発語。

@DojoKota

第1話

 私と彼の話をしたい。

 などと始めてしまうと、随分と凡庸な始まりだから、随分と凡庸な、というか、ぼんやりした、物語になりそうでこわい。

 私は私で彼は彼だから、二人の間柄は、それをめぐる語りは、誰にとっても輝いていてほしい。特別な物語でありたい。

 けど、まあ、うん。それは叶わないかもしれない。というより、叶わないだろう。生身の私と生身の彼と、その柔肌であやふやな気持ちに注目してくれる人が、私たちの町にどれくらいいたって言うんだろう。私の名前知ってる人、この町にほとんどいないよ。それが明瞭な傍証になる。この町に、私の名前を知らない人ばかりなように、この世界に、私たちの物語に耳澄ませる人も、きっと、ごく僅かだろう。

 わからないな。ほとほと。皆目。見当がつかないな。だからといって、困るわけではないけれど。私は心の中で、そう区切り区切り、言葉を思い浮かべて、それでようよう、思い浮かべた通りに呟くのだった。「わからないな、ほとほと。皆目、見当がつかないな。だからといって、困るわけではないけれど」私はどんな言葉であれ、それが独り言だとしても、心の中での予行演習が必要だった。いや、実際のところ、それは私の思い込みで、予行演習などなくとも、即興でなんとかなったのかもしれないけれど、私は私の言葉をすぐに飛び出させないところがなぜだか好きだったし、気に入っていたんだ。それしかない、って気分で生きてきた。きっと、生まれて初めての発語も、十二分に心の中で予行演習した後に、滔々と唐突に披露したんだろう。そんなわけで、私はあまり会話というものを楽しまなかった。私は私の間を楽しめたけれど、誰かは誰も、私のゆっくりさについてこれなかった。ゆっくりって、速かった。私はただゆっくりで緩慢なだけなのに、誰もが私においていかれた。私は誰かの言葉を耳にするときも、私が自分で話すときの逆向きのように、彼の言葉を心の中で唱えて、ふむふむと、もっと言えば、ふむふむ、ふむ?ふむむ、むふむふと、心の中の私自身が頷いてからじゃないと、受け付けられなかった。受け付けられない気がしていた。始終していた。だから、私はいつも独り言のようにつぶやくし、独り言しか、つぶやかないし、そんなんじゃ私の言葉は、いつにしたって、学校のチャイムにかき消されちゃうし、だから、クラスで私が教師に指名されると、なんだか急に氷河期がよみがえってきたみたいに、時間の流れが緩慢に進化した。それでいい。それがいい。それが私は好き。好きなのだ。それでいいじゃないか。って心の中で暗唱したのち、こくりと私は私で頷く。考え込んで身動きができなくなっていたうちに、凝り固まっていた肩や首の筋肉が、途端ほぐされる。ほだされる。私は私の言葉が好きだ。言語動作が好きだ。それはさておき、彼は中空に揺蕩っていた。なにしとるんや。と思った。なにしとるんや、と呟こうかしら、と逡巡した。私にとって、全ての思考は逡巡であり、予行演習であり、重要な検討材料だった。私は私の思った通りに行動しようか行動しまいか、常に悩んで、だから、現に動き回る私は、本当の心のままの私じゃなくて、私の心を約半分ほど反映した影みたいなものだった。なにしとるんや、なにしとるんや、なにしとるんや、三度ほど心の中をなにしとるんやで満たした後で、よし、これこれこのタイミングこの拍の置き方や、と至極納得した私の心は、満面の笑みで、彼に向かって、ずっと言葉足らずでもじもじしていた私を、風のない日の綿雲みたいに鷹揚に、応用問題解くときの受験生みたいに鷹揚に、じっくり腰を据えて、私を見下ろしていた彼を、私の視点から、影が肉体をねめつけるように、見上げた。いつだって影は肉体の足元にある。いつにしたって、彼は私より頭上にある。既成事実がそうだった。彼が私より背丈が高いって決まっていたわけでもないけれど。そんなこんなを考えているうちに、私はなんだか、はにかんでしまった。やっぱりやめようかな。どうしようかな。なにしとるんや、って完璧なタイミングで呟きたいものだ。何度も素振りして、ホールインを決めるゴルフのパターみたいに。でも、そのタイミングは、今じゃないかもしれない。意味じゃないかもしれない。どこをどうほっつき回っているんだろう、私の口唇は。こうした発語へのためらいは、もしや私の口唇が退化して消滅してしまったためではないだろうか、と不思議に不意に思って、顔面の下半分を撫で回した。アリバイを探る刑事のような手つきだったと思う。ぼこ、ぼこ、唇に十分のでっぱり二つとその谷あいを確認して、指と指とで、たぷたぷの肉襞をこじ開けた。それだけで指パッチンのように音、声、発話すればいいのだけれど、私の言葉は私の意思に由来している。私の指先がいくらわなないたところで、私の言葉が、今は喋りたあないねん、と思い込んでちゃ、いつまでたっても、彼は私の二の句を待つばかりだ。私は私の言葉に従順だった。奴隷といっても現状を言い当てている感があった。私は唾液で濡れちゃった指先で、鼻を摘んだ。自然口呼吸にならざるを得ないから、はあ、はあ、ふう、さっきより、喉が激しく震えだす。呼吸が次第に声に近づく。試しに深呼吸をして、ため息をついて、ふへえ、と喉の震えとともに息吐いて、猫がゴロゴロ喉鳴らすように、震える喉で息吐いて。よし、準備運動完了ってなわけで、私はつぶやいた。「なにしとるん」当初の予定から、や、が抜けてしまった。けど、その分、マイルドになった。詰問調が減退した。その質問には、答えたかなか答えんでもええよ、の雰囲気をまとった。私は職務質問を連発する警官じゃないのだ。私は、始終ためらっている、おしとやかな人間なのだ。今回もためらいにためらった結果、なにしとるんや、を、なにしとるん、に変換するという重大で、きっと、とてもとても、このために、ためらい続けてきたんだ、と思えて、この妙案を実践とともに思い至るために、ここまで思い悩んで、じれったくなっちゃったんだ、と思えて、とても嬉しくなった。小躍りをした。それは身体現象ではなく、心象現象だから、どこまでも地味でダイナミックな小躍りだった。心の中で極小のサーカス団が興行していた。小躍りの小(こ)がいずれ受精卵のように発生して、こ、から、こい、こいび、こいびとと踊る日も近いだろう。私のホムンクルス。むぐむぐと、私の心の中の小(こ)が、変形増殖変質して、一個体の人間へと、むぐむぐと影と肉とを生み出す見えないコピー機の力借りちゃったりして、ふまれる、うまれる、ふまれる。私たちは、生まれた瞬間、日光や月光や照明に照らされて、自身の影をふみしめる。私はほとほと私に困ってしまう。私自身イメージできないことを、ふと唐突に、無関連に、心の中に、産み落として、見かけはへだたる、世界と異世界を、心の中でつなぎ合わせてしまう。唐突に、今、や、ここ、が気になって、今はいつ?ここはどこだっけ?って気分で世界を見回す時のように、びっくりさせられるタイミングで、心に思い浮かべる。私は、少しだけ疲れる。私は、すこし自失した体で、これが私の心なのか、と心の脈絡のなさを見回す隙間時間があった。その間、私は、私の肉体の客観性を見失う。目玉がぐるりと白目を剥いているみたいに、私は心の外部が見えずになった。心の中は、まるで工場で、千台のミシン、千台のタイプライター、千台のコピー機が、並んでいた。それらが、紡ぐ、紡ぐ、紡ぐ、むぐむぐ、ぐぐぐ。彼は、ふんふん、と私の発話を聞いていた。首肯いた。その頷きは、どうにもリズミカルで、まるで、私と彼とが路上ミュージシャンで、私が彼に即興のセッションを不意打ち的に仕掛けたけれど、彼のたゆまぬ音楽修行が、彼の底知れぬ音楽的天才が、私の不意打ちを返す太刀で打ち返してきたようだった。ふんふん、ふふふん、と彼の小刻みの頷きは、聞き取れた。一言の問いに、五度首肯くとは、彼の過剰な誠実さを表していた。蛇口をひねれば華厳の滝、って感じだ。私は彼のことが好きだった。別に、彼の過剰に誠実なところが好きって訳じゃなくて、さまざまにとんがった彼の多様な個性が、私の心を引っかかった。そんなことしたことないけれど、雲丹を外殻ごと飲み込んだ時のように、心にとげとげと引っかかった。ごわごわのセーターの襟首に、毬栗を忍び込ませた時のように、ちくちくと突き刺さった、これはしたことがある。彼は誠実で、私の前で待ちぼうけをくらう。私の発語というより発芽と呼ぶに余分にふさわしいに緩慢さを、思考における間欠さを、春の日差しのぬるみで体を温める喜びに浸る冬眠明けのひきがえるくらいのんびりと、私の緩慢さにぴったり歩調合わせたのんびりさで、ほぼほぼ身動きせずに、私の発語をアイドルファンの出待ちよろしく、ある意味執拗に、はたから見れば無意味なほどに、待ちわびてくれるところとか、好きで、好きだな、それ以外にも、彼から滲み出る彼の人格とか人徳とか、そんなものないのかもしれないけれど、不定形で言語化不能な、DNAみたいな、そうした諸々と合わせて、好きだった。彼はピクルスみたいだった。私はピクルスも好きだった。私は輪切りにしたピクルスをハンバーガーショップの窓ガラスにぺたぺたと貼り付けるのが好きだった。ケチャップにちょっと汚れたピクルスは、その湿り気によってしばしガラスにピタリぴたりと貼り付いて、時間軸上でも空間上でも周囲の人々や関連する人々にさまざまな暗示を与え続ける。この子はよほどピクルスが嫌いで、ただ食べ残しただけじゃ飽き足らず、ピクルスごときを衆人の元に晒したくなるくらい、憎しみを込めてピクルスが嫌いなのだな、とか。ピクルスを磔刑に処した。いつかツバメに啄ばまれるだろう。店員さんの私をみる目。いや、ピクルスのことは好きなのである、しかし、その好き、を分析すると、ピクルスのことは嫌いだけれども、嫌いなピクルスを窓ガラスにぺたぺた貼り付けて遊ぶことは、無邪気に好きだった。人間のことは大嫌いだけれど、人殺しは好き、そんな殺人鬼も実在するだろう。だけど、今の私は、そんな屈折とは無縁に、彼のことを純粋に好きだった。この世が一次元の音楽だったら、友達、親友、恋人、最愛の人、夫などを五線譜として、その上を飛んだり跳ねたりするおたまじゃくしが、彼であってほしかった。そして、その彼を奏でるのが私の鼻歌。世界が鼻歌でも良いと思えた。彼と目があった。黒目である白目である。黒白。好きだから、こんなにずっと彼のことばかり考えてしまうのだろう。ただ、そんな彼の現況も、ピクルスに似ていた。私は中学生で、背丈はまだ伸びるかもしれなくて、中学校というものに通っていて、いつも生理でたらたらと血を流していたのだけれど、中学校校舎で一番ありきたりな部屋、目を瞑ってても設計図書けそうな、量産された部屋、クラスルームでぼんやりと頬杖をついてたのだけれど、彼は教室の左側の一面の窓ガラスに、ぴたりと貼り付いていた。ピクルス、彼、ピクルス、彼。ピクルスというより、その能動的貼り付き具合は、ヤモリか。その姿は、ヤモリだった。怪人ヤモリ男だった。ギョッとするタイミングを逸したように、私は彼とは日常会話の最中だった。「なにしとるんや」ちょっと強い口調で再度質問してしまった。五度同じ質問を繰り返したなら、それは尋問と言える。でも、口の重い私が尋問に乗り出しちゃ、日が暮れてしまう。日没まで優雅に時を過ごしたい時のみ、尋問に明け暮れよう。明け方始めた質問が、午ごろ詰問に変わり、夕暮れようよう尋問に至る。一つ事にこだわり過ごす、優雅な一日だと思う。彼は困った顔をして、しばし返答に渋っていた。私は、二進も三進もいかないから、埒があかないから、進行中の保健体育の授業に正面を向いた。席はまばらで、女子生徒しかいなかった。生理現象についての話題だった。