9

 高速道路でも走るような調子で、白いSUVが農道を疾走する。

 今日も晴れ。青空が広がりドライブには最高の陽気だった。助手席では窓を全開にした安川がはしゃいでいる。

「日置さん警察なのに飛ばすね、いいの?」

「一秒でも早く着きたいので、違反は見逃してください」

 日置は苦笑いで返す。

 取っ付きにくい雰囲気とは違い、案外普通に感情表現をする子だなと思った。

 同い年ということもあり、既に安川とは打ち解けている。

「安川さんみたいに気安く話せる部下が欲しかったです」

「もう部下ほしいの? 早くない?」

 安川は快活に笑う。部下扱いされることについては、特に文句ないようだ。

 確かに、年齢的には部下を持つのは早いだろう。

 だが昨日見せられた警察手帳を思い出すと、階級欄には警部と書いてあった。この歳で上がれる階級ではないため、恐らく国家一種試験を通過したキャリア組。そうなると、彼女の部下達は現場で叩き上げられてきた中年男性ばかりのはずだ。

 安川との会話で、段々と日置のことが分かってきた。

 年齢は二十六歳、歳の離れた姉がいる。父親が刑事だったため憧れて警察官に。姪が亡くなった事故の第一発見者であり、そのショックにより現在は有給取得中。

 ——あの後、朝食会場での話を思い出す。

「警察の発表は、発見からしばらく時間が経ってからでした」

 少し声を震わせながら日置は話す。

 こくりとコーヒーを一口飲んで続ける。

「というのも、遺体の状況があまりに特殊で」

「特殊?」

「はい、あの子の全身には手形や噛み跡がついていたんです。検証してもどの動物にも該当しなくて、強いて言えば人に似ているけど大きさが違うと。結局、原因が分からないまま溺死ということで、先日発表となりました」

 手形、噛み跡、想像よりも壮絶な背景に絶句する。

 第一発見者であった日置本人の心痛はいかほどであっただろうか。

「捜査員の中には河童の仕業だなんていう人もいたんですが、発見した時のあれを思うと、あながち遠くない気がして。その後、小春を見つけた時の違和感を辿り、荒川に沿ってここまで来ました」

 確かに朝比町を貫く夜須川は、下流が荒川に注いでいる。

 御幣で封じている亡者が、川を伝って東京まで下っていったということだろうか。それとも全く別の原因、つまり荒川に河童が住んでいるのか。あまり聞いたことはないが。

 いつの間にか、亡者だの河童だのといった存在を前提として考えている自分に驚いた。

 そして同時にあることを思い出す。

「もしかして名前は菅田小春ちゃん?」

「はい、そうです。ニュース見られましたか」

 安川が息を呑んだのが分かった。

 列車の中で見たニュースの子だ。

 沙耶と重ねたあの子。

 川に引きずりこまれる沙耶が頭に浮かんだ。

 手形状の痣が付くくらいの強い力で引っ張られて、何か分からないモノに食いちぎられる。

 そんなことがあってはならない。許されない。

「誰が、いや何が、小春をあんな目に合わせたのかを知りたいんです。そして、次の被害者を出さないために、私はこの件を解決したいんです」

 燃えるような怒りと静かな決意、相反する二つの感情が混じる日置の言葉。

 その言葉で調査に同行することを決断したのだ。

 ——そろそろ窓を閉めてください

 大きな声で日置が言う。

 助手席から吹き込んでくる風に負けないための大声。

 その風が妙に涼しいことで我に返った。

 昨日の今日でまた来てしまった。あの棚田に。

 道脇に停めた車から降りると、ひゅうと風が首筋を撫でた。やはり肌寒い、斜面を見上げると何段もの石垣達が変わらずそびえていた。皇居なんかの綺麗なものとは違い、様々な形の石で乱雑に組みあがっているが、斜面が崩れないためにはこの程度で良いのだろう。一個あたりの大きさは大体人の頭くらいだなと思うと、濃淡や模様が苦悶の表情に見えて思わず目を反らした。

