15
「谷原くん、ちょっといいかな?」
柿崎部長が猫撫で声で手招きする。
もうすぐ正午だというのに、会議室で面談をするらしい。昨日の昼時にも捕まったが、恐らく同じ用件。最近の言動についてだろう。向かいの机では安川がニヤニヤと笑っている。昨日一緒に柿崎の話を聞いていたはずだが、今回は同席しないでいいという余裕の笑みだ。威嚇するように怖い顔で睨みつけて、部屋を後にした。
会議室に入ると、柿崎が朗らかな声で座るように促す。彼は太くて短いウインナーみたいな指を顔の前で組んで、話し始めた。
「先日局長に呼び出されて、安川くんの教育をもっとしっかりやった方が良いと?られたんだよ。もちろん詳細は谷原くんに任せてあるし、私は君を信用しとるんだがね」
「ああ、はい」
「それで先週、泊まりの出張に行ってもらうことになったんだ。予定があったろうに申し訳なかったね」
ああそういうことか。
局長が柿崎を叱ったというのは疑わしい。恐らく安川の話題が出た程度で、深くは触れていないと思う。
大人の世界には忖度という言葉がある。特に日本の官僚の中では、強力に蔓延しており時に暴走する。政治家、もしくは上司の何気ない言葉の裏を読みすぎて、あらぬ方向に事態を進めてしまうのだ。
柿崎も局長の副音声を勝手に想像して、急に我々を出張させたのだろう。そうしたら週明けに、部下がおかしな言動をするようになってしまって、罪悪感、いや労務管理の責任追及が怖くなったのだ。
「最近どうだ? 仕事と家庭の両立は大変だろう」
「ええ少し」
「あんまり立ち入ったことは聞けないが、家庭の方は順風満帆なのかな? いやぁ、色々忙しそうだからその辺も確認しておきたいと思ってね」
中々失礼な質問だが、その探るような声色で柿崎の意図を理解した。
これもまた忖度の一つだ、と自嘲的な気分になる。
「子供に接する時間が取れなくて、難しいところです」
「そうか、家庭第一だからな。もし有給が必要だったら遠慮せずにどんどん言ってくれ。上司としてできる限り協力するよ」
「はい、分かりました」
内容が決まりきった会話。
阿吽の呼吸と言えば聞こえがいいが、上司の求める応答を棒読みで続けているだけだ。そもそもこの席は、部下の相談に乗っているという実績を付けるためのものだ。後で何かあった場合、私は上司としての義務を果たしました、というアリバイ工作の時間。別に柿崎に意地悪するつもりもないので、彼の望む返事を返す。
これが『できる官僚』のコミュニケーションなのだから。
例え問題があっても「谷原は家庭のことで悩んでいたようです、上司として有給を取得するよう助言しました」と報告できるはずだ。誘導尋問のように答えを設定しておいて、責任を回避する。三文芝居に付き合わされてうんざりする。
あえて乗らないという選択肢もあった。
実際に限界を迎えていたら何も考えられなかっただろう。ただ沙耶を養うことを考えたら、ここで廃棄扱いを受けるわけにはいかない。せめて呼吸を読む余裕くらいあると、アピールする必要があった。
世間一般では、守るものがあると強いと言われている。だが実際は弱いのだ、頑張らないといけないから強く見えるだけでしかない。
返答にほっとしたのか、柿崎は頭の後ろで指を組み直し、ぐっとのけ反る。背もたれがギギギと悲鳴を上げた。
「私も似たようなもので、板挟みにあって結局仕事を選んでしまった。そのお陰で家庭内では孤立状態だよ」
「それは辛いですね」
「うん、仕事が大変でも家では愚痴一つ言えない。孤高の狼だよ」
外見はちっとも狼ではないですが、という言葉は呑み込んだ。
「今思えば、犬になっておけば良かったな、妻に尻尾を振って愛想良く振舞っておけば丸く収まった。不思議なもので、仕事中はそう思うんだけど、いざ目の前にすると強がってしまう」
「……犬ですか」
今一番聞きたくない言葉だ。