様々な呼び名で女性器を指し示す女教師の手腕が冴えていた。トライリンガルだった。トライリンガルな渡来人。ふっと思いが日本史へ逸れた。内親王の内反足。私にとって日本史とはそういうものだった。言葉がいっぱい詰まっていた。思いがぼうっと膨らんだ。嵐でもないのに朗らかに風が吹く、春。外は大変な風なのだろう、彼がたなびく気配がした。全身襞になったように、びらびらびらと、揺れ惑う様で、カタカタと窓枠が方々鳴った。彼はなおなお平にへばりついた。ソォファアにこぼした、とろみのあるソースくらい平らかだった、変な顔。私は頬杖を支点に、黒板のある正面と彼のいる窓ガラスへとに、交互に視線を向けた。振り子のような動作で、リズムが生まれ、気持ちが浮いたり沈んだりした。ワクワクのクは苦しみのク、私は小規模にワクワクした。それはいやいやと首振る動作ではなく、彼のことも女教師の授業もどちらも気になるディレンマだった。私にとって、学校の授業を受けることも、彼との関わりも、どちらも日常で、どちらか一方が欠けても、私の自我が壊れてしまうのだった。それは私という列車の両輪で、でも、軌道と軌道の間があまりに広いので、ひどく大股びらきをしなくちゃならないのだった。愛猫が死んじゃった日は、勉強なんか手がつかないのに、愛猫の死を誰彼構わず話したくって、気もそぞろ学校へ通う、そして泣く、そんな感じだ。心ここに在らず、でも、その心を誰かに見せたい、見て。二つの隔たりは、地続きのように思われた。保健体育の座学には補習はないし、彼だって今が旬だ。彼は、どちらかというと人間というよりヤモリに近く、人間と同時にヤモリにも近く、窓ガラスのようなツルツルするものには、よくへばりついている質であったが、わざわざ私の通う中学校にまでやってくるのは珍かだった。というより、初めてだった。何か急用でもあったのかな。「嘘太郎」私は彼の名を呼んだ。返事がない。チャイムがなった。タイムになった。途端に女教師は早口になり、並べてる途中で倒れ始めたドミノのようにせかせかと授業を締めた。余韻を残さず、女教師の口から「ヴァギナ」がららと、男子生徒が引き戸を開けて、教科書がパタンと閉じられる。嘘太郎は私の目以外、誰にも見えないのかもしれない、だから、誰も気にしない。やはり、彼は、人間というより、ヤモリに近く、だから、注意力のない人間には気づかれない。私はぺたぺたと赤い足跡を立てながら彼に近づいた。授業中にも先生が話題にのぼしていたことだけれども、私は今、月のものが澱りていた、今月。体内が生卵になったみたいに、些細なことで重心が揺れる揺れる。足の裏から靴下を染み通り経血が垂れ流れている。止まらない。靴下は、ある種のクッション性を獲得するまでに、ぐっしょりと怒張した男性陰部の海綿体くらいぱんぱんに血を含んでいた。踏みつけ圧をかけるたびに、ぐきゅうぐきゅうと、繊維が擦れ、血を吹き出した。海鼠をぎゅうぎゅう踏みつけたみたい。両足が海鼠になった気分。上靴が血溜まりになって、ちょっと揺するとサイドに溢れた。リノリウムの床には、赤い引っ掻き傷みたいな血の跡で点々と汚れている。生理的現象だから、仕方がない。生殖器が、股座についている人が羨ましい。最もふさわしい位置だから、正常位というらしい。正倉院で正常位。逆に、後背位と言って、背中に生殖器が割れている人もいるそうだ。私はなんの因果か、両足の裏にそれぞれ一つずつ割れている。双子が生みやすいようにだろうか。生みやすいけど踏みやすい。私は赤い足跡を立てながらブルーになった。もっと違う体に生まれたかった。遺体と違体。死んだら生まれ変われるだろうか。死んだら生まれ変われるだろうか、を、心の中で、生まれ変わったら死ねるだろうか、と言い換えたら、輪廻転生の渦の中に、自分を落とし込むことができた、急な法悦に、めまい一つ。目の前にヤモリが一匹。嘘太郎に向かって肩を竦める。女と男であるからに、解りあえないだろうとは、思いつつ。共通理解のための第一線を超えたいものだ、と思った、誰とでも。無理。憂愁を伝染病に仕立てて感染させたい。そのための濃厚接触。からら、と窓を開ける。嘘太郎一人貼り付いている窓だから、音ほど軽快でも軽量でもない。両手を使って、肘から突っぱねるように、上半身で重心移動。経血に濡れた上履きがきゅきゅと音立てる。春風が穏やかに舞い込む。花粉症の人が迷惑そうな顔をする。顔面に生殖器がある人もいて、なおかつ花粉症である場合、少し悲惨なことになる。私は迷惑は極力少ない方がいいと思い、窓枠を乗り越え、その際、濡れて滑り良い上履きが抜けそうになりつつも、爪先を釣り針のように反り上げて堪えて、窓の外に排水溝を兼ねて連なる転落事故防止のための排水溝みたいなU字型のポケットに、着地する。それから、かららと、窓を閉める。透明人間になるためには身のこなしが大切だった。嘘太郎がすぐそばで貼り付いている。春風が気持ちい。私は花粉症ではない。世界中の花粉症の人が一斉にくしゃみをしたから、巻き起こる強風のような春一番が、私の前髪とまつ毛と眉毛とをもみくちゃにする。風を感じるために毛髪とは生えているのかもしれない。気持ちいい。かきわけてかきわけて私の生え際を撫でる春風。嘘太郎のことなど少し忘れてしまう。いつものように感動して、春を楽しむ。嘘太郎も、気持ちよさそうに、風にびらびらと揺れて、ごろごろと喉鳴らす猫の表情で、ヤモリやってる。まとめると、『わからないな、ほとほと。皆目、見当がつかないな。だからといって、困るわけではないけれど。なにしとるん。なにしとるんや。嘘太郎』というのがここまでの、会話だった。だいぶ喋ったな。もう一生喋らんでもええかな。そしたら、『嘘太郎』が遺言になってまう。それもそれでええかな。残りの人生六十年辞世の句の余韻を楽しむ無口。私はしばし、数日間何も喋らない日々が続くのだけれども、そういう時は、最後に発した台詞が、ずっと私の気分を支配する、そんな気がしている、次回予告を楽しみに一週間過ごすみたいな、アニメの話、ドラマは見ない。嘘太郎も嘘太郎で無口なものだから、その特異な見た目以外、彼には個性がないかのように思われてしまう。私の背景で、数学の授業が始まる。私の眼下で体育の授業が始まる。嘘太郎は、普段何をしているのだろうか。私より、年上には見える。でも、せいぜい、大学生って感じだ。でも、この街に、ヤモリを入学させる大学なんかないだろうから、嘘太郎の肩書きはいつだって謎だ。繁華街にあるオフィルビルによく貼り付いてて、雲をつかむように右手だけビル壁面から遊離させた姿勢で、よくバス停で待ちぼうけている私に手を振ってくれる。十二、三階建ての、ちょっと背の高いビルで、怖くないのかな、って思う。高所恐怖症のヤモリがいたなら、トカゲかイモリになれば良いと思う。カナヅチのイモリはトカゲかヤモリになれば良いと思う。現職に不満なヤモリイモリトカゲが居並ぶ、転職支援NPO、そんなものどこかにあるのだろか、探してみたい、進路指導で担任の先生に相談しようかな、けど、その時も私は無口だから、ただ『イモリ、ヤモリ、トカゲ、NPO』とだけ教師に伝えるだろう。今更だけれども、嘘太郎の肉体はちょっと変わっていて、言いにくいのだけれども、陰嚢とペニスの代わりに、人間大のヤモリの掌が股間に生えていた。社会の窓のチャックとチャックの間から、にゅっと手のひらが生えていた。それがぺたりと窓ガラスに貼り付いているんだ。灰褐色のヤモリの片手。ぶつぶつの小さな吸盤たち。グミみたい。それは右手。その一点によって窓ガラスに吸着している。こわくないのかな、って思う。そんな一点張りの命綱で、そんな不完全なヤモリの片手で。そのヤモリの右手を、尺取り虫みたいにくねらせて、前後左右這い回るのだ。くるくるくるくる独楽みたいに回っていることもある。それはヤモリにしておくには惜しい指さばきで、手品師かピアニストにでもなればよいのにと思ったが、股間に生えた手で手品を披露したりピアノを演奏したりするわけにもいかないだろう。ちなみに、嘘太郎には、陰毛はなかった。手だけ生えていた。手と毛はちょっとだけ字が似ているけれど、例えばガラスに書いた手は、ガラス越しだと毛に見えたりするのかもしれないけれど、窓ガラスの向こう側で執り行われる数学の授業と窓ガラスのこちら側で過ごされる私と嘘太郎の時間とでは、手と毛とぐらい決定的に何か違いがあるみたいだった。当然私たちが毛で、向こうが手だった。何一つ新しいことを学ばない無為な時間。そういえば、カタカナのテとケも少しだけ似ている、でも、て、と、け、は似ていない。ただよほど無理を思えば、て、は小文字のhに、けは、大文字のHに似ていなくもない。「てけてけてけてけてけ」知らぬ間に、私は呟いており、そのつぶやきに合わせて、一拍に十五度ずつ、嘘太郎が回転していた。ticktackを和訳するとてけてけになる。だからか、時計の針も回転しており、仕方ないから夕暮れになる。夕暮れになるのはいつだって、仕方ないからで、私が仕方ないなあ、と思った時、だいたい日は没しかけていて、日が沈み始めると私は仕方ないなあ、と思う。夜になると、まっくらだな、って思う。いつだったか、夜が怖くて、地球の自転と同じだけの速さで歩いて、太陽を追いかけようとしたことがあるけれど、歩いて走って自転車に乗って電車を使ってやっぱり歩いてとても疲れて、真夜中に一人取り残されたことがあって、仕方ないなあ、となった。ものすごい成長速度のひまわりがあって、いつもいつも太陽に向かって伸びちゃって、ぐんぐんぐんぐんすごい勢いで伸びちゃって、地球を一周して二周して三周して、赤道ならぬ緑道ができて、そんなことはないか。あたりはもう、まっくらだった。気がつくと私は家の中にいた。家の中の部屋の中の布団の中にいた。瞼を閉じると、瞼の中にいることになった。目を開けていると、目玉は二つって感じがするけれど、目を閉じると目玉は一つって感じがする。不思議だ。もっと言えば、目を閉じてじっとしていると、頭から手足が生えていて、胴体なんかない気がしてくる。不気味だ。気がつくと私は、家の中にいて、部屋の中にいて、布団の中にいて、瞼の中にいて、夢の中にいた。マトリョーシカの、一番奥の奥の、落花生の殻みたいなやつの中で、体育座りをしてうつつを抜かしているみたいだった。今頃、学校で別れた嘘太郎は今頃、どこでどうしているだろうか。真夜中だし、嘘太郎も夢の中にいるだろうか。同じ夢の中にいるなら、会えそうなものだが、見渡しても見当たらないってことを考ふるに、夢の中とは、たとえば東京都内くらい広々なのかもしれない。そんなに領野が大きかったら、同じ夢の中でも出会えないわけだ。人混みはそんなないけれど、登場人物少なめだけれど、果たして夢ってどのくらい大きいものなのだろう、ふと疑問に思って、そもそも暇だし、夢の中ってこれと言ってしなきゃならないこともないし、そもそも夢見たくて夢見ているわけじゃないし、夜、疲れたから身横たえてたら、夢の方から勝手に私を取り込んでかといって虜になる程夢が魅力的なわけじゃないし、夢の中で無為に過ごしていた私は、夢の世界の測量を始めることにした。夢の世界の地図を作ることにした。夢の世界で伊能忠敬になることにした。それを人は夢日記というのかもしれないけれど。目覚めたら方眼紙に、広大な夢の世界をコンパクトに描きこんで、一般に頒布しても良い。夢の世界の座標軸さえわかれば、示し合わせて待ち合わせもできる。インターネットより便利だろう。といっても、測量のための専門知識も、技能も、道具一式もないわけだから、ひとまずどんどんなるたけ一直線に歩いて、歩数を数えることにした。ずっとずっとうつむいて、ただただ歩いているだけの私を、夢の住人たちは新奇なものみるように眺めている。