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 この資料館は田牧家の敷地に建てられている。

 旧田牧邸は別館として保存されており、この近代的な本館は隣接している公園内にあった。ただ、その公園も田牧家が所有する田を潰して寄付したものらしい。

 本館内には展示室以外にも、道の駅やカフェがあり、ロビーから自由に行き来ができる。資料館に色々な施設が併設しているのは珍しいが、これも田牧の発想なのだろうか。道の駅は大賑わいしており、むしろそちらが中心で、ついでに展示室があるといった様相であった。

 隣のカフェに入ると、天気が良いためテラス席を選んだ。

 公園は綺麗な芝生で覆われており、一組の家族が飼い犬と戯れているのが見える。

「また犬か」

「谷原さん、犬苦手になりそうですね」

 ずずっと水をすすり、安川が笑う。

 テラスは大きめのシェードで覆われていて日差しが遮られている。

 資料館とは違いカフェには数人の先客がいた。

「車で移動した時も、犬の散歩してる人よく見ましたよね」

「その度に気が気じゃなかった、この町はペットに補助金でも出るのかな」

 資料館に向かう車の中から、犬を散歩させている人を三、四組は見た。その上でこの公園にもいるとなると、偶然ではない気がする。例の白い犬の話に繋げたくなかったので、別の話題に切り替える。

「そういえば、うちの娘は普段わがまま言わないんだけど、一度だけ譲らなかったことがあってな」

「シベリアンハスキー飼いたいって言ってたんでしょ。その話もう十回目ですよ」

「いやいいから聞けよ、なんでハスキーかっていうと――」

「何でハスキーなんですか?」

 トイレに行っていた日置がいつの間にか戻ってきていた。

 昨日知り合った女性に聞かれるのは何だか恥ずかしい。

 そんな上司の表情が面白いようで、安川が悪戯っぽく言う。

「『パパに似てるから』ですよね? 要するに娘さんとの惚気のろけエピソードってこと」

「確かに谷原さん、似てるかもしれない」

 日置は合点がいったように驚く。

 頭の中のハスキー犬と、目の前の男を見比べているのか、目を忙しく動かしている。

 パパに似てるから、と言われた時は素直に嬉しかった。

 いつか思春期となった娘に嫌われても、この思い出だけで乗り切れそうな気がする。だが沙耶は父に似てるということよりも、寂しさを埋める存在が欲しかったのだと思う。この記憶を思い出す度に、近くにいてやれない罪悪感が刺激された。

 娘を孤独にさせている自責を忘れないように、何度も同じ話を安川にする。その度に胸がちくりと痛むが、これは必要な罰なのだ。仕事にかまけて大切な家族を放っている罰。

 そして自傷する度に、痛さに耐え兼ねてもう一人の自分が出てくる。

 それは「娘の面倒は母が見ている、うちは分担しているだけだ」とキーキー喚く。

 母は教師をしながら自分を育て上げたので、同じ公務員として仕事に理解もあるし、早期退職して余暇を持て余していた。子育てをする上で、これ以上のパートナーはそうはいない。だから自分が金を稼ぎ母に沙耶の面倒をみてもらう。妻が死んだんだそうするしかないだろう、とそれは言う。

 果たしてそうだろうか?

 今朝も午後のテニススクールに付き添えないことを電話したら、「パパお仕事大変だね」と逆に励まされた。

 だが沙耶がテニスを始めたのは、友達が親子で同じスクールに通っていたのがきっかけだった。羨ましそうに話したのを今でも覚えている。罪滅ぼしのために付き添いだけでも行くと決めたのにこの有様だ。

 自分の父親は生まれる前に死んでいる。

 なので、正しい父親像というのがいまいち分からない。

 沙耶と関わる時も一々これが正しいのかと自問しているが、ぐるぐると頭の中を疑問が巡るだけで、結局正しい答えは出てきていない。

 だが一つだけ分かっていることがある。

 父親の役割とは金を稼ぐことだけではない。

 仕事に逃げなかった母がそうしてくれたように、子に寄り添い、時には叱り、同じ時間を過ごすことなのだ。

 毎回毎回、沙耶に後ろめたい時、言い訳に逃げたくなる時、この結論へ戻るようにしている。

 すると、もう一人の自分はすっとどこかに消える。

 深い傷を残したまま。

 あえてこれは治さない、治してはならない。

 痛みを感じている間は自分がまともな人間だと思えるから。

 いつの間にか運ばれてきた昼食を食べる。色とりどりの揚げ野菜がトッピングされたカレー。お腹が空いていたようで、何度かスプーンを口に運ぶと元気がでてきた。日置はパスタとサラダセット、安川は大きなハンバーグを食べながら談笑している。

 若者達の会話にも入る気がせず黙々と食べていると、不可抗力的に、後ろのテラス席に座る老夫婦の会話が聞こえてきた。

「聞いたか? 前田さんところの犬がやられたらしい。若い奴らは熊だって言ってるが、どうも違うぞ」

「……もしかして『かのしさま』かしら?」

「あれが犬を喰うなんて聞いたことがねえが、用心に越したことはない、玄関の中に繋いどこう」

「本当嫌ねえ、早く神主さんに何とかしてもらわないと」

 少し遠くで会話しているため、全神経を耳に集中させて聞き取った。かのしさま、犬を食べる、どういうことだ?