いや、だったというべきかも知れない。
実はあれから犬は一度も見ていない。
最初に朝比町で二回見た後、沙耶と動物園に行った時は何事も起きなかった。しかし、感染したウイルスが一旦潜伏した後に大暴れするように、昨日から頻繁に気配を感じるようになった。
そして、それは『変異』している。
気付いたのは、今朝の通勤時に地下鉄のホームを歩いていた時だった。カッ、カッ、カッ、という硬いもの同士がぶつかるような音が後ろから近づいてきた。最初は視覚障害の人の白杖だと思った。その割にはやけに軽快というか、軽やかなリズムで付いてくるのだ。道端にある黄色い凹凸を避けて歩くペースを落としても、その音は一定の感覚で後ろにいる。そして、生臭い獣臭が漂っていることに気付いた。
なんだろう、とは思わなかった。
諦めにも似た感情が心の中に渦巻く。「次はどんなパターンだ」と面白がるように小声で呟いたが、それが強がりなのは自分が一番理解していた。脂汗がつーっと頬を通って、顎に達する。背中が火であぶられるような焦燥感に、思わず走り出しそうになる。変わらず響くカッカッという軽い音は、革靴にしては乾き過ぎているよう感じた。
強く鼻の粘膜を刺激する生き物の匂いから類推する。
……これは蹄の音だ。
永遠にも感じたその時間は、駅を出て庁舎の門を潜ると唐突に終わった。幸いなことに、それは建物までは入ってこなかった。安堵と共に困惑した。蹄を持つ犬など聞いたことがない。昨日の尻尾だか触手だか分からない感触といい、一体何を相手にしているんだ?
犬の身体で、自由自在に触手を操り、馬の蹄を持つ生き物を想像する。そんなものは、なぞなぞの世界にしか存在しないはずだ。
途方に暮れたところで、昼を告げるチャイムが鳴った。
「おおもうこんな時間か、長くなっちゃったな。午後は病院行くんだろ、お大事にな」
満足気な柿崎はずっと喋り続けていたらしいが、一つも耳に入っていない。労わられるはずの面談だがひどく疲れてしまった。昼ご飯を食べにいった上司へ続いて、さっさと部屋を出る。
居室のデスクで荷物を纏めて、庁舎を離れる。建物から一歩踏み出す時は、少し勇気が必要だった。入口の横に、ほっそりとした馬の脚だけが四本にょっきりと生えている。そんな妄想が頭によぎったが、見えたのは植え込みの木だけでほっと胸を撫で下した。
病院は職場から少し離れたところを予約している。自分がおかしくなりかけているのは同僚達も知っているはずだが、近場で探すのは何だか嫌だった。数駅離れた駅を出て、近くの雑居ビルに入る。古めかしいエレベーターの階数表示を見ると、雀荘と居酒屋、喫茶店の上に目的のクリニックがあった。
メンタルクリニックに入ると、意外にも綺麗な空間であった。肌色の床や背の低い観葉植物が、病院特有の無機質さを和らげており、怪しい雑居ビルの中とは思えないしつらえ。受付で予約番号を告げ、ソファベンチに腰掛けようとすると、すぐ診察室から声がかかった。確かに自分以外の患者は一人もいない。日本は意外に健全なのだなと思い、部屋に入る。
精神科には陰鬱なイメージがあったが、そんな嫌な期待を裏切って、中年の女医は笑顔でこちらの話を促してきた。
「それで、幻覚が見えるというお話ですが、どういったものでしょうか?」
「犬の姿が見えたり、寝室のドアを引っ掻く音や足元に何かが纏わりつく感触なんかも。今朝は蹄の音まで聞こえました。後ろから着いて来るんです」
「そうですか、それは大変でしたね。その犬だったり蹄の主は、谷原さんに悪意を持っているように感じますか?」
穏やかな口振りで尋ねられる。
患者の言うことは否定しないというのが最近の治療方針なのか、自分の幻覚を存在するものとして扱ってくれる。術中に嵌る訳ではないが、これが意外と嬉しい。