五百歩くらいこっちからあっちへ歩いていると、数えるのも歩き続けるのもじれたくなって、地団駄を踏むビートで歩を進めていると、自然次第肥大、股下が長く長く伸びていった。だって、夢だった。願望が、実現するのだった。もっと足が長かったなら、もっと早く進めるのにな。透明なエレベーターに乗って急上昇するみたいな視野で、細く細く細く長く、伸びゆく二の足と眼下に広がる夢世界を見下ろしていた。手放すとどこまでも浮上して心細くなる風船のような靴下だった。一歩がめちゃくちゃでかくなる。一歩ごとに、地中深くに根を張った雑草を毛根ごと引っこ抜くような、快感が伴う。足を振り上げる、というより、深く深く深く深く沈下していた細長きものを途中ちぎれないように、慎重に引き上げ、引っこ抜き、天日干しにするような快感だった。よし、これで歩数と時間の節約ができるけれど、代わり一歩一歩がめちゃくちゃゆさゆさする。蛇口につないだホースに思い切り水を流入させた時のようにのたくる足だった。釣竿のようにびゅんびゅんしなった、足が、リールのように吹っ飛びそうになった、頭が。風がびゅうびゅうほおをかきむしる。空を飛ぶのも、足の長さが東京タワーと同じだけになるのも、実質は同じなのだな、と理解する。一歩一歩が反動でヘッドバンキング、首がもげないかと心配である。脳みそは少しくらい溢れたかもしれない。足だけ伸びて上半身が小粒のままだからこんなバランスが悪いのだ。紐のように長く、干物のように細り切った足は、まるでぴぃんと張ったギターの弦のように、一っぽ一っぽの振動で、びぃんじぃんと空気を震わせている。膝が超震える。この世界が一個の弦楽器の空洞で私の足が二本の鉄弦の役割をして、超重低音の響きが世界に満ちて、夢の世界の住人の皆々が鳥肌だって、鳥になって、皆一斉に飛び立った。手品師のシルクハットの中みたいだ。測量のことは少しだけどうでもよくなって、歩いたり、飛んだり跳ねたり、走ったりした。鍵盤の上を走るみたいに音色がなった。せっかくここまで測量したというのに、私の足跡で、地形がどうにかなっていた。朝日が今日も舞い戻って、私の頬を差す頃、私は頭の上半分だけ目覚めはじめて、まだ、下半身は夢の中におり、夢と現の半身浴、といった風情なのだけれども、ああ、これから目覚めるのか、と思うと、なんだか、むなしくなってもったいなくなって、立つ鳥跡を濁すの方式で、首から上だけ目覚めた段階で、目をはしばしと瞬きながらも、未だ、夢の世界に残った首から下、というか、細長き二の足で、揉みくちゃに、足と足とが紙縒れるくらい揉みくちゃに、踏みしだいた。その際、地と天とをつなぐ両足は、稲妻か竜巻のごとき様相を呈した、のだろう、と思う。目覚めが、胸、臍、腰と降下する頃には、夢の中の両足は、針金でできた毛糸玉のように、鋭角的に折れ曲がりながら、こんぐらかっていた。ひどくいやな予感にかられながら、目覚めが、腰、尻、腿、ふくらはぎ、足裏、へと波及するのを待っていると、案の定、両足が攣っていた。ひどくぴくぴく痙攣していた。寝違えたんだ。酷い夢のせいで、寝違えたんだ。寝違えたんだ。痛い。痛い。それはさておき、夢の中で、よほどばたばた両足をはためかせていたためだろう、夢の世界ですっぽり靴下が抜けて痛たようで、いる、の過去形である、いた、が、すべて痛たに変換されるような痛みの中で、目覚めた時には素足だった。ああ、やれやれ、また今夜も夢の世界へ忘れ物をしてしまった。物忘れは損である。靴下だって数百円するのに。痛い。痛い。いつもは、夢の記憶を忘れてしまう。つまり、記憶の一部を忘れ物してしまう。夢の世界は私の記憶でごった返してしまう。いっさい手をつけられず最終日を迎えた夏休みの宿題みたいに、うずたかく、記憶だけで五重の塔ができそうなくらい、もう思い返されることもない私の記憶が層になって、夢の世界を覆っている。夢の世界の地層は私の記憶。痛い。痛い。生理は今夜も終わっておらず、シーツの上を何重にも紅く染めていた。私の足元は、血にまみれており、波紋のようにシーツがしわくちゃだった。痛い。痛い。痛い。痛みが後数分続いて、苦痛が苦い珈琲の役割を果たしたなら、照射する朝日を覆うカーテンを目一杯まで押し広げて、窓を開け、窓から身を乗り出し、窓枠を越えて、散歩に出かけよう。窓から家出をすると、その気分は猫になれる。玄関で靴を履いていると、さもさも人間だな、って感じがする。靴べらなど使うと、なおさらだ。そもそも人間だけれど。もそもそ人間。もぞもぞ。私は芋虫のようにベッドの上でうつ伏せていた。階段の前で立ち尽くしていると、小人の気分になれる。締め切ったガラスの前で行ったり来たりしていると、水槽の中の熱帯魚の気分になれる。散歩に出かけるならば、猫の気分に粧ひたかった。痛い。痛い。疼痛疼痛、ツーツー、トントン。手負いの猫。あわれな猫。早く四本足で立ち上がりたいのに、ベッドやシーツが絡みついてうまくいかない。泥の中にいるみたい。声が漏れる。「ああ」足の痛みを解消しようと、大腿部から下切り離したなら、もっと痛い。そういうのはよくない。痛いだろうなあ。痛いだろうなあ、の、あ、を少し伸ばすと、ああ、それが私の声の正体だった。詠嘆。どれ程痛くたって、時の流れに身を任せるほかなくって、漬物だって、はじめ漬物石に押しつぶされて、痛々しいけれど、しまいには解放されるのだ、食べられるけど、切り刻まれる食材、空腹を呼ぶ。唸る私の腹腔が朝飯時。お腹減った。下半身だけ操り人形になって、ひくひくと見えない糸に釣り上げられような痛みだった。上半身は糸が切れており、ぱったりと倒れている。いい加減にしてほしい。お腹減った。やっぱ眠い。夢の中へデリバリー頼みたい。それは植物人間。私の心の臓の鼓動が、ののののの、痛みによって分散したり集中したりした。太陽に、乱反射する宝石をかざして、振り回すみたいだった。私の心臓の鼓動が、脈拍が、琥珀となってきらきらと輝く朝だった。すり抜けるのが得意なのかカーテンの隙間から細く長く差し込む朝日は、そのか細さと境界の明瞭さで、まるで白い影のような印象を与える。印象と印度象は似ているようで似ていない。印象は軽快だが、印度象は鈍重だ。印象は思いだが、印度像は重い。印象は軽く、印度象はカルカッタとかにいる、たぶん。くどい。白い影というのは、もう幽霊と同義で、あともう少しで手をつなげる。伸びをする。私は起き上がる。起き上がったって、横たわってたって、どっちみち痛いのだから、起き上がる。起き上がったら、とても痛みが響いたので、つっぷする。起き上がったり倒れたり起き上がったり倒れたり、誰も見ていない。倒れる、という動作にはエロスが内包されるが、誰も見ていない。まるで見えない波にさらわれてたゆたっているように、起き上がる倒れるという、己の動作にもみくちゃにされる。シーツをただ、事細かにしわくちゃにするために、動いているみたいだ。関節が連動せず、例えば、手首の返しだけで、身じろごうと蠢く。巨大な手のひらが私を覆っていて、草団子のようにこねくり回されているみたいだ。テレビゲームのコントローラーにアナログスティックとして埋め込まれて、ぐりぐりやられているみたいだ。蠢く。動く。蠢く。動く。動くをモザイク状にしたのが蠢くで、そのモザイク状のざわめきを、肩肘掌、腿脛足首、と漣立たせるのが動くだった。起き上がる、起き上がりかける、離陸する、着陸する、倒れる、倒れたままひくひくする、というリズムがすこしおかしくて、自傷行為か、舞台のリハーサルみたいに、反復する。反復すれば反復するほど反復しやすくなって、滑らかに、ベッドが軋む。ベッドのシーツは生クリームみたいに襞。倒れたままひくひくする、を、少し過剰に演出して、ひく、ひく、ひっくり返る。なぜ蛙は、あんなにジャンプ力があるのに、バク宙やバク転をしないのだろうか。飛蝗もそう。身体能力の低い私は、いつもそれを宝の持ち腐れとして、羨んでいる。蛙や飛蝗が転校してきたら、私のスクールカーストは、彼らの下にひれ伏してしまう。運動神経の悪い私は虫けら以下だ。彼らは虫けらだ。ばね仕掛けでひっくり返ったあと、天井を眺めながらそんなことを思う。私のひっくり返り方はあまりにショボかった。開いていた本の頁が、風に吹かれて、ぱたんとめくれるような、ただそれだけの動作だった。何も印象的でない、右から左へ受け渡すような、無意味で無価値な動作だった。私がこの世から消滅する瞬間も、これと似たしょうもない動作を発作的に一つして、それで終わってゆくのだろう。背中がかゆいなあと思って、かゆみへ手を伸ばそうとしたら、なかなか手が伸びてゆかなくて、なんだかまるでそれが長い旅のようで、その途中で力尽きて、終わったりするんだろう。気がつくと、痛みは跡形もなく消えていて、力なく横たわっているだけだった。こんな短時間で、傷んんだ肉体が修復した、とは思えないから、痛みを感じる私の神経が、いい加減すり減って、眠りに落ちたのだろうと思う。その眠りを妨げないように、そろりそろりと、慎重な動作で、ベッドを抜け出す。抜け出した。足音をごまかすように、時計の針の、ticktack、に合わせて、歩行した。秒速で歩いていた。秒の速度で歩いていた。くるり、と時計回りに一周、反時計回りに一周、準備運動みたいに右往左往して、時間の無意味と判然とした。毛長いカーペットに、乾ききらない経血を擦り付けるすり足で、クローゼットの前で目的を思い出して、これから猫になるのだった、猫の気分を身に纏うのだった、パジャマのままでも、猫的ではあるけれど、より安っぽい格好に、肌寒く、けれど、肌の露出少なめの、いい塩梅の毛並みを、衣服で表現したかった。ぶかぶかのパーカで肉体に丸みをつけるという浅知恵くらいなもので、それは、私が猫になる、というよりも、私の気分が猫になるための工夫だった。私の気持ちは、幽霊のように、変幻自在、無味無臭だけれど、確かに形取られた、私の気持ちだった。パジャマにパーカという不格好さはさておき、春の日差しと相まって、猫の毛皮に包まれたかのようにぬくぬくとする。ぶかぶかのパーカはふかふかのパーカでさっきよりなお微睡みたくなる。カーテンをかいくぐり、窓枠に取りすがり、舌足らずに、にゃあ、と鳴く。その一声で、爪が伸びれば良いのだけれど、それはそれ、深爪のまま。あくびと見まごう、緩慢ななき声であったけれど、というより、猫ってあくびするときも鳴くけれど、眠いのではなく、猫なのだ、と思考の弱さを下等動物になすりつけて、随分と猫当人らには嫌われそうな偏見で猫を演じる。深爪のせいか、随分とつるつると滑るのだけれど、背丈を利用して、窓枠から身を乗り出す。眼下の芝生の上にはスニーカーが一足用意してあり、それはいつものことで、というのも、今日は水曜日だから。水曜日はいつも、窓から家を逃れ、猫になるから。というより、私は、学校へ通わぬ日は、割合猫になりたがる性分だから。今日は水曜日、昨日は火曜日、学校に通うのは火曜日だけと決めており、だって、通う日は火曜日だから、という多分私以外誰も納得しないだろうな、でも、これも理屈なのだ、という私の信念で、信念は理屈じゃないか、ずっとそうしてきたから、今日まで、なので、昨日は、帰宅するとそそくさと明日、つまり今日から、猫になる下準備をしていたから。猫になるためには、玄関からではなく、窓枠から屋外へ、身軽く飛び出さなくちゃならない。猫なのだから。かといって素足でアスファルトの上をタタタ走れるほど、私はそんな野生児じゃない。足裏の柔肌を破かないよう、これだけは履いて行きなさい、とまだ人間だった昨日の私が、軒先に機先を制して用意したスニーカーへ、窓枠に馬乗りになった私、半分猫になりかけた私が、すとんと、そこへ着地する。