるはずの山頂付近を黒雲が覆っているのが見えた。これは自然発生した積乱雲ではない、鍾乳洞から湧き出ているのだ。
鈴木はどうなったのか、想像するのも恐ろしい。
ふと、そこで思い出した。
この道は鈴木しか通れないはずだ。
かのしに追いかけられて、必死になっていたが、すんなりとこちらに来れた。
確かあの時前を走っていたのは、田牧だった。
——何故彼はこの道を知っているのか。
「田牧さん、お聞きしたいことがあります」
黙々と足を動かす同行者に声を掛ける。
「今は登りましょう」
「————いや、今話してもらおう」
唐突に後ろから声が聞こえた。
びくりと肩が跳ねる。すっかり忘れていたが、かのしに追いかけられていたのだ。いや、あれは動物霊のはずだ、話すはずがない。
恐る恐る振り向いた先には、細身の中年男性が立っていた。張り込み中の刑事のようなベージュのトレンチコートに黒いスーツ、上着には枝葉が引っかかったように張り付いていた。
「初めまして、手前のあなたが谷原さんでよろしいかな」
「ええ、そうですが」
「奥の男から離れてください、そいつは危険です」
数段低いところにいるその男性は、すらりとした長身に七三に分けた髪、抑揚のない平坦な口調は
頭上から、田牧の訝しげな声が降ってくる。
「いきなり失礼な人ですね、あなたは誰です?」
「こういうものだ」
ぴしっと警察手帳を差し出すその仕草に、どこか見覚えがあった。
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