 昨日と同じく、端のあぜ道を上がっていく。違うのは靴だ、朝露に濡れた黒土が革靴を滑らせる。いかに田牧の用意が良かったか、その心遣いが今更ながら沁みた。

 滑らないように踏ん張るせいで、昨日よりも足が疲れる。

 目の前でキビキビと日置が登っていくのを見て、若いな、と感心したが、後ろでは荷物を背負った安川が昨日同様に苦闘している。

「いい景色ですね。車が小さく見える」

 最上段に着いた日置は、どこかで聞いたような台詞を吐き、気持ち良さそうに大きく息を吸っていた。整備途中の展望台まで登り切ると、昨日同様の景色が広がっている。

「今日は養鶏場の匂いがしないな」

「近くにあるんですか?」

「うん」と答えながら、きょろきょろと棚田を見渡す。

 そして見つけたくはなかったが、想像通りそれはあった。

「あそこにあった。やっぱりこの棚田に落ちていたんだ」

「えっ、どこですか?」

 本来の目的を忘れかけていた日置は慌てて探す。下の方の棚田に、御幣が突き刺さっている。まだが高くないため、斜面の下半分は暗い。

「あぁ、やっと着いた。御幣あったんですか、先を越されましたね」

「いや越されていいんだよ」

「そうです、できれば刺し終わったあたりで来たかったですけど」

 御幣がないなまの状態だと、何か危険があるかもしれない。

 速度違反までして早く到着したかったのは、一声かけて事情を聞きたかったからだ。だが、少々遅かった。

 それに何か変だ、あのもやもやとした嫌な感覚がない。

 空気が妙に澄んでいて、シンと静まり返っていた。

 風に乗って漂ってくる森の清浄な香りが心を落ち着かせる。

「変だな、あの感じがしない。日置さんどう?」

「ええ、しませんね」

 もしかしたら亡者ご本人と会うかもと思い、覚悟して来たのだが何事もない。それどころか例のあの匂いすらしないので、本当にここへ落ちたのか不安になる。どうしてだろう、疑問を解決しに来たのに逆に増えてしまった。未知の分野に挑戦している科学者のような心境だ。

「うーん、これからどうしましょうか」

 困ったように日置が呟く。

 眼下では、谷間を吹く微風に真っ白な紙垂がパタパタとはためいている。

 真新しい御幣を見ていると、ふと一つの仮説が思いついた。

「確認したいことがある、一旦町に戻ろう」

「えっ、今登ってきたばっかりなんですけど……。コンビニで皆のおやつ買ってきたのに」

 リュックを背負った安川が嘆く。わざわざ荷物を背負って登ってきた理由はそれらしい。

「いえ、何か調べることがあればすぐ行きましょう」

 反対に日置はフットワークが軽く、足早に斜面を下っていく。

 慌ててその後を二人で追った。

 車に乗り込むと、行きとは異なり速度を守りながら道を戻っていく。

 道幅は狭く、頻繁にカーブが現れるためどうにも落ち着かない。ホラー映画であったら油断させておいて、何かあるパターンだ。道脇に立っている『野生動物に注意!』の標識にも何かを勘ぐってしまう。

「谷原さん、確認したいことって何ですか?」

 助手席から振り返って安川が尋ねてくる。

 仮説が正しければ一目見るだけで分かるはずだ。着いてからの楽しみにしておけ、そう言おうとした時、部下の肩越しのフロントガラスに何かが見えた。

「日置さん、危ない! ストップ、ストップ!」

「……え、え、なになに!?」

 狭い谷道のカーブを曲がったところで、車は急停止した。思わず前につんのめる。変な体勢で後ろを向いていた安川は、首にシートベルトが食い込み目を白黒させている。考え事をしていたであろう日置は突然の指示に混乱していた。