うん、今、猫になりきった。猫とは、そのしなやかさからもわかるように、種族というより動作である。飛んだり跳ねたり転げ回ったりといった猫的動作によって猫は猫たり得るのだと、思われる。日本体育大学は、日本ねこねこ大学と改称すればいいと思う。日本大学体育学科は日本大学ねこねこ学科。とはいえ、泥団子のように、日向で丸まった、生ける屍と化した猫も、確かに、あれは、猫だけれども。その辺が、難しいところだけれど、メリハリ、ってやつなのだろ。あとは鳴き声。人間の語を発しちゃいけない、せいぜい、口いっぱい、団栗を詰め込んだ栗鼠のように、無口になれば良い、いつもの私を徹底的に。その上で、時折、猫のように鳴けばいい。素足にスニーカー、というのは、切なくなるほどささやかな反社会的行為だが、自然への回帰でもあった。スニーカーは少しずつ、私の色に染まっていった。私は中学二年生だったが、だいたいにおいて猫でもあった。シャンプーの匂いがする猫だった。お腹を空かした猫だった。夜が明けたばかりだったから、空は乾き切らない絵の具のように潤んで見えた。私は猫だけど二足歩行で歩くから、猫にしては珍しい猫なのかもしれない。調子に乗って片足立てば、世界に一匹だけの猫かもしれない、猫になった私は全能感に溢れていて、些細なことで、厳密さとか忘れちゃって、唯一無二の存在になれる。さらに調子付いで、ヨガのポーズで、にゃあにゃあと鳴こうか。主題を見失って、本末転倒、という気がした。私は猫で、さも猫らしい猫で、猫の目でこの街を眺めて、猫の足でこの街を歩いて、そこに趣旨などないけれど、でも。街には私以外猫らしい姿は見えず、皆手袋とかマスクとかしていた。花粉症の季節だった。通勤通学にはやや早いから、みんなジョギングとかしていた。だから皆、すごい勢いで私に近づいてきたり、私から遠ざかって行ったりするものの、住宅街なのに、ほとんど人には出会わないで、たまに散歩中の犬と出くわすと、私は、じっとその犬を見つめるのだった。猫と犬といえばにらめっこ。負けたくない絶対に。けれど私のはひとり遊びみたいだ。私は猫なのに。あなたは犬のくせに。犬は私を見てくれない。どうしてこの子は私に向かって吠えたり噛み付こうとしたり、威嚇しないのだろう。そしたら、私だってふしゃあ、と湯気吐くように返礼して、塀の向こう側へとよじ登って、ああ、怖かったと、ため息一つつけるのだけれど。その犬は、猫とともに育てられたのか、私という異性に、一切動じない。この犬もそうだ。不感症。あの犬もそうだ。気不味い話題を提供されたみたいにそっぽを向いて、電信柱を匂っている。頰肉は垂れ下がったまま。これ見よがしに「にゃあ」と鳴いた。私は私でここにいるよ。少しだけ犬をおちょくり、挑発してみたかった。気がつけば犬も飼い主も遠ざかっており、私は一人マンホールの上に立っている。そこがすごろくの升目みたいだ。まだ、ゴールじゃない。彼らの影が、まだ私の足元に残っており、ふん、と苛立ちまぎれに影へ踵をねじ込んだ、藁人形に五寸釘を打ち込む要領で。意味のない復讐だった。復讐はいつだって意味がない。私が、執拗に踏みつけたから、というわけでもないだろうけれど、彼らの影はしゅるしゅると、私の足元からしぼんで消えた。穴の空いたポケットみたいだが、私の足には穴がある。止まっていた経血が少しだけ滲んできて、少しだけ後悔した。痛みはないけれど、不愉快さが額縁のように縁取られ、印象付けられる。というより、不愉快さが印章みたいに私にぶら下がっている。犬にシカトされるようでは、猫としておしまいだ。けれど、私はいつも、おしまいなのだった。おしまいの猫だった。やっぱり、アレか。尻尾か。尻尾が生えていないからか。あるいは、耳か、耳が生えていないからか。ヒゲかも。笑うしかなかった。「にやにや」猫は泣きながら笑うことができる。「にゃーにやにやにゃー」それだけのことだけれど。歩いていると風景が変わる。時間も私の歩く速度で流れていく、夕暮れだった、時間の流れ行く先はいつだって夕暮れ、夜になれば時は止まる、さっきまで、朝ぼらけで、家々の内側から始終あくびが聞こえていたのに、それが証拠というように、橙色の明かりに照射された。ざわざわざわ、と樹々がざわめいている。ちょうどお見合いのように、二本の大樹が向かい合って、と思いつつ、どちらが正面かなどわからないけれど、だから、尻相撲かもしれないけれど、その堂々とした体格からは、私は力士を連想して、揺らめいている様から、大相撲の土俵入りから四股踏みが見えてて、これから何か始まりそうで、けど始まらない、樹だもの。けだもの。まるで、この辺り一帯の何かと何かを代表するようにメンチ切り合う桜と銀杏だった。ざわめき、とは、動静や陰影というより、ただ、音で、何千何万という葉っぱが、風に後押しされ、メビウス型にドミノ倒し、こすれ合っていると、なぜだか、私まで、私の心とか私の葉っぱとかまで、私には葉っぱが生えている、いやそれはほっぺ、葉っぱと同じ数だけほっぺが分裂して、こすれ合って、泡立つんじゃないか、と思えた、思えなくもなかった。目を閉じるとふわああ、とするところを鑑みるに、私の体まで、蒲公英の綿毛のように、一陣の風と共に分解してしまいそうだった。ただ、重力があるために、積み木の分解は、積み木の倒壊にしか、ならないのだった。私はすとんと収まるように、木陰に座り込んでいて、背後から抱きしめられた時の気持ちで、どちらの場合にもそうであるように脱力していた。安心を醸し出す相手に抱きしめられた場合、安心安全の法悦だし、不安を掻き立てられる相手に抱きしめられた場合、非力だから私、どうしようもない、虚脱と脱力は違う、ってそれだけの話かもしれないけれど、自己放棄って点ではおんなじか、抱きしめられると動物、というより、植物に近くなる、花束。そんなだから、もう、正直、猫とかどうでもよくなって飽きていて、そのくせ思い返したように「にゃあ」と鳴くけれど、死にかけの蝉の生存確認の鳴き声みたい、本物の猫だって、自分が猫であることとかどうでもよくなって、道ゆく人に懐いたり、風と遊んだり、鳥と話したり、する、じゃないか。私の手のひらには、一匹のヤモリが捕獲されている、さすが猫だ、けど、そのヤモリは嘘太郎ではない。手のひらサイズの嘘太郎がいたら、愛らしいけれど、後生、不便だ。桜の樹陰を這いずり回っていたから、思わず、嘘太郎かと思って、捕まえたのだけれども、等身大の人間大ではなくって、普通のヤモリで、もしかしたら、嘘太郎の親戚かもしれないけれど、親戚より親類というべき程遠い血縁かもしれないけれど、友達の友達が他人であるように、嘘太郎の親類も私にとってはただの爬虫類だった。となると、嘘太郎と友達でもなんでもない人たちにとっては、嘘太郎当人も、ただの爬虫類なのか。少し寂しい。街には嘘太郎の気分が漂っており、こうして、彼と離れ離れでも、彼に繋がる何かを、か細く感じることができた。遠い隣人が味わう煙草の煙を、深呼吸で味わうみたいだった。誰かの酒臭い息に、酔っ払うみたいな感じだ。それを気配とか雰囲気というのかもしれない。未成年の背伸び。彼がヤモリで良かったと思えた。仮に嘘太郎がどこからどう見ても人間で、ヤモリ的要素がゼロだったとしたら、私は道ゆく人間一人ひとりから、嘘太郎の片鱗を感じて、嘘太郎と見紛うて、彼らに掴みかかったかもしれない。私の両手の隙間から逃げ出そうとヤモリがもがいている。ヤモリが、ヤモリも、ヤモリが、ヤモリも、もがもがもがもが、もがいている。舐められる噛みつかれる蹴爪ずいている。人間相手にこんなことをしたら、大変な乱闘になるから、省エネだな、と思う。ヤモリにとって私の手のひらとは、人間にとって、サハラ砂漠の真ん中にぽつん、なのかな、と思うと壮大で、残っている方の手のひらを眺める、残ってる方の手のひらが、残ってるfourの手のひらなら、私は千手観音に進化する途中のポケモン。カイリキーはいつ千手観音になるのだろうか。カビゴンは大仏。頭脳線が地平線のように見える。感情線は環状線になって、ぐるぐる回っている。嘘太郎は確かにヤモリだから、天井を走るヤモリや、草葉の陰のトカゲ、小川を泳ぐイモリなどを見かけても、嘘太郎を連想する。というより、連想の下地はすでに出来上がっていて、何か目に見えるきらめきを感じたいから、何かにつけて、ヤモリらしきシルエットを目で追いかけるのだろう。かといって、直接に嘘太郎に会いに行こうとしないところが、私の怠慢だ。出会ってしまってはダメな気がする。ふと見た月の輪郭から、彼を連想できる方が楽しい。誰の声でもない彼の声で耳鳴りを一つデザインしたい。耳飾りの代わりに耳鳴りを、誰かの発音を非人間的に歪めることで、ゆわん、と。ゆ、わー、ん、と。ゆ、って弓の、ゆ、みたいだな、と思うけれど、み、っも、下方に構える弓矢みたいだな。論理的な推論のみで、家からここまでの足踏みの数と、彼の心臓の鼓動の数をつなぎ合わせたい、コインの裏と表にしたい。とはいえ実際に会うのも悪くはない。アイス珈琲の中の氷は、珈琲を冷やすことが存在意義だけれども、終いに飲み干されかけた珈琲の中で、混じり合って、珈琲とミルクとは別の、透明と黒で墨絵みたいなグラデーションを作る頃、舌先をぴちゃりと直接に冷やすのも、悪くない、氷から溶けでる水気だけ、細長きストローですすりあげて、舌先の珈琲の濃度に応急処置を施すのも、嫌いじゃない手間暇で、すこしでも長く、珈琲を飲んでいる気分を長引かせる。好きでも嫌いでも美味しくも不味くもないのだけれど、私は、溶けかけの溶け切ろうとするアイス珈琲の氷片を愛でてしまう。そんな感じに嘘太郎の実際のことを思う。どんな感じだか、わからなくなる。珈琲の中の氷ってコーヒーを楽しむための間接照明だけれども、それ自体に愛らしさがあるって話だったか。嘘太郎は私が世界を楽しむための緩衝材だけれども、それ自体に、愛着がある、ぬいぐるみ、みたいだ。想像上のアイス珈琲の方が、嘘太郎より、味覚を刺激するから、嘘太郎のことを半分忘れて、ぼうとするけれど。少なくとも、嘘太郎には味はないから。けど、匂いはあるし、温かみはある。アイス珈琲の溶けかけの氷、そんな感じが嘘太郎だと思う。嘘太郎は、常に溶けかかっている、気がする。雑居ビルのガラス面にへばりついて、はためいている嘘太郎は、いつもどこか、溶けかかっている気がする。酸性雨のせいだろうか。嘘太郎を溶かす何かがあるわけじゃなく、けど、それは消尽でも消滅でもない気がして、輪郭のぼやけ、こぼれ、この街全体が溶液で、嘘太郎の何か、嘘太郎の生命を損なわない程度の何かが、この街へ溶け出して、例えば、この私の突き出した舌に、張り出した眼球に、味覚や疼きを与える気がする。一方、私だって溶けたいけれど、私だって溶け出したいけれど、かわいそうだから、掴んでいたヤモリが逃げ出した、満員電車のトイレに立てこもる先客に、怒りのノックをかました後、けど、こんなことで怒り狂うのも狭量だ、と思い直し、握りしめた拳、解くような感じだ、ふわあ、と呼気を放つとそのふわあ、は、どこまでも上昇して、その上昇に引きつられるように、私の一部も、上昇して、ひきちきれて、拡散するような気がした。私が凧だったら、絶対、子供泣かす。子供なくす。家出する。鎖に繋がれた犬と、放し飼いの猫の中間形態が糸に繋がれた凧、だろうけれど、そこには、脈絡のなさというミッシングリンクがある。私が糸に繋がれた凧なら、嘘太郎は雑居ビルにへばりつくイモリか。ミッシングリンクとミシシッピリバーはなんとなく似ていて、どちらも隔たりって意味解釈ができる点でも合致している。私は先ほどからすごくどうでもいいことを考えているけれど、それは飛び散る桜の花びらが眩暈だからか。