匳家の人々

第5話 匳屋敷

 屋敷と雑木林の境で、胃をひっくり返すような嘔吐きが木霊した。


 しばらく直継に背中を撫で摩られたあと、リュックからペットボトルをとりだし、口にふくんで何度もすすぐ。毛虫を口に含んだような凄まじい嫌悪感を伴ったのは、口に入った髪の毛が遺髪を連想させたからだ。

 

 誰ともしれない死者の残穢。それが黒いサナダ虫の如く、舌に這い出たのだから堪らない。


「気分が優れないなら、僕から匳家に中止の提案をしましょうか?」

「いいえ。もう大丈夫です。車酔いですから」


 直継の医師としての目は決して私の主訴を信じていなかった。

 

 それでも意思を尊重してくれたのか、それ以上何も言わず、一緒に屋敷の門をくぐった。

 

 金満家とあって、広壮で豪奢なものを想像していたが、実際は古刹の本殿が一棟あるような閑寂としたもので、庭の中央の伽藍石から小さな飛び石がふた筋のびて、ひとつは雪見灯籠と椿の庭に誘い、もうひとつは玄関にのびていた。


 長くのびた二人の影の上をヒバリが掠め飛ぶ。御影石が磨き込まれた玄関の前には、割烹着すたがの女性がひとり、ぽつねんと待っていた。


「彼女は匳家で使用人をされている小山田おやまだ多恵たえさん」


 直継の紹介をうけて、女性がぺこりと頭をさげる。


「出雲秋泰先生、お待ちしておりました」


 憶えのある声だった。訃報を伝えたのは彼女だろう。声は細く朴訥とした印象だが、決して気弱ではなく、田舎で暮らす中年に散見できる頑固な意思のつよさが、目端からうかがえる。


「僕は案内役なので。じゃあここで」


 案内を終えるや否や、直継は早々と踵を返した。

 まるで一刻も早く屋敷から距離をとりたがるようで、暗に危惧すべき事象がいまだ多く匳家に蹲っていると仄めかすかのようである。


「奥様、小説家の先生がお越しになりました」


「これは出雲先生。遠路遙々よくいらして下さいました」


 まっすぐ伸びた薄暗な廊下に、年嵩のある女性の声が陰陰とながれた。


 そして廊下の奥の薄闇がわだかまっている場所から、喪服姿の女性が楚々とした足取りで現れた。


「匳金蔵の長女、匳蔵子くしげくらこと申します」


「これは御丁寧にどうも」


 中年というより初老に近いことが、目元や指先の皺から窺い知れた。たしか事前の資料によれば御年五十六歳ではなかったか。その面差しに高い教養と、それに付随する自尊心が滲んでいる。鋭い眼差しはジロジロと吟味する下品さはないが、一瞥して品評を下す冷淡さを備えていた。


 私の評価が定まったのだろう。視界から掃きだす態度から『無害無益。どこぞの馬の骨』というのが、彼女の心中ではないか。


「では小山田さん。先生を客間に」

「はい。奥様」

「それでは出雲先生。ご不便があれば、そこの小山田に申しつけください」


 蔵子はそういってそそくさと屋敷の奥へ辞していく。まるで自分の台詞を終えて舞台袖に帰って行く脇役のごときあっけなさだが、すくりと伸びた背中は常にこちらを見据え、一切の問いかけを撥ねつける雰囲気をまとっているかのようだった。



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