「わたし、何か轢きました!?」

「犬、白い犬が……」

 ブレーキの直前、ちょうど道路の真ん中に『白い犬』が座っていたのだ。

 野良犬? いや毛並みは綺麗で豊かだったので、脱走した飼い犬だろうか。立派な体躯の大型犬なので、飼いきれなくなって山に逃がしたのかもしれない。

 しかしもう一度見ると、そこには荒れた山道の道路が広がっているだけであった。距離的には轢いていないはずだが、驚いて逃げたのだろうか。

「あれ、犬がいたような気がしたんだけど」

「私、ちょっとぼーっとしてて、安川さん見ました?」

「……いてて、いや、後ろ向いてたから、分かんないや」

 見間違いだろうか、いやそんなことはない、はっきりと白い犬が座っていた。ちょうどセンターラインの上に行儀よく座って、はっはっと荒い息をしていたように思う。目が白濁していたので、白内障を患った老犬だったのだろうか。

 そこまで思い出し、ふと考える。

 何故一瞬でそこまで分かったのだろう、車の中にいて息遣いなんて聞こえるわけがない。

 あの時と同じだ。 

 昨日の落雷を思い出し、背中を冷たい手で撫でられるような感覚を覚えた。

「谷原さん、私には見えなかったのですが、犬がいたんですか?」

「居たように見えたんだけど、見間違いかな」

 誤魔化すように返答する。

 律儀に点灯させたハザードランプの音が、カチカチと車内に響いていた。

「……とにかく轢いていないなら良かった。先を急ごう」

 これ以上考えると嫌な方向にしか思考が向かなくなる。そう思い、日置を急かすように促した。彼女は何か言いたげであったが、黙ってアクセルを踏んだ。

 しばらく車を走らせて、町へ戻ってくると目的地にはすぐ到着した。

 見覚えのある田の前で、日置が車を停める。

「あー、谷原さんのせいで、首がいてぇー」

 外に出て、大げさに首をさする安川。

 すまんすまん、と謝りながら車を降りる。

「ん? なんか犬っぽい毛がついてる」

 安川は嫌な顔をして、スーツの肩をはらう。

 犬という単語にびくりとする、先ほどのあれが見えたのは自分だけなのだ。

「すみません、実家で飼っているゴールデンレトリバーをよく助手席に乗せてるんです。あ、お尻にも付いてる」

 日置の言葉に、「まじで?」と今度はお尻をはらっている。黄色い毛がアスファルトに落ちていくのを見て、安心する。良かった、白い毛ではない。

 用水路にはさらさらと水が流れ、頭上では雲雀ひばりが求愛の鳴き声を響かせる。どこにでもある春の田園風景。違うのは目の前の田に御幣が刺さっていることだった。

 だが昨日とは様子が違う。

 御幣は黒ずんで腐っていた。

 長年風雨に晒されたように朽ちており、紙垂は虫に食われたようにぼろぼろであった。

「うわ、あんなの見たら、確かにビビりますね」

 安川が低い声で呟く。

 神聖であるはずの御幣が無惨な姿を晒している。何も感じていない人間にも異様さが伝わるようだ。もしキリスト教だったら十字架が穢されるに値するだろう。そんなことができる存在は東西問わず『良くないもの』しかいない。