飛び散らない銀杏の葉っぱのざわめきが子守唄だからか。桜の花びらは人を酔っ払わせる効能があるから。きっと。凄腕のサーファーならば、乗りこなせそうな、すごい勢いの花吹雪。犬の毛や猫の毛も桜の花弁で、身震い一つでこうなったら、犬猫アレルギーがすごそう。今、ここに、嘘太郎が、いたら、あれやこれや、朴訥に甲骨文字で話せるのに、残念至極だ。けど、まあ、いま思ってることをそっくりそのまま、コピペして、今度嘘太郎にあったときに話そう。何日かかるかわからないけれど、フランス料理みたいに一品ずつ。埋もれる。埋もれる。埋もれる。埋もれる。桜の花びらは容赦がなく、重力は偉大なので、埋もれる。重さはない。軽い。しっとりとした質感が、重さとは違う情報で私の私の意識を埋める。桜色の点描画になった気分だ。点描画の元祖は春の桜で、だから、桜並木の日本にゴッホは憧れた。羽毛ぶとんにくるまっていると、いつも、手羽先になった気分を味わい、味わい深い夢をみるけれど、これは、今は、どんな気分。それから、幾星霜が過ぎた。幾人もの清掃員が、桜の花びらも、刈り取られた夏草も、秋の落ち葉も、あと積雪なんかも清掃した。私は地元の公立高校に入学し、嘘太郎は地元の国立ヤモリ大学校に入学した。なんだあるじゃないか、ヤモリ大学。埋もれる。埋もれる。埋もれる。私は今でも桜の花びらに埋もれるのが好きで、埋もれては目覚め、埋もれては目覚めを繰り返していた。まぶたのように薄い花びらの中、花びらのように薄いまぶたをぱつりぱつり、させるのだった。ひとえふたえひとえふたえ。けれど、ここは寝床じゃなくって、嘘太郎との待ち合わせまで、日の縮尺を測っているだけだった。透明に起き上がる。立ち上がってぷるぷる震えても、まぶたや額や耳うらに張り付いた花びらは取れなくってご愛嬌。泥だらけで遊んでいた子は泥臭い。私の手のひらは、ヤモリの体温の匂いがする。変温動物のヤモリをぎゅっと握りしめていたってことは、あの時、私の体温が彼のヤモリに移ったってわけだ。それがなんだ、というわけでもないけれど、それがなんだか、というわけでもあって、私の体温を身に纏った小動物が、木を這いずり、蛾をぱくつき、性交をし、卵を孕むか卵を孕ませるかして、それからなんだかんだあって、線香の火のようにふしゅんと消える。着火したネズミ花火の行く末を俯瞰するような心持だった。あの時、この場で、ヤモリ逃して、何年にもなるけれど。堪能した後は余韻が残り、余韻ってなんだか、酩酊に似てて、一歩二歩とほとほと歩を進めるのだけれど、首からぶら下げた写真機が邪魔をして、つねに胸元掴まれている気分で、胸閊えて、埋め合わせるみたいに背伸びしたり、ググっと身をねじったりする。経血を踏みしめているのは相変わらずで、ホワイトパズルを連想させる、とはいえその連想の度合いは、ひび割れる氷床ほどではない、雲から雹が降る様は、まさに、上空をたゆたうホワイトパズルが、雷の一撃で、ぽろぽろに砕かれてぽろぽろという感じで、敷き詰められた薄桃色の桜の花びらの上を、革靴が吸いきれなかった余分の血が、遅れてやってくるレッドカーペットみたいで赤く濡らす。一歩一歩が朴訥で、擦り付けるような痕跡で、そっと踏み下ろしても、痕跡は書き殴ったような乱暴さで、一歩ごとに出来不出来を賞翫しながら、ここまできた。いつまでも、両足から経血を垂れ流していると、両足が毛筆になったって気分で、一歩一歩に書道家の気分で路上パフォーマンスに勤しめる。けど、一風とともに、キュビズムって感じに、一定の意味なしていた私の足跡群が、攪拌される、血まみれの桜の花びら。足跡って不可思議なもので、二本の足から多量に生産される。ふっと振り返り、視界いっぱいに足跡を眺めやると、まるで私が、複数の私たちであるかのように錯覚する。花びらの圏外に立つ。追いかけてくる花びらはいない。嘘太郎はここには来ない。待ち合わせているのは別の場所で、私は一日暇だから、一日暇だと一日中をかけて、下手をすると三日前くらいからずっと、嘘太郎のこと待っているようなもので、仕方ないから煙草は百本吸っちゃうし、一人で待つのは寂しいから、駅のホームで電車待つ人の傍らで、乗りもしない電車待ったり、開演前の映画館の前でうろうろしたり、ポケットから両手を出したり入れたり、写真機に向かって喋りかけたりしていた。最終的に、桜の木の股座に横たわって、桜の花びらに埋もれる道を選んだのだけれど、時計は普段着用しないのだけれど、なんだかそろそろいい時間な気がした。嘘太郎待ってるかな。私が待ちわびた万分の一秒くらい待ちぼうけを食らわせたかった。思わず冬眠しちゃうくらい待っていればよかった。待ち合わせ場所は駅前だった。二人で電車に乗るのだった。楽しみだった。嘘太郎は果たして、並んで座席に座ってくれるだろうか。それとも、天井に貼り付いているだろうか。だとしたら、吊革がわりに、嘘太郎のたらりとぶら下がる手をつかんでいよう。ゆらゆら揺れる電車の中で、嘘太郎をつかんでいよう。のんびりと歩き続ける。歩けど桜である。季節だから。何かの安全地帯のように、ところどころに桜の樹々が植わっていて、何かの合図のように、そろいもそろって散り際だった。そろいそろいと歩く。そろそろと歩く。のろい。緩慢にビデオ再生される、飾り独楽のように、一歩ごとに角度を変えて、く、る、り、と振り返ると、背中が安全だ、なんだか、背中が安心な背もたれに包まれているような気がする、さっきまで視界に含まれていた風景が、私の頭の中で、私の背中の肉を包み込んで、そこには情報があって、知覚があって、なんだか、いつ無重力になっても、安心で安全な気がするから、く、るり、くる、り、く、るり、と旋回していける。桜の花びらは、ひらひらで、私の全身はくるり、くるり。桜の花びらは、雪よりも、溶けるのが遅い。溶け出す氷床や冠雪の代わりに、桜の花びらで、世界を満たしては、と国連で提議中。桜の花びらは、一日二日ならば、溶け出さずに、一面の薄桃で、地上を覆っていられる。私の体温が伝わったようで、私が踏みしめた箇所だけ、敷き詰められた桜の花びらが、黒く滲んでいく。ふっと気がつくと、スポットライトから身をはみ出したみたいに、桜の花びらの圏内から、また踏み出していた。主役でなくなった気分だ。平凡な路上へ戻る。どこにでも民家があり、そんなつまらないこともないだろうに、犬が吠えている。ほええいる。おええいう。いうあおええいう。四つ這いになると勇気でも増すのか、声の反動で地面に食い下がりながら、桜の花びらより、もののあはれな、こんまいチワワが私に向かって吠えている。儚いなあ、と私は思う。住宅地は、いく筋もの川に小川に用水に溝に分断されており、が、金管木管楽器のように、川は大きさによって音色が違わないのは耳寂しいな、と思う。川も小川も用水も溝も、皆同じような音程で流れている。ソプラノのような用水路、アルトのような小川、テノールな三級河川、河川に三級はないそうだけれど、じゃあ一級二級じゃない河川はなんて呼べばいいのだろう。水溜りからは鉦の音がして。涙は、風鈴みたい。だったなら、な、と思う。もしそうだったなら、ウルトラマンみたいな聴力で、街の中心で、街の流れに耳をすませたい。橋はレゴブロックみたいにそっけない作りで、下手くそな握り寿司のように、ただ川に乗っていた、しっとりと。固形で、私が飛んだり跳ねたりしても、一切揺らがない。名前をつける代わりに、これでもかと赤赤く塗られている。視界のはるか川下に、緑緑した、光合成でも起こしそうな、鉄橋が見える。眼下を流れる水流が透明なままなのが不可解なくらい、染み出しそうなくらい、目がチラつくくらい、チラコイドなくらい、原色だ、緑だ。陸橋の上を歩いていると、いつも眠たくなる。横たわって空を眺めてみたくなる。足元では、それなりの勢いで車車が走り過ぎていくけれど、ここは天国なんじゃないかと思えるほど静安で、たぶん、全ての人間から、死角になってて、私はくっすりと、ぐっすり+こっそりと眠られると思うけれど、ポケットには枕は入っていない。申し訳程度のチリ紙が入っているだけ。申し訳ありません、とチリ紙が謝り始めたら、話し相手ができていいなあ、と思う。スカートが揺れるのは大型トラックが走りすぎたためで、颱風が横綱なら、四トントラックは、序二段くらい。大型台風じゃなくてよかった。タイヤの廻転ををぼんやり眺めたり、廻って字、カタツムリみたいだよなあ、と思ったり、信号機を根元からゆっさゆさ揺らしてみても、ココナッツみたいに、赤青黄色の電灯が落ちてこなくて残念だったり、一歩一歩確かめるように歩いたり、影を崖に突き落としたり、崖を陰で飲み込んだり、歩き疲れて喉が渇いたから公園で休んでたら、公園で戦いたくなって、一人戦ったり、ああ、うん、まだ、まだ、遠いんだ、待ち合わせ場所。あれこれあったけれど、あれこれあっても、嘘太郎のこと、忘れてはいないから。もう少しだけ、歩かなくちゃ。風景が変わっていく。私が歩くから、風景が変わって行く、それは、私が視点だからだ。時間はあまり、流れない。ボールやナイフや棍棒を振り回してたら、とても危ないけれど、それらを同時に三つ以上振り回していたら、ジャグリングだ。仮に、水流でジャグリングできたら、それは噴水だと思う。人間にはできないな。駅前には、申し訳程度の小さな噴水が湧き流れていて、だけど、誰も、申し訳ありません、と謝ってくれなくて、私はいつもいらいらしてしまう。罪を悪んで人を悪まず、なので、その罪の象徴とも言える噴水を、百年かけて破摧しよう、という計画が私にはあって、だから、今日も駅前に到着すると同時に、痛いのを覚悟で、噴水をかたどる縁石に飛び蹴りを食らわせて、まるで私の影が黒子なって私を宙空させてくれたかのような綺麗な後先考えない飛び蹴りをして、ちょっと痛かった。私の乾きかけの経血が少し飛び散って、そのかけらが噴水の中に着床して、ちきしょうと思いながらも、だって、飛び蹴りの反動で足首をくじいたから、着床してちきしょうと思う避妊を怠る男は最低と思うけれど、チキン師匠。田舎の駅前はこの時間、あんまり人がいない。だから、ある程度のアテルイ程度の無茶許される、斬首されない。噴水の中をくるくると経血は舞って、やがて水と溶け合い、薄ピンク色のもやもやした塊になり、でも、透明に消えちゃう。革靴を脱ぎ、アンクレットソックスを抜き、抜き足差し足で、両足首を水面に差し込む、思ったよりの冷たさに体がぴくりとする、足裏の膣口からとぽとぽと水時計の油みたいに、一滴一滴水に滲んでいく、歩き疲れて、くじいて、赤く火照った足首がひんやりする。敵に塩を送るとはこの事だな、お前は上杉謙信か、と噴水に対して思うけれど、しゃがみこんでなめくじに塩をふりかける上杉謙信はいやなやつだ、唇はぽーっと開いたまま。高校では日本史と現代社会を選択していた。言葉は相変わらず、うまく出なくって、授業中、無口を通して、授業を後にするのだった。私の声を聞きたいなら、私の鼻腔からそろりそろりと侵入して、鼻腔を匍匐前進して、喉頭蓋をくぐり抜けて、私の舌先で一時間くらい待機したならば、あるいは、こほこほと喉の奥で咳き込む音くらい聞き取れるかもしれない、そのくらい私は授業中黙りこくっていたし、溶接されたみたいに唇も閉じており、豪族の城塞が、堀と柵で二重に囲われているように、歯も噛み合わされていた。私はしばらく眠ることにした。というのも、嘘太郎は、まだ、どこにも来ていなかった。腹が少し立って腹が少し減った。高低差の激しい腹になった。私の臍に登頂しようと目論むアルピニストたちをフラフープにして回した。嘘太郎を待ちぼうけさせるために、あの手この手で遅延したのに、電車が駅に到着して、また、走り去っていく。