『かのしさま』が亡者の名前なのだろうか。

 だが一番重要なのは最後の神主が何とかできるということだ。ここで老夫婦に聞くよりも、神社に行った方が確実だろう。御幣を刺している人物という日置の予想も、この調子だとおそらく当たっている。早く話を聞きたいという焦りと、行き止まりを回避できた安堵の気持ちが入り交じる。

 カレーを食べきって、砂糖とミルクがたっぷり入ったコーヒーを飲む。人心地がつき、芝生で戯れている家族に目を向けた。

 いつの間にか犬が二匹に増えている。

 一匹は子供とボールで遊び、それを両親が微笑ましく見ていた。

 もう一匹は少し離れたところで行儀良く座っている。

 ハスキーを飼えば良かったかもしれない。そうすれば、あんな風に沙耶と一緒に遊べた。いやどうだろう、いくら犬連れとは言え父親と公園には行かないだろうか。それに母の負担が増えることは目に見えていたので、結局飼えなかったのだ。普段我儘を言わない沙耶の願いを叶えられなかった、その罪悪感がまた胸を刺す。

「谷原さん、犬飼いたくなったんですか?」

 ぼーっとしているのが寂しげに見えたのか、口の端を丁寧に拭いて、日置が話しかけてくる。

「うん、でも流石に二匹は厳しいかな」

「えっ?二匹」

「もう一匹いますか?」

 ハンバーグを頬張った安川がきょろきょろと探す。

 少し遠い場所にいるが見つけられないということはないだろう。

「いやちょっと離れたところに座って……」

 言いかけて止めた。

 どくり、と自分の動悸が聞こえた。

 全身の毛が逆立ち、手の平にじっとりと汗がにじむ。

 ――そう、いるのだ。

 離れて座っている『白い犬』が。

 犬はいつの間にか、こちらをじっと見ている。

 白濁した両眼からは何の感情も読み取れないが、尻尾がせわしなく動いている。

 嬉しいのか。

 ああ、分かった。

 谷道では道路に座って車内をうかがっていたが、あれは見極めていたのだ。自分が見える人間が三人のうち誰なのか。そして見つけてしまった。

 はっはっはっ、熱い息が首筋にかかる。

 強い獣の匂いが鼻に衝き、思わず首を竦めて大声で叫んだ。

「うわああああああ」

「谷原さん、どうしました?」 

 安川が心配そうに覗き込んでいる。

 普通ではないと思ったのか、日置は険しい顔で周りを見回している。

 青い芝の上では、相変わらず子供と犬が戯れている。一匹だけだ、黒い柴犬。後ろを振り返っても、先ほど話していた老夫婦が怪訝な顔で見ているだけであった。

「あの犬がいるんですね? なんで私には分からないんだろう」

「もう消えた、いなくなったよ」

 首の後ろをさすりながら答える。

 よく考えたら、この椅子の高さであれば、犬の体高では首筋に息はかからない。なんで自分ばかりこんな目に遭うのか、と泣きたくなる。亡者にしろ犬にしろ、安川と日置は直接見ていないのだ。

 ふと別の可能性を思い至る。

 ひょっとして自分は精神的な病気ではないか。出張前の雑務を片付けるために今週は残業続きだったし、本来休みのはずの今日も朝から調査で息をつく暇すらない。その疲れと、ハスキーを飼ってあげられなかった後悔が、白い犬という幻覚になって見えたのだろうか。

「とにかく神社へ行こう。今のと御幣の話を合わせて聞きたい」

「その件なんですけど、この時間に神主さんがいるとは限らないと思うんです。

我々も職場にずっとはいないですよね? そこでなんですが、これ見てください」

 言われるがまま、彼女のスマートフォンの画面をのぞき込む。

 ページは阿須賀神社の公式サイトで、年間スケジュールと書かれている。

 日置が細い指でつぅーとスクロールすると、四月の欄に「春の神祭」が表れた。

 日付は来週の土曜日だ。

「写真を見ると、神社と町の関係者のみで執り行う小規模な神事のようです。昨年のものですが、ここに田牧町長が写っています。そこで谷原さんにお願いなのですが、町長経由でアポイントとっていただけませんか?」

 なるほど、ようやく役に立つ時が来たようだ。

 確かに田牧経由で神主に約束を取り付けるのは妙案だ。

 こういう権力の使い方は好きではないが、監査している立場上お願いは聞いてもらえるだろう。

「わかった」

「よろしくお願いします。今日は一旦解散として、また来週ここに集合しましょう」

 きびきびと淀みない日置の言葉は一々的を射ている。

 何だか職場で打ち合わせでもしているようで、彼女が上司に見えてきた。



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