くだらないことのすべて、一秒後に胸を揺らすことのすべて
尾八原ジュージ
琴子先輩
琴子先輩には左手の小指がない。むかし、まだ先輩が小さかったころに、お兄さんがうっかり車のドアに挟んでしまった。それで切断ということになったのだそうだけど、兄さんにされたいやなことはそれだけだと先輩は話してくれた。先輩の子ども時代の話はいつだって牧歌的だった。両親とふたつ上の兄、白くて四角くて小さな一軒家、芝生が植えられた小さな庭。自分専用の花壇。夏のビニールプール。縁側で食べるアイスってどうしてあんなに美味しかったんだろうねって言いながら、私の散らかったアパートで、わざわざベランダに出てさっき買ってきたばかりのバニラアイスを食べてる先輩の黄色いネイル。「指が一本少ないぶん、マニキュアは君よりちょっとだけ減るのが遅いよ」いやいや先輩、私めったにマニキュア塗らないから全然減らないんですよ。そんなこと言うのも野暮だなと思って、私は「そうですね」と答えた。
二十三歳の夏から秋、琴子先輩はしょっちゅううちに遊びにきた。先輩が働いてた書店に私がふらっと入ったのが再会のきっかけだった。「高校卒業以来じゃん、元気だった?」そう聞かれて、私はへらへら笑った。自分が元気かどうか自信がなかった。それから先輩の仕事終わりにもう一度落ちあい、話しているうちに実はすごく近くに住んでるってことがわかって、「じゃあ今度遊びに行ってもいい?」「いいっすよ」って適当な会話がきっかけで、その三ヵ月だけはほとんど毎日くらい会っていた。一月も経てばまるで同棲してるカップルみたいに琴子先輩がいるのが当たり前みたいになって、私は冷凍庫に彼女の好きなバニラアイスをストックし、仕事を終えた先輩がやってくるのを部屋でひとり待った。
当時、私は無職だった。新卒で入った会社があまりに合わなくて二ヵ月で辞めて、自分の不甲斐なさに落ち込んで誰にも会いたくないってときに、琴子先輩はほとんど毎日のペースでうちにやってきた。別に何をしたわけじゃない。何もしていない。くだらないことばかりしゃべり過ぎて、あの頃先輩と何を話していたのかほとんど覚えていない。ただ先輩の手が薄くて指が長かったこととか、好きなアイスとか、タンクトップのレモンイエローとか、ふたりで夜更かしして見た朝焼けの空とか、そんなことばかり覚えていて、今こうして記憶の中からそれらを取り出すたびに私の胸は説明のつかない切なさで震える。子供時代、家族仲はとてもよかったって言うくせに、先輩はお盆の時期も里帰りなんかしなかったし、今現在家族はどうしてるかって話もしなかった。この世界のどこかで生きてるらしいということだけは会話の端々から察した。どうして会わなくなったのかはわからないままだった。
九月の終わり、先輩は「退職して引っ越すんだ」と突然打ち明けた。「なんでですか?」「ちょっとね」つまり何の説明もなかった。ちょっとね。それだけの言葉でどうしようもなく断絶されてしまう私たちの間柄は脆い。高校のときの部活の先輩後輩が再会して一時的によく会ってた、ほんとにそれだけだった。そもそもたまたま出会わなければこんなふうに会うことだって一生なかったわけで、つまり、私たちの間柄っていうのはそれだけ。友だちと呼ぶには適当すぎて、自分でも名付けようがなかった。二十代前半で無職で孤独だった私に許された三ヵ月、そこにすとんと入り込むためだけにやってきたみたいだった。
その日、どうやって「さよなら」を言ったのか覚えていない。次の日から琴子先輩はまるで何もかも気のせいだったみたいに来なくなって、これまで日常だったものが実は白昼夢みたい、でも冷凍庫には確かに先輩の好きなアイスがまだストックされていて、それは確かに琴子先輩がいたことの証だった。そのアイスのパッケージの青色。子供時代の些細な記憶。先輩が笑うとき、眉をきゅっと下げる癖があったこと。もう本当につまらないことばっかり覚えている。その後再就職したところは性にあって今も続いているし、二十七歳のときに出会った男性と結婚して、上の子どもがもうランドセルを背負う年になった。琴子先輩は今どこでどうしているのか、私は知らない。結婚したことくらいは教えたかったのに、私たちは互いの連絡先も知らないままで、そのことに気づいたのは先輩が来なくなった後だからもうどうしようもない。
先輩がひとつだけうちに忘れていった黄色いマニキュアの小瓶を、私はまだ未練がましく手元に置いている。使ったりなんかしない。たまに取り出して、胸の奥がざわめくのを確かめるためだけに、後生大事に持っている。
くだらないことのすべて、一秒後に胸を揺らすことのすべて 尾八原ジュージ @zi-yon
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