ここは最果ての終着駅なので、多少の溜めの後、元来た道を電車は返っていく。だから、内陸部だけど、潮の満ち引きってどういうことか知ってる。そういう水生植物のように、膝下は水没させ、右肘下も水没させ、残りは、噴水のタイル張りの縁に淵にしなだれかかるように脱力している。重力に従うように手足伸ばしている。眠った。眠ったら夜になっていた。「お待たせ」と嘘太郎が呟いた。「全然、待ってない」と私は答えた。私は嘘が得意だった。冷え切った私の肉体は、全立方豆腐のように血の気がなかった。夜空だった。星座だった。私は人魚姫、って気分で、噴水から這いずり出るが、滴る水は惨めなものだ。自分で自分の現況を選んで何が惨めなのだろうか。理解に苦しむ苦い顔をする。何時間も待たせやがって。ふざけやがって。ふやけやがって。内心毒づく。ふやけきった指先を眺める。ふやけているのは私の方だ。連想するはしゃぶしゃぶである。ふざけているのも私の方かもしれない。マッチ棒が二本並んでいるように、しばらく、沈黙で電灯の下にいた。終電が始まる、と思ったらいてもたってもいられなくなって、よく終わりの始まり、とかいうけれど、それって、終電の発進のことだ、嘘太郎の手を曳いて駅の券売機まで歩いて走って、右足で歩いて左足で走って、両足で歩いて両手で走って、両手がぶらぶら空を切った、サーカスの空中ブランコみたい、濡れた手のひらで濡れた紙幣を摩擦熱で乾かそうと思ったらびりびりにやぶけて、紙縒みたいになって、仕方ないから、五百円硬貨で、行けるところまでの切符を二枚買った。嘘太郎、お金持ってなさそうだから、私が買ってあげた。褒めて欲しかった、少し。改札を通るときはいつでも「ひらけごま」と囁かずにはいられない。終電の到着だった。朝からずっと電車に乗りつづけていそうなくたびれた人が何人かいた。まるで干し柿のようにつり革にぶら下がっていたり、まるで電車というのが一個の着ぐるみで、着ぐるみの中の人みたいに、真っ赤な顔の人がいた。電車というのは少しだけ怖い場所なので、嘘太郎がいるのは心細かった。普段なら心極細くらいなところをかろうじて心細かった。細い茎の蔦植物が、頼りなげな枯れ木に巻きついている気分だった。嘘太郎は大学生らしく学帽をかぶっていた。私はかぶると十一面観音みたいになれる帽子をかぶっていた。私なりの精一杯のおしゃれだった。駅のホームで電車を待つ時間は十数秒しか堪能できなかったから、急いで乗り込んだ車内では、今しばらく、その十秒間を反芻した。嘘太郎と、二、三十分間、電車を待っていたかった。何かを待っている間、時は永遠に感じられる。だから、ガタンゴトンと車中が揺れた時、一瞬地震かと思って飛び跳ねた。地震の時に飛び跳ねてしまうと却って揺れが激しくなるから身を竦ませている方が正解なのに。考えてみると、私は徒歩で高校に通っているから、電車に乗るのは数年ぶりだった。どこか遠くへ行きたい時は、電車より夢を利用していた。電車から吐き出され、駅のホームに溢れかえっていた人々が、シャボン玉みたいにふわふわして見える。有るか無きかの風なのに、あまりの軽さに、どんどん私から離れていくシャボン玉のようだった。電車の身震いで巻き起こった微風が追い打ちをかけたかのように、それを言うなら追い風だけれど、降車した人々は、あっという間に吹き飛ばされ、太平洋上へ流れていった。ジョン万次郎が大量発生する異常気象だった。鯨が絶滅しそうだった。蝗の大群が作物を食い荒らすが如く、鯨を食い荒らすジョン万次郎たちだった。私は視力五万の視界で、ぼんやりその光景を眺めながら、電車に揺られていた。窓枠にかじりついていた。ところで、やはり、嘘太郎は、その頃、窓ガラスに貼り付いていた。学生服の社会の窓からは、灰色と白のリバーシブルなヤモリの手のひらを垂らしていた。けれど、そんなところに貼り付いていたら、自動扉の開閉に巻き込まれてしまう。次の駅への到着が恐ろしかった。しかし、よくよく考えて見たら、いくら視力が五万でも、地球は丸いので、ここから太平洋洋上ハワイ沿岸部は見えるはずなくて、つまり、私は幻覚を見ていたのだった、あるいは、違う惑星の上での出来事だった。惑は感と似ていて、星は性と同じ読みで、だから、違う感性の上での出来事かもしれなかった。嘘太郎も自身の危機的状況を飲み込めたようで、いそいそと、窓ガラスを這い上り、網棚をすり抜け、網棚は全身ネバネバする蜘蛛男たちの蜘蛛の巣で、預けた荷物は糸に巻かれくしゃくしゃと食われてしまうけれど、車内広告のポスターの上を這い進み、蛍光灯のすぐそばまで行き、少し暑そうだった。私たち以外の乗客たちはみんなゆらゆらと揺られていた。嘘太郎も天井で、ゆらゆら揺られていた。窓外は仄あかりが街の輪郭となりきれいだった。田んぼって春は鏡のようで、電車のライトが、煌々と反照される。川の上を走るときは、巨大な線と線の交点って感じで、雄大さを感じた、私自身が点のようだ、と。ゴゴウと風の切れる音がして、窓の外はさらに暗闇となった。トンネルを通過しているのだ、そのトンネルは肉壁であり、乳房だった。ということは、今、この電車を運行させているのがQ氏なのか、と思った。私の黒髪が、十一面観音から溢れ出し、と言うのもそれはニット帽だったから、窓外の闇と一体化するような気がした。そのくらいの長さがあった。この鉄道の車掌Q氏は巨人女性と恋愛中なのだった、そう言う噂だった。しかし、巨人と人間とでは、体の大きさに隔たりがありすぎ、充分な性愛が不可能なように思われた。けれど、それはそれでなんとかなるもので、巨人女は、夜毎、車掌の運転する車掌の象徴的ペニス、つまりファルスであるところの、ところてんであるところの所ジョージ、四両編成の電車に乳房を擦り付けるのだった、そう言う噂だった。それがこれだった。私と嘘太郎はファルスに乗車にしている。噂は本当だった。電車に乗った甲斐があった。「ねえ、嘘太郎。一両車両まで、Q氏を見に行こう」ゴゴウって音して、トンネルが終わった。嘘太郎は、私の手を強く握り返すことで同意を示し、天井をつらつらと這い進んだ。それは、歩速と比べるとかなり遅かったけれど、私はゆっくりを楽しむことにした。深呼吸の似合う晩だった。私と嘘太郎が乗車するこの電車が、ファルスだとすると、ファルスに乗車している私たちは象徴的精子ってことになる。精子と精子は同族だけれどもライヴァルで、バトルロアイヤルだった。精子と仲良しな精子、卵子よりも精子と受精したい精子、奇妙な夜だった、月が二つあるみたいだった。あの月が卵子だろうか、だとすると、これは卵子めがけて飛翔する銀河鉄道だろうか、と思うのはあまりに不謹慎だった。趣味じゃない。嘘太郎のヤモリ的前進があまりに遅いから、次の駅に到着してしまった。乗客が降りて、あまり乗ってこない。笊で水を掬うみたい。手を握っているというのに、嘘太郎は私の頭上で天井に貼り付いている、それはなんだか、私の手のひらの上に嘘太郎がいて、それを支えているという妄想を抱かせる。重心が狂っている感じがする。私の手のひらに、嘘太郎がいる。夜更けだから、乗客はまばら。まばらだから、めいめい好き勝手なことをしている。足を組んだり、漫画読んだり、眼鏡拭いたり、手帳開いたりしている。煙のようにゆったりとしている。吐き出した濃煙が次第に空気に溶け込むように、皆が皆やがてまばらになるようだった。等速で、互いに、隔たりが生まれていく感じがした。人型ではなく、鈍い楕円形になったかのように、人々が、走る車内を、ころころと転がり拡散していく。互いに無関心のまま。Q氏は影の巨大な男だった。影はいつも三メートル近くはあった。見下げるほどの大巨人だ。けれど、背丈は一メートル二十センチ程度だった。私より背が小さい。弟って感じだった、私の弟が車掌室で、マスターコントローラーにしがみついている、窓の外には全裸の巨女がいる。Q氏の全身からはいつも影をはみ出している、制帽からもボサボサの寝癖みたいに影が溢れ出している、無精髭みたいに顔半分を影が覆っている。毎朝影を剃らないからだ、私は月に一度美容院で髪と一緒に伸びすぎた影を切りそろえてもらう、それが常識でしょ、衛生思想、エチケット。私たちは透明を名乗った。運転席で倦怠とともに動く、けれど目は爛々と輝かせている、肉体と眼光の鋭さが釣り合っていない、夜更けの車掌を眺めながら、私たちは彼の精子なのだから、もはや他人ではないだろうに、彼はこちらを顧みてくれない。ゴゴウと車窓には、巨人女の乳房が再び強く擦り付けられ、車体をゆらゆらと揺さぶられながら、それでも電車は先へと進む。ゴゴウ、ゴゴウ、ゴゴウと、執拗に繰り返される。私も、大人になりきったら、かような情熱を身に灯すのだろうか、けれど、何を目指しての情熱なのか、私にはよくわからない。何もない場所に向かって、何もない中心に向かって、ただ張り詰めていくような情熱だった。けれど、やはりそれも情熱で。怖くなっていたのだと思う。嘘太郎の手をねじくれるくらい強く握りしめていた。私の指紋が焼きごてのように彼の膚に食い込んだ。ストンと落下するように着座して、只の乗客のように、只という字は正面から見た電車のようだけれど、電車に揺られる。ここは海岸線で、人は波で、これは漂着物で、私は漂流者で。だとしたら、人波に打ち寄せられて打ち捨てられた漫画雑誌が、座席にちょこんと端座していたので、私は無礼かもしれないけれど、それを取り上げた。それは蝉に塗れていた。漫画蝉だ。漫画の枠内には、様々な蝉がこびりつくように張り付いており、多種多様な鳴き声で効果音を鳴いていた。ドーン、ガガガガ、キラキラ、といった効果音を、蝉たちが、それぞれに異なる形の腹腔を収縮伸張させることで奏でていた。私はそれら効果音を眺めながら漫画に耽溺する。ドンドンゼミ、ガガガガゼミ、キラキラゼミ、名づけ得ぬほど無数のセミが、漫画紙面に、ふきだしに、キャラクターに、しがみついて必死に生存している。今は春だから、季節外れの蝉たちだけれど、漫画の中なのだから、そう言うものだった。漫画中の登場人物たちは、まるで私が見えているかのように、じっと微動だにせず、私のこと、見つめてくるのだった。黒目がちだな、と彼らに対し思った。碁石のようだった。それもそのはずで、仮に黒目を剥いたサッカーチームと全員白目を剥いたサッカーチームが対戦したら、黒目が勝つに決まっている。ぶっ殺す、ととあるキャラクターが、私の目を見て血管を浮き立たせて宣告するものだから、私は少し腹が立って、彼のことを縦に割いた。人にぶっ殺すなんて文言を投げかけるから、そう言う目にあうのだ。私は権力者だった。人は独裁者になりたいから漫画本を読むのだ。私が彼を縦裂きにすると、彼は、ぎゃあ、と喚いて、漫画ゼミたちは驚いて、ばたばたと羽ばたいた、効果音が乱舞して、目が騒がしかった。気にくわないキャラクターを次から次へ処刑していくのが、漫画読みの楽しみで、連帯責任として、表面のキャラを破くと同時に、不可抗に裏面のキャラも破かれる。私は悪くないのに、と見向きもされなかった彼女が呻いた。破いた紙面から、漫画ゼミたちが溢れ出して、米粒のような微細なセミたちが、電車内を飛び交った。嘘太郎はうるさそうに手足を振り回した。嘘太郎、ごめん、そう思って口を開いたけれど、舌しか出なかった。嘘太郎、ごめん。私時折、こんなになってしまうんだ。こんなになって縞馬なんだ。私は別に縞馬じゃなかった。漫画に戻ろう。私の恐怖政治に、キャラクターたちは、皆顔面蒼白になって、モノクロになって、冷や汗を流している、怯えた目で私のこと見つめている、だるまさんがころんだみたいに、静止している。笑え、と私が命じると、漫画のキャラたちが皆一斉に笑みをこぼした。