第2話 幽霊作家
三日前のことだ。
なじみの出版社から、福岡県みやま市に隠居している
匳金蔵といえば、造船業の雄として名を馳せて、その敏腕手腕から
浅学な私でさえ耳にしたことがある有名人。
依頼がくるや二つ返事で諒解した。
匳金蔵の自伝は、いま国民が尤も求めている著書だった。
というのも、彼は素性というものが全く知れないのだ。
卒寿の大台にのり、いまだ矍鑠として意気軒昂、テレビ出演もこなし、経済誌だけではなく健康番組からも引っ張りだこな彼は、しかし一度として、みずからの来歴を明かしたことがなかった。巷間が知り得るのは、彼が刻んだ赫々とした業績のみである。
往々にしてビジネスの成功者はみずからの労苦を語りたがる一種の精神的露出狂であるのに、匳金蔵だけはその例に反した秘密主義者だった。
それ故に様々な憶測がとびかい、誹謗中傷まがいの暗い噂も囁かれたが、それでもなお一切の弁明なく、今に到っている。
墓場に出自を埋めると思われていただけに、待望の自伝である。
彼の急な心変わりに、編集長などは老い先の短さに心変わりしたのだろうというが、どうも彼の印象がそれを否定する。
一度テレビでみかけた、あの鷲鼻を昂然とあげて、傲然とカメラを見据える金蔵の狷介な顔貌には、余生を愁う、その一端すら窺えなかった。ましてや壮年といえる歳から祝部村という辺鄙な土地に邸を構えて、来客や記者など一顧だにせず門前払いする厭人家である。
そんな彼に、私はおとなう。
彼の
拙速を尊ぶ出版社の命を受けて、翌朝には東京駅から五時間かけてのぞみ号で福岡まで向かうや、とりもなおざず九州新幹線にのりかえて、
バスに揺られること約一時間。ふたつのトンネルをくぐって、三つ目の長いトンネルを抜ける頃には、真っ暗闇にかわり、宿泊する蓬荘周辺にいたっては、深山秘境と思うばかりの暗い山村で、旅館の茅葺き門から蛍火のように灯る玄関灯をみつけたときなど、狐火かと怪しんだほどの寒村だった。
「御免下さい」
古い二階建ての建物に踏み入れ、三和土に顔を出す。旅館と冠するだけあって、ロビーはひととおり民宿の態をなしていた。ただカウンターらしき場所に人影はない。
ジリジリジリジリジ――。
と、靴をぬいで周囲を見回していた私に警告するかのように、古伊万里の飾り棚がおかれている古箪笥の上で、今どき珍しい黒電話が防犯ブザーのごとく鳴りだした。
すると、その音に反応して、奥から声がした。
「もし、お客さん。お迎えできずに相すいません。非礼を重ねるようで恐縮ですが、少しばかり手が離せません。どうかひとつ、電話をとってくださいませんか」
四、五十代の年増の声で、やや訛りのある抑揚が、鉈を研ぐ山姥を彷彿とさせた。
言わずもがな、正体は蓬髪痩躰の食人鬼ではなく、信楽タヌキの女将さんであったが、当時の私には知りようもない。魑魅魍魎に化かされているのかと訝しみつつも、頑迷なる合理主義をいだく現代人的思考が頑なに異を唱えて、怯えつつも受話器を掴んだ。
「はい、出雲ですが」
言って、しまったと思った。代理として出たことを失念して名乗りでてしまったのだ。しかし相手方は、まるで私がでることを想定したように「ああ、それは丁度良い」という。電話相手もまた中年の女の声である。
「急ではありますが、数日、蓬荘に逗留して戴きたく」
「へえ」
「ありがとうございます。――それでは」
それだけ言うと、女は電話を切ろうとする。
私が慌てたのは言うまでもない。「へえ」とこたえたのは「へ?」という驚きと「え?」という戸惑いが渾然となって不意に出たゲップのようなもので、開口一番申しつけられた急な逗留を承諾した訳ではなかった。
「あの、何があったんですか?」
「それは――」
悄然とした声に、はたして早々に通話を終えたかったのだと察せた。
それほどまでに怯えが滲んで、今にも受話器を下ろしかねない印象があった。そんな彼女を必死にとどめて、強いて説明を乞うと、やや要領を得ないながらも、その晩におきた不審な首吊り自殺についておずおずと話してくれた。
軒先では、これから一両日降り続ける陰気な雨が、ぽつぽつと降り始めたところだった。
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