「昨日はああじゃなかったんです、ちゃんと綺麗でした。それに何か恐い存在を感じていました」

 同じ御幣を見ていた日置なので、目の前の出来事に驚いている。

 確かにシンと静まり返り、何者の気配もない。

 黒ずんだ御幣は棚田のものと真逆だが、何も感じないという奇妙な符合に胸がざわつく。

 安川が怯えたように口を開いた。

「何もいないっていうことは、一斉に出てきたんですか?」

「それだったら棚田の方も腐ってないとおかしいな」

「……ということは、こっちが出てきちゃっているんですね」

 日置がぽつりと呟く。

 腐った御幣が何の役にも立っていないのは見て分かる。そして気配を感じないというのは、からだ。

 我々が今見ている田は、得体の知れない化け物が立ち去った後の巣なのだ。

 逆に言えば、棚田の方はしっかりと封じ込めているということ。この先はあまり考えたくないが、脳は勝手に回転し残酷な現実を導き出す。

 棚田の御幣は新しい。

 そのため気配が漏れ出る隙間もなく、綺麗に蓋がされていたということだろう。

 しかし目の前の田は違う。

 いつから御幣があるのか分からないが、棚田よりは古い。

 それが無惨な姿、まるで内から強引にこじ開けられてしまっているようになっている。

 御幣には限界があるのだ。

 言葉に出さずとも全員が理解した。空気が重苦しい。

 御幣が蓋だと考えると、なぜ亡者が外に出ているのか疑問だった。そんな時に棚田の真新しい御幣を見て気付いたのだ、御幣は時と共に弱くなっていく。いや中から徐々に壊されているのかもしれないと。

 御幣を押し破り、夜須川に向かう邪悪な姿を想像したのか、日置は唇を噛みしめている。彼女の姪を襲った犯人が、『何であったか』ということを朽ちた御幣が証明していた。

「この変化を見るに、封印の役目をしているというのは間違いないと思います。やはり詳しい話はこれを立てた人に聞くべきですね。ただその人が何も分からずに、伝統だからやってるだけです、と言ったらお終いですけど」

 日置は淡々と話す。

 その通り。情報が欲しいのだが、当人に亡者が見えていない可能性はある。現に見えていない安川は、昨日ここを通った時に平気な顔をしていた。

 その場合に備えて、ある程度亡者の情報を集める必要がある。もちろん御幣を刺している人物に繋がる情報も欲しい。何か良い方法はないだろうか。

「そうだ、田牧さん家行きませんか?」

 突拍子もない安川の提案に、二人で首をかしげる。

 今日は土曜だ、田牧に話を聞くにしても迷惑だろう。

「前に住んでいた方の家ですよ」

 日置はまだ理解していない。朝比町資料館か、悪くない考えだ。田牧が前住んでいた家を寄贈して資料館にしてあると言っていた。

 昔からの因習として出てくる御幣と豊穣の神。明らかに繋がっているその二つを結ぶ情報を探すのに、資料館は打って付けだ。未だ分からない顔をしている日置に事情を説明した。

「なるほど、いいと思います。それにしても自分の住んでいた家を寄付するなんて気前の良い町長ですね」

 納得したように頷き、話を続ける。

「それで言うと、その町長の田牧さんに直接聞いてみるのはダメなんですか?」

 彼女の疑問はもっともだが、おそらく何も知らないはずだ。

 昨日の光景を思い出す。

「田牧さんは例のアサヒカリで造った日本酒を飲んでいた。もし経緯を知っていたら口に入れないはずだね」

 あの米を食べ酒を飲んだことを思い出し、吐き気がした。

 ぐっと我慢するが生唾が湧いてくる。地中に落ちた亡者を糧に育ったアサヒカリ、その背景を知っていて飲み食いしたとは到底思えない。雷を見ないように言ったのも、秘事が露見するのを恐れてというより、単に因習を伝えたかったか、あるいはあの凄い閃光を見ないようにというそのままの親切であろう。

 安川は何かに気付いたように泣きそうな顔をしている。

「昨日も今朝もたくさん米食べました。何で教えてくれないんですか!」

「悪い悪い、絶対信じてもらえないと思って。それに今朝のは普通のアサヒカリだから平気だよ」

「朝比の人も食べてるようですし、多分大丈夫ですよ」

 自分だけ食べていない余裕からか、他人事のような日置。

 確かに米や酒からは何も感じなかった、だから良いという訳ではないが。

「そんなことよりも、もう一つ問題があります。ここにいた亡者がどこに行ったかです」

 何でもない口振りだが、重大な事実に顔が引き攣る。

 役目を終えた御幣が刺さっているが、その下のものはどこに行ったのだ。

 夜須川に向かって、ずずずっと這っていく亡者が脳裏に浮かんだ。

「……とにかく今は情報を集めることしかできません、すぐに資料館に向かいましょう」

 日置は力なさげに呟いた。



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