少しだけ、楽しかった。歩け、と命じれば、歩くし、跳びはねろ、と命じれば、飛び跳ねるし、服を脱げ、と命じれば、服を脱いだ。私は漫画雑誌に熱中して、周囲への注意が散漫になった。嘘太郎は寂しくないだろうか、って遠い未来の私が今の私を振り返って、心配になる。漫画雑誌が羽ばたき始めた。漫画雑誌が、ぱたんぱたんと開閉を繰り返すことで私の手元を狂わせて、私の手元からまろび溢れて、リノリウムの床にべったりと読みさしの状態で突っ伏して、そこから今度は、尺取り虫の動作で、私の足元から逃げ出した。漫画のキャラクターたちが、一心に、一人一人が筋繊維の一本一本に相当するかのように、紙面の中で収縮と伸長を繰り返し、その漣が合成されて、ダイナミックな動きとなって、漫画雑誌を匍匐させた。ぎゃあ、ぎゃあ、と泥船の乗船員たちのように、わめきながら逃げ延びようとする彼らは少しだけ哀れだった。私は、少しだけかわいそうになって、もう、漫画雑誌は読むまい、と思った。ため息をついて深く座席にもたれかかると、天井の嘘太郎と目があった。嘘太郎のことが、私自身の良心に見えた。良心と見つめあうだなんて、摘出された癌組織を局部麻酔でぼんやりした視界で眺めるようじゃないか、と思うけれど、そんな経験したことなかった、嘘八百画素で、この世界を見つめている、私。蛍光灯をじっと見つめるくらい眩しかった、というより嘘太郎に後光がさすくらい、嘘太郎と天井の照明器具は隣接していた、月蝕みたいに互いが侵食し合うことで輪郭が明瞭になった、影と光の明度が逆転したように、嘘太郎の嘘太郎らしさが、いつもよりはかなかった、光とは果敢ない、輝いているのに、なぜ。なんのためにここにいるのだろう。私にはわからなくなった。私はごろりと座席に寝転がった。生きている意味なんてないように思えた。生きているなんて意味ないように思えた。生きているなんてない意味ように思えた。生きているなんてないように意味思えた。意味がするりと逃げていく。眠たいのだと思った。夜だもの。意味が抜け落ちてしまえば、それは、生きているなんてないように思えた、ということで、意味さえなければ、私は、生きていないのかもしれなかった。電車が停止したのは、そこが駅だからで、私と嘘太郎は二人して降り立った。電車はこのまま車庫へと納車される。でも、その車庫は、車掌の恋人の体内で、だから、車掌とその恋人は、二人してすやすや夜を明かす。まるで見てきたように私は語るけれど、それは私の悪い癖で、でもどこが悪いのかわからなくて、私が嘘つきだってことの証でしかない、でも、私は無口だから、そんじょそこらじゃ、口を開かないから、ありきたりなふてくされた夜勤帯の車掌さんが私のこと見つめるでもない。やっぱり、あれはただのトンネルで、やっぱり、これはただの電車で、やっぱり、私は一人でとぼとぼ歩いているのかもしれない。嘘太郎の名を呼ぶ。モールス信号みたいな小声で、嘘太郎の名を呼ぶ。影のような返事が訪う。嘘太郎と私の影とが重なり合うことで返事となる。それはまるで肉感的な接着で、手を握り合うくらいの近さに感じる。完全に重なり合っているから、誰よりも、どれよりも嘘太郎と私はつながっている。頭上の蛍光灯の明かりは、私の中ではどこまでも、まん丸で、一つ一つが試着用の帽子のようで、私の頭上にぽんと被さって、だとすると私の影を移すコンクリート製のホームが鏡な訳で、だから、私は一歩一歩に、蛍光灯の明かりの下でくるくると反転して、自身の影をしげしげと眺める。少しでも可愛くなれたら良いけれど、私には何にもないから。私たちは改札を通過した。それから、私たちはぽつねんとした。ふっと、何かの拍子に静止画になった雨粒も、このくらいぽつねんと、やるせなさそうな表情を浮かべていると思う。けど、仮に雨粒に表情があったとしたら、それは撮影者の表情が水面に映り込んだだけだろう。無人島と無人駅はなんだか佇まいだけのシルエットクイズなら似ていなくもなくて、だから、手を振れば止まってくれるタクシーは救助船のようなもので、だけど、そんなお金はないから、取り残された気分だけ、時間と正比例で味わえるのだった。目で、タバコを喫えたなら、たぶん、こんな気分だ。ここで暮らそうか、嘘太郎。この無人駅でロビンソンクルーソーみたいにしようか。私は、いつもロビンソンクルーソーをロビンソークルーソンと発語してしまうけれど、それはきっと私に残る微かな幼児語で、その語を百万回くらい唱えると、私はてにをはわからぬ幼児に、心の中だけ、掘削機を掘り進むように舞戻れてしまうんだ。無人駅を無人島とみなし、不当に占拠しようと思ったら、そのくらいの蛮勇が必要だった。けど、私の蛮勇はきっと粗大ゴミみたいに処理されてしまうから、そろそろこの場を立ち去らなくちゃ。黙って途方に暮れてあたふたしていた私を、嘘太郎は黙って途方にくれるでもなくあたふたもせず、かといってどこかに貼りつくでもなく、私のすぐそばで私を待ちぼうけていた。雨が降った。傘をさした。折り畳み傘だった。八畳ほどの座敷が折りたたまれただけの傘だった、天井はなかった。私たち二人はその座敷の中に上がり込んだ。土足だった。天井がないとザザ振りで意味ないから、もう一本折り畳み傘を差して二階建てにした。それでも雨漏りはするものだから、さらにもう一本で三階建てにした。屋敷が完成した。よくもまあ、立て続けに、三本も折り畳み傘があったものだけれど、元はと言えば、私も嘘太郎も手ぶらで、駅といえば忘れ物で、駅での忘れ物といえば傘だから、あたりは、剣や槍の代わりに、手に手に傘持って合戦して、敵味方いっぱい死んで、いっぱい死んだけれど死体はカラスや野犬や風雨に啄まれて、消え去って、残されたのは、武具や武器や旗印のみという戦場跡みたいに、傘、傘、傘、レインコート、スーツ、新聞紙などが散乱していた。だから、たから、ちょうどよかった。私はへたり込んだ。天井と床はあるけれど、壁はなくって、殴って壊しちゃったわけじゃなくって元からなくって、いつかは腐って崩れ落ちる屋敷だけれど、当座くつろぐ分には問題なかった。安心したように経血が滴った。急な土砂降りに立ち往生しているだけだとしても、私は、私の根城を一夜のうちに手に入れた気分で、ほくそ笑んでいた。ほくそ笑む、と、ほかほかの焼き芋を二つに割ったら、湯気がふわあと溢れてすごかった、は、感覚としてはどこか似ていて、私の心の中では似ていて、私の心の中ではその二つの間に曖昧な県境が引かれていて、それぞれにそこそこ県民もいて、だから、私は私に暖かくなる気がした、同時にお腹も減るけれども。寒いな。夜と雨と風で寒いな。私一人に、夜と雨と風の三者が寄ってたかって寒いのである。多勢に無勢でいじめだ。お月様に言いつけてやろうかと夜空を見上げたけれど、素知らぬ顔で雲が通せんぼをしている。手当たり次第に開いた傘に埋もれるように、身を横たえていると、棺桶の中で、花や贈り物や思い出の品に埋もれていく死体のような、その死体に、レコードの針を引っ掛けて、再生したなら私が音になるんじゃないか、と思えるような、何を思っているんだか、という思いの中思った。死に絶えてしまった人間たちの膚に刻まれた、細長い皺一本一本にレコードの針を引っ掛けて、死体をくるくるDJしたなら、私という音が奏でられるのではないか、と思った。先日亡くなった祖母の膚からも私、私が子供だった頃亡くなった飼い犬の毛深い膚からも私、いつか新聞で死去を知った著名人の膚からも私。垢みたいだ私。赤ちゃん。いたるところで死体を奏でたならば、湧き上がる音は、どれも、ドレミ、私な気がした。根拠なんてない。風が強く吹くみたいに、根拠なくそう思った。風が強く吹いた。あたり一帯亀の手のように、駅チカに集住に集住を重ねた住宅街で、民家にまみれていたのだけれども、その晴れていたなら様々な色彩を誇った家々が、運動会の日の万国旗のように、ふうわりとはためいた。何かに留まるように張り詰めて、ある一線を越えすぐに、一向に逆上がりができない人の熱烈な練習風景のように、旗めいた。はためく旗を、縦に、横に、支える棒を、鉄棒に見立てたなら、あっちへこっちへ半端に揺れる布切れは、勢い込めて力むけれど、一向に肉体がくるりと鉄棒を中心に回転しない、逆上がりの不得手な小学生のようだった、かわいい。万国旗の無様なはためきを見るにつけ、逆上がりできるようにならなきゃ、って思う、私は、また、私は、まだ、恥ずかしい。跳び箱なら、飛べるんだけれど。自分で自分を責めて、自分で自分を追いつめて、三十センチ立法の小箱に自分を押し込めて、時折堪り兼ねて箱から飛び出すびっくり箱が私なのかも、というと自分を美化しすぎで、私は、握り過ぎてへちゃけて、ネタのぬるくなった寿司なのだと思う、私は、小さく小さく、身を縮めていた。雨。家々は、地響き立たず、ただただはためくだけ。風が強く吹くたびに、ふうわりと、はためいた。瓦が、縦にも横にも拡張された椎骨のように、瓦と瓦の隙間が伸びて、屋根全体が猫背になったり、瓦と瓦の隙間が縮まって、屋根全体海老反りになったりした。窓ガラスは、ぷうと息吹き付けたストローの先端に膜はるシャボン液のように、膨らんだり、しぼんだりした。時に窓ガラスが膨らみすぎて、本家本物のシャボン玉よろしく、球状に独立分離して、綺麗な丸い光の玉が、嵐の中、ぷかぷかと浮かび上がり、どこか電線あたりにぶつかって、パチンと割れて、ガラス片を散乱させた、危なかった、少し。家々は互いに鎖状に連結しており、とびきり強い強風の時には、大縄跳びの大縄のように、大きく弧を描くようにして、はためいた、けど、地響きはしない、まるで全てがわたの詰まったぬいぐるみのようだ。差していた傘々も、タンポポの綿毛のように飛び散った、私の爪が、軋む雨戸のように軋んだ。風はとても重たくって、空を掴むと鉄アレイの感触がした。私の着衣は、学生服だったけれど、水脈のように脈打った。まるで漫画家の過剰な書き込みのように、衣服に皺がよって、それが水気で、定時的に固着した。怖くなった。怖くなったよ。こんなの生まれて初めてだから。怖い。嘘太郎。ねえ嘘太郎。呼ぶ。呼びたい。けど。嘘太郎が、嘘太郎め、嘘太郎のばーか、パーカを着た嘘太郎、気がつくと嘘太郎は私からは遠く離れて、駅前に居を構えていたビジネスホテルの壁面にいつもみたいにいもりみたいに、じゃなく、ヤモリみたいに貼り付いていた。ヤモリ的本能なのだろう、こんな夜には、自分よりはるかに巨大な実体に貼り付いて、貼りつくことで安心して、大樹の陰というやつで、やり過ごしたいのだろう。飛び跳ねる家々は、内出血をしていた。あまりに家々が跳びはねるものだから、在宅中の家主たちが、タンスの角に頭をぶつけたり、テレビ画面に頭から突っ込んだりして、血袋になり、ひび割れた土塀の隙間から、たらたらと、雨水に薄められたピンクが漏れ出すのだった。嵐だった。嵐だった。嵐だった。災難だ。でも、シャッターチャンスに満ち溢れていた。光あるうちに光の中を歩け、の光がシャッターの煌々だったなら、被写体はブレブレ、そのように思ったから、多数のカメラマンのシャッター音の中スタスタとあるくパリコレのモデルの顔にトルストイを代入した、未知のエイリアンに頭部だけ侵食された、そんなにもなるだろう、傘も吹き飛ばされ、今や覆うものも何もない中、私はそんなこんなに想いを馳せる。こんな嵐の日だというのに。私は私だし、嘘太郎は嘘太郎だし。雨風に嬲られて、全身びしょ濡れになったとしても。けど、嘘太郎貼りつく当のビジネスホテルも、押し出される前の棒状ところてんのようだった。始終プルプル震えていて、いまにも千々に割けて、すごく弱い八岐大蛇かヒュドラになってしまいそうだった。嘘太郎は、私よりヤモリ的振る舞いの方が大事なのか。