「悪意までは感じないのですが、何だか不気味に思います。追いかけられているような、それでいて見張られているような……」
「なるほど、見張られているような」
女医は言葉を復唱しながら、キーボードを叩いて電子カルテを作成していく。軽快なリズムで打鍵する音に交じって、小さく「シャッ」という音が聞こえてきた。
「例えば、これ『シャッ』からその怖いものが、谷原さ『シャッ』んを襲うと『シャッ』思いますか?」
例えるならカーテンを勢いよく閉めた時のような。
最初はパソコンから出ているノイズだと思ったが、ハードディスクを読み込む時のカリッとした音とは少し違う。表面処理が施された滑らかな木材を、軽く爪で引っ掻くとこんな音がするはずだ。
「あれ? 谷原さん『シャッ』、どうし『シャッ』ました?」
これには聞き覚えがある。
昨夜、一晩中悩まされた怪音だ。
自分の背中側、診察室のドア外から聞こえている。
それもドアの下部、ちょうど四つん這いの動物が鳴らせる位置から。
「……すみません、今も聞こえ始めました。ドアを何かが引っ掻いています」
「まあ、そうなんですか」
ここら辺かな、と女医がドアの前に立つ。
すると気配を察したかのように、その音は止んだ。
「あ、聞こえなくなった」
「私がここに立ったからですか。……谷原さんちょっとこの扉開けてみませんか? もちろん無理強いはしないですけど」
相変わらずの優しい声で、恐ろしい提案をしてくる。
今までは見て見ぬ振りを通してきた。
もし気付いていると、あれに知られたらどうなるのか。
恐ろしいことになるからやめろ、と本能が告げている。
しかし、どうせあのカフェで見つかっているのだ。
それに幻聴の類であれば、戸の外には何もいないはず。
そうすれば、薬を貰い医師の指導に従った治療で好転するだろう。理屈は通る。
無理矢理、理性で本能をねじ伏せていく。
スライド式のドア前に立つと、女医は場所を譲った。
丸みを帯びた金属製の取っ手を握って、ゴクリと唾を飲む。脳内ではアラームが鳴り響き、身体は緊張して強張っている。たかがドア一つ開けるのに何を躊躇しているのだろうか、外からは何も聞こえてこない。
辛かったら止めても……、という女医の声で決断した。
スライドドアはすっと開いた。
ベージュのてらてらした床が、白い照明を反射して光っている。その先には、さっきの受付と座り損ねたベンチ、控えめな観葉植物が見えるだけ。覗き込んで扉の外側を見ても、傷一つ着いていない。
「……はあ、良かった」
へなへなと崩れ落ちそうになりながら、ドアを閉める。
診察室の椅子に戻ると、にこにこした女医が労わってくれた。
中々の荒療治だ、見た目と反して大胆な医者だなと思う。
「勇気がいりましたね、外には何もいなかったですか?」
「ええ、すっきりしました、どうもありがとうございます」
にゃあ
手汗をスラックスで拭きながら、礼を言う。
再びパソコンに向き直った女医の横顔を眺めて、違和感に気付いた。
腐った肉のような匂いがする。
それに一瞬、猫の声が聞こえた。
「……あの、ここでアニマルセラピー的な治療があったりしますか?」
にゃあ
「いいえ、うちはそこまでやっていないですね、動物お好きなんですか?」
「……いえ。病院で猫を飼うことなんてないですよね」
にゃあ
女医はおかしいと感じたのか、怪訝な顔でこちらを見た。
しかし視線が合うことはなかった。
足元だ。
自分の革靴、そのちょっと先に目が釘付けになる。
そこには黒い猫が座り、ドアを開けた愚かな人間を見上げていた。
片方の眼はがらんとした空洞で、身体は所々破れている。
カラスにつつかれたのだろうか、肋骨が覗いていた。
明らかにこの世のものではない。
――それは嬉しそうに、にゃあと鳴いた。
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