16

 小春の葬儀は無事に終わった。

 都内の火葬場で骨になった彼女を見て、私は茫然としていた。

 母と姉、義兄も皆、可愛らしい小さな骨を目にして押し黙っている。元々感情豊かな人達なので、この一週間で擦り切れてしまったのだろう。この場ではただ一人、父だけが静かに泣いていた。

 意外だと思った。

 いつも感情を表に出すことなく淡々と話す父の横顔。

 記憶にある父と現実の父の差に、脳の処理が追い付かない。目の端から一筋の水を垂らしているだけで、人の印象はずいぶん変わるものだと思った。

 昔から父が好きだった。

 刑事だった父は若い頃から多忙で、家に帰ってこないことが多かった。

 姉は小さい時から病弱で入退院を繰り返していたが、全て母一人で付き添いをこなしていたそうだ。転勤も多かったし本当に大変だった、と今でも母は語る。

 現代の価値観で見たらろくでもない父親だし、たぶん当時でも悪い部類に入る。この話だけ聞くと乱暴な亭主関白だが、性格や振る舞いは全く逆だった。何事も理路整然と話し、口調も丁寧、私物は整理整頓されて髪型はきっちり七三。酒も煙草もギャンブルもやらなければ、給料も全て家計に入れる。あまり帰ってこないことを除けば、父親として特に問題なかったように思う。

 余計なものが付属していないさっぱりとした父は、似たような性質の私と相性が良かった。分からないこと知らないものに対して、疑問を投げると父は簡潔かつ的確に答えてくれた。他の父娘のように抱っこや肩車をしてもらった記憶はないが、それくらいの距離感が丁度よくむしろ心地良かった。

 父と私は博物館や図書館が好きだった。

 一方で、母と姉は花や遊園地が好きだった。大抵父はいなかったので、渋々二人に付き合わされて、何とかフラワーパークとか何とかランドに行くことが多く、まあそれはそれで楽しかった。

 問題は小学校高学年になった時、父が昇進してさらに帰ってこなくなったことだ。母は不安定になり、私を良い私立中学へ入れることに熱中していった。思えば、次女に構うことで精神のバランスを保っていたのだろう。

 一周り年齢が離れた姉は同居こそしていたが既に社会人になっており、面倒を見る対象が私しかいなかったことも原因の一つかも知れない。

 勉強は嫌いではなかったが、自ら取り組むのと他人に強制されるのでは訳が違う。

 ひたすらに苦痛だったが、やらないと母は泣いた。

 熱心な教育ママのようにガミガミ言うわけでなく、さめざめと泣くのだ。私が塾をさぼったり、成績が落ちたりすると、「玲奈ちゃんどうして?」と泣き暮れる。これには本当に参った、まるで犯罪を犯しているような気持ちになった。

 そんな母の熱意も実を結び、私は難関と言われる私立中学に合格した。

 ようやくこれで終わった、とほっとしたのも束の間、母は「次は高校受験ね、最近は一年生から取り組まないと良いところに入れないらしいわ」と笑顔で言った。

 流石に頭に来たので初めて言い返した。泣いている母に強く当たる罪悪感よりも苛立ちの方が勝っていたのだ。姉がおろおろと仲裁する中で、珍しく父が帰ってきた。

 父の意見が聞いてみたかった。

 味方してほしいというよりも、この人がどういう言動を取るのか興味があったのだが、父は言い争う二人を見るなり踵を返して居間から出て行ってしまった。

 最初は何か理由があるのかと思ったが、いつまで経っても帰ってこない。

 今思い出しても信じられないが、父は逃げ出したのだ。

 あの場で仲裁しても収まらないと思った、と後日に聞いた。仕事で疲れているから面倒くさかったとか、言い争いにうんざいしたとかではなく、場の状況的に収まらないから時間を置くのが正しい、というのが父の理屈だった。

 しかし、実際にはその通りとなった。

 慌てて姉が連れ戻した父が母と話し始めても、面白いくらい嚙み合わなかった。

「玲奈ちゃんのためを思って」という母に対して「なぜそう思ったの?」と父。

「だって良い大学に入らないと苦労するから」に対しては「今から勉強しないと入れないという根拠は?」と。

「私みたいに頭が悪かったら社会に出てから大変」

「君と玲奈は別の人間だから一概に言えないのでは?」

「だってこれからは女性も一人で生きていく時代なのに」

「中学一年生から受験勉強しないといけない理由にはならないよ」

 更に泣く母親に、平坦な口調で答える父、頭を抱える姉、質の悪い家族物の映画を見ているようで何だか面白くなってしまった。一方で、父は私と同意見なんだなと心のどこかで安心した。

 擁護する訳ではないが、母が悪いとは思わない。

 自分の学歴コンプレックスを娘で満たそうとか、良い学校に入った娘をアクセサリーの様に自慢するとか、そういったことは一切なかった。人と上手く関われない私が何とか一人でも生きていけるように、と芯から考えているようだった。

 その気持ちは有難いが、対人関係については完全な誤解であった。確かに近寄りがたい外見のせいか、初対面の人とすぐ打ち解けられなかったが、時間が経てばちゃんと友人もできた。

 母の考える友達間のコミュニケーションは濃密なものであり、あっさりとした関係で満足していた私が孤独に見えていたようなのだ。

 要するに、絶望的なまでに価値観が合わない親子ということ。

 ただ、それ以外は上手くやってきた。

 今現在、他人と普通にコミュニケーションが取れているのは母の影響が大きいだろう。父子家庭だったらと思うと、ぞっとする。

 その場合、私は人工知能みたいな受け答えしかしない人間になっていただろう。

 なぜ母が、あんな父と夫婦をやっているのだろうか。

 父は、私を蒸留して純化したような人間だ。いや逆に父を希釈して私が生成されたという方が正しいかもしれない。

 原料の父と希釈剤の母は、まるで水と油のようで決して混ざり合わず、近くにいたらお互いを蝕んでしまうはずだった。それでも父が帰ってきた日の母は、大喜びで玄関まで出迎えに行っていた。

 一走り終えた馬から馬具を外すように、父を大急ぎで着替えさせてご飯を用意する。その日あったことや、姉と私の話をする母は幸せそうだった。

 成長して物事が分かるようになってから、ふと気付いた。

 いくら刑事の仕事が忙しくても、一週間の半分も帰ってこないなんておかしい。一瞬愛人でもいるのかと疑ったこともあるが、あの父に限ってそれはない。

 おそらく、父はわざと帰宅しないようにしていたのだ。

 夫婦がぶつからないように接触時間を短くする、数少ない会える時間はお互いが大事にするので幸せに過ごせる。

 合理的な判断だと、私の中での父由来の成分が言う。

 はたしてそうだろうか?

 母は愛情深く、多くの愛を与える人間だが、同じくらい愛情が必要でもある。現に父の帰宅する頻度が少なくなるに連れて、どんどん不安定になっていった。

 ぶつかることを覚悟してでも家庭に向き合うべきではなかったのか。

 単に責任から逃げていただけだ、と母由来の成分が叫ぶ。

 異なる自分同士の戦いが苦しくなり、ぎゅっと胸を抑える。

 何か勘違いしたのか、現実世界の母が私の背中をさすった。

 顔を上げると骨上げが始まろうとしていた。

「あなたはよく小春の面倒見てたものね」

「うん」

「実はお父さんもなのよ」

 父に聞こえないように、母は小声で囁いた。

 もう父は泣いていなかったが、放心したように小春の骨を見つめていた。

「あなた達の子育てにたずさわれなかったのを後悔しているみたいで、穴埋めするみたいに小春を可愛がってたの」

「……そうなんだ」

 にわかには信じられない話だ。

 あの父が小春とどんな風に関わっていたのだろうか。

 もっとも姪は私に対しても無防備に笑顔を見せてくれるような子だ、父の鋼の心ですら溶かしたのだろう。

 それに、子育てしなかったのを後悔しているというのも意外だった。私は放っておいた方が良く育つ雑草みたいなものだったが、小さい頃から病弱だった姉には父親のサポートも必要なはずだった。何を今更という感じもある。

 母は私の傍を離れて、父と一緒に骨上げをしに行った。

 骨上げは基本的に二組で行う。

 一人が箸で骨を拾い、もう一人に箸で渡して、骨壺に収める。

 夫婦で過ごす時間が少なかったであろう二人は、皮肉なことに息がぴったり合っている。

 ……不意に涙が出てきた。

 慌ててハンカチを目頭に当てて、涙を吸わせる。

 私が箸を持つと、目を充血させた姉が隣に立った。

「こんなちっちゃい骨なんだね……」

 姉は泣きすぎて擦れた声で呟く。

 何と声をかければ良いか分からずに、黙って白い欠片を箸で渡す。

「玲奈ちゃん、小春のこと一生懸命探してくれてありがとうね」

「ううん、結局間に合わなかった」

「私が悪いの。お姉ちゃん頭良くないから、小春には玲奈ちゃんみたいになってほしいと思って、色んな塾に通わせて……」

 父と私が似ていたように、母と姉は似た者親子だった。

 ある意味当たり前で、私が生まれる前は父が帰ってこないと二人っきりなのだ。自然と考え方や言動は似たものになっていった。特に自責的ですぐ泣くところはそっくりだ。

 姉の時も、母は教育熱心だったらしい。

 姉が大きくなり体調が安定してくると、それまで手一杯だった母に余裕が生まれてしまった。父は相変わらず帰ってこないし、寂しさで傾いた秤の均衡をとるために教育へと力を入れ始めた。

 つまり私の時には前科一犯だったということだ、父が話し合いから逃げた理由も、同じことがあったからかもしれない。

 ただ姉は勉強が得意ではなかったので、そこまで厳しくはなかったという。

 もしかしたらその時に母の蒔いた種が、長い時間をかけて姉の中で育っていき、同じ状況を小春に強いたのか。

 もし父が少しでも育児に携わっていたらどうだったろうか。

 母が教育熱に浮かされることもなく、姉の人格形成にも影響を与えて、小春が夜遅くまで塾に通うこともなかったかもしれない。ビリヤードの玉を違う角度で突いたら、最初と異なる軌跡で衝突が起きて最後の結末が変わるように。

 可能性は低いが、あり得る未来だった。

 そう考えると、生まれて初めて父を恨めしく思った。

 あなたが小春を殺したんだ、と言いたくなった。

 八つ当たりだと分かっていたが、そう思ってしまった。

 父の顔を見ると、もういつもの表情に戻っていた、自分の中で折り合いをつけたのだろうか。

 鑑識医が死体を見るように、小春はカルシウムとリンの塊になったと認識し直したのだ。私は違う、小春をこんな目に合わせたものの正体を暴いてみせる。

 ……私は逃げない、父とは違うのだ。

 式が終わると肩を怒らせて、火葬場を後にした。



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