私とヤモリとしての実存、どちらを取るのよ、と言ってみたくなった。けど、そんな安っぽい台詞のために私の咽喉は震えなかった。それに、私だって、嘘太郎より私の目に移る私の世界の方が大事かもしれなかった。私は寂しくなった。知らない男の人が私の前に立っていた。勃起したペニスのように背筋がよかった。私の頭上で立ち籠める黒雲は、今夜全てのヅラが吹き飛ばされて、中空にて謎の引力で毛玉となったそれの成れの果てだろうか、すごく黒々と若々しい。男は白髪混じりではあったけれど、全体としては黒々とした髪でツキノワグマみたいだった。ツキノワグマの月の輪くらいの白髪とそれ以外は黒々と剛毛だった。私は彼と当のビジネスホテルに行った。ビジネスホテルはビジネスホテルなのに浴槽付き二人部屋が完備されていた。私は、取るに足らないことのように、シャワーを浴びて体を乾かすことに成功した。屋内は、思いの外プルプルしていなかった。なんだ、と思い、死の予覚から自由になった、世界は崩壊しないよね、こんなにも鋭角なのだから、置物のようにソファに身を委ねる。借りてきた猫、というより、借りてきた招き猫のように、微動だせぬほどおとなしかった、目を見開いて。部屋のはめ殺しの窓には、嘘太郎が貼り付いていた。その貼り付きはまるで自然で、インテリアの一部みたいだった、カレンダーとか。ぴったりとそこに貼り付いていないと気が済まないようで、将棋の駒が将棋盤のマス目に収まりきるように、さして縦横長くもない屋外の不穏な動きを見張るためだけに設置されたかのような覆面の目庇のような申し訳程度の正方の窓辺に、卍型の姿勢でぴったりと貼り付いている。こうしてここで彼の腹ばいをガラス越しに眺めてしまうと、なにしとるんや、と思わないでもなかったけれど、その姿は護符のようで安心感を与える。守られているのか、封印されているのか、祀られているのか、エンパワーメントされているのか。わからないけれど。嘘太郎の肉体はどこまでもヤモリだった、Tシャツがめくれて露出するお腹が色白くて可愛かった、お臍がない。肋骨の足音が骨骨と窓ガラスを叩いた。ガラス越しに、嘘太郎の輪郭を撫でてやった、緊張は緩和し、輪郭は融和し、私はもう招き猫じゃなかった。嘘太郎はくすぐったくなさそうに、身をよじった。それは、恥ずかしそうだった。知らない男の人は相変わらず知らない男の人で、よくわからなくて、知らなくて、知らない男の人の身体描写をしたくないから、知らない男の人、知らない男の人、知らない男の人、と三度唱えよう。そうして、その三度の声聞によって惹起されるイメージの平均値を当人の実態への近似値としよう、と私は決めた。知らない知らない知らない男の人。サイコロを三度振って、出目の平均を計算するように簡単な作業だった。小数点は出なかった。起伏はなかった。私は眇で男を眺めていた。両目にブラインドをぶら下げているみたいだった、簾かもしれない、まつ毛がすっごく伸びて、玉のれんのようになったのかもしれない。男の人からしたら不快だったろう。男の人にだって父母がいて祖父母がいて、妻子があって、彼を大切に育み慈しんだ人々がいたのだろうから、いつ死んだ慈しんだ吾妹子、なんて即物的な歌。私が彼をないがしろにすることは、彼のそうした系譜までないがしろにするような後ろめたさだった。目があるね鼻があるね口があるね、手があるね胴があるね足があるね、などといったことがこの作業からわかった。知らない男の人が裸になると、室内は膣内になった。照明はついたまま。男の人の体からは、私たちが先ほど乗車していた電車が二輌編成くらいで、連結していて、ぶら下がっていて、その車内からは小粒の私と嘘太郎が車窓越しに私のこと眺めていた、車掌さんもいた、射精さん。股間から電車を生やしているなんて大変な重労働であるはずで、重心もブレるのか、それはアンシンメトリーで直視するとこちらのバランスまで崩れてしまう骨盤の歪み方で、彼は立ったり座ったりしていた。大変ですね、と私は思い、「大変ですね」と呟いた。男の人はちょっと笑った。ちょっと笑ったら白い歯がこぼれた。ぼろぼろと、こぼれた。床一面に散らばった。チェスの初期配置のような歯並びだった。この抜けた歯で、麻雀でもしませんか。しばらく私たちは、男は裸だったけれど、抜け歯でチェスして遊んだ。男の口の中を覗くのは、少し、怖かった。歯がない口ってのは、まるで中身がないゴム人間って感じで、男の人肉がそっくりくり抜かれ、外側の外皮だけがそこに正座しているのではないかと思われた、スティールメイト。私は押し倒された、ドミノじゃあるまいし。雨、止まないかな。窓の外は雨滴が素敵だった。空には竜がたゆたっており、こりゃ、相当長引くな、と思った。竜がとぐろを巻いて、どういう原理かはわからないけれど、きっと結跏趺坐をした瑜伽行者のように空中浮遊していた。近所のヨガ教室のインストラクターは、瑜伽行者というより、瑜伽業者だった。竜がたゆたってるくらいじゃ、朝まで止まないだろうな、雨。竜は土砂降りの雨の中ずぶ濡れていて、少しかわいそうだった。雨の日の道路工事の作業員のようだった、ヘルメットがわりに角生やしている、鹿の角。男の人がベッドに横たわっていて、私が押し倒したのだ、サービスで、何かの終わりというふうだった。世界の終わり。世界のおかわり。世界のおことわり。世界は終わっても、またすぐ、新生する。私が殺したわけじゃない、という証拠に、むくりと起き上がった。お金をもらってもいいのだろうか、という話になって、お金をもらってもいいのだろうな、という話になった。お金たちは束になってかかってきた、姑息な拘束。お金をもらったらどうするの、帰りの電車の切符を買おう。嘘太郎は、変温動物だからじっとそこにいた。若さの特権って言葉が脳裏に浮かんで、やがて消えていった、室内外の気温差で曇った窓に描いたニコニコマークのようだった。桜の花びらより、落ち葉より、私の考えの方が、次から次へと欠落していく。抜け毛より、歯抜けより。記憶障害者の頭の中を覗けたなら、それは花見と似た光景だろうか。脳細胞はきれいに光る。きらきら、きらきらと記憶のノートが千々に裂かれた紙吹雪となって吹き飛んでゆく。脳の形に剪定された桜の大木があったなら、その散り際とよく似ているだろう。どこへ何が落ちていくんだ。どこからどこへ落ちていくんだ。記憶。一万匹のヤモリが貼りついた大樹から、ぱらぱらぱらぱらヤモリが落ちていく、炒飯に振りかけられる、塩胡椒のように。一千匹の蝉がしがみついていた大樹から、ぱらぱらぱら炒飯のように、絶えた蝉が蝉の抜け殻よりもぬけの殻な身体にて落ちていく。魂は何処へいくんだろう。私の中へ来てくれたなら。どうして、桜の花びらしか、きれいじゃないんだろう。どうして、蚊取り線香の煙に燻されてはらはらと舞い落ちる、蚊は、桜の花びらのように、哀れがられないのだろう、哀れ蚊。私はお金を数えるふりして、何も見えない虚空を見ている。虚空を、ひとつふたつと数えることはできない。だから、宇宙怪獣に数の概念はない。嘘太郎がじっと私たちのこと見ている、暇なんだろう。暇と眼は、少しだけ形が似ていて、暇な眼で、眼な暇で、じっと私たちのこと見つめている。まなことなまこも似てる。ヤモリといえば精力増強剤だけれど、ヤモリ自体はそんなんじゃないんだけどな、と思う。お金を数え終わると、もう一度だった。飽きない人だった。お金が散らばった。私は両足に膣がある。だから、スカートをたくし上げなくても、靴下を脱ぎ捨てるだけで事足りる、右足の次は左足、靴下の代わりにコンドームを履けたなら楽だろうに、コンドーム型靴下流行らないかな、いつも通りの私服で、靴下だけ脱いじゃった私がそこにいる。足が疲れる。地に足つかないじゃなくて、初めてだったし生理だしで、血に足ついて、でもふらふらしている。私はヤモリについて考え続けた。世界中のヤモリ達へ。思いを馳せる。数学にも、世界史にも、現代文にも、物理にも、政治経済にも、ヤモリが期末試験に出題されればいいのに。そしたら、ヤモリを積分して、ヤモリを穴埋めして、ヤモリの心情を記述して、十秒後のヤモリの位置を計算して、ヤモリの参政権に賛成するのに。学内偏差値で一番になれる、今は三番だけど、しょぼしょぼとした公立校。男の人の股間から生えていた二輌編成の電車が、ついに、出発進行した。ガタゴトシュポシュポと重低音を奏でながら、踏切の警告音はならなかった、部屋の隅々まで、駆け巡った。電車のくせにしゅぽしゅぽと蒸気を漏らすのだから、設定がぶれている。男の股間を離れ、縦横無尽にクローゼットの中や天井や鏡台の上を走る電車は見ていて楽しかった。電車は室内を走り、膣内を走った。そして様々な乗客を乗せ、それぞれの目的地へと運んで行った。車窓からの風景はきれいで、射精からの風景は知らない。私には行きたい場所があった。私は懐かしいあの場所へ電車にゆられ行きたかった。だから、路面電車に乗り込んだ。私の足穴は相変わらずの経血で、だから電車も血まみれで、血まみれの電車の擦れた跡が赤い線路だった。「こんなことのために、私を呼び出したの」呟いた後で、どうでもよくなり、どうでもよくなった時にするポーズをとった、大の字。もう、放っといて欲しかった。私はガラス越しに嘘太郎と手を合わせた。男の人は消えてしまった。嘘太郎の股間からはヤモリの手が生えていた。男の人はそれから、歯抜けになった咥内に、インプラント手術を施し、でも、お金が少し足りなかったから、だって私に支払ってくれたのだから、プラスチック義歯の代わりに口中に筍を植え込んだ。すると、筍が続々と伸びちゃって、根、張っちゃって、ちんちくりんの竹林になっちゃって、そこに絶滅危惧種のジャイアントパンダを保護してて、養育してて、というか、パンダに始終竹を食べててもらわないと、竹が際限なく伸びすぎて、上顎も下顎も鋭き竹槍で貫かれて、落ち武者狩りにあった落ち武者のさらし首のように悲惨になっちゃうんだって、可哀想だ、時折移動動物園として、口の中のパンダを子供達に見せびらかして、子供達をとても喜ばせて、私との一見もそうだけれど、彼はとても子供好きで、子供に喜んで欲しくて、私とは電車遊びして、でも、私、女の子だし、鉄オタじゃないし、もう高校生でそんな子供じゃないしで、そこまでは楽しみきれなかった。男の人は時折、笹を口の中に生やした女の人を見つけてはディープキスして、口の中のパンダに、笹の女の人の笹の葉っぱをさっさと食べさせるんだって、噂。竹や笹を口に生やすと口臭が絶滅して、爽やかになれる。私はそんな後日談を思い思い、男の人の消えた、男の人の体液の匂いが残るビジネスホテルのベッドの上で、呆然とした。扉は閉まっている。支払いは済ませてある。ねえ、嘘太郎、そんなところで卍型してないで、こっちへおいでよ、と思うけれど、ヤモリやヤモリ、そこでそうして貼り付いていたいらしかった。外は嵐。ホテルを後にした男の人が、早速、うわあああ、と言いながら、風に巻き込まれて、逆隕石のように、空高く宇宙の方へ吹き飛ばされて行った。口に竹林。お金もできたし、これで嘘太郎と豪遊できるな。空には竜。私は、竜を眺めながら、ルームサービスで頼んだ素うどんをすすった。竜のような長々としたものを眺めながら、うどんのようなツルツルとしたものをすすっていると、竜の喉越しもきっとこんなものなのかな、と思えてくる。鱗にまみれた竜だけれども、逆鱗に触れなければ、そして、私がもう少し大きかったなら、うどんのようにつるつると気持ちの良い喉越しで、啜ることができるだろう、なぜそれをしようとしないのだろう、私の志が低いからかな。そしたなら、すぐにこの嵐も治って、気持ちの良い晴れ間がのぞくだろうし、ねえ、嘘太郎。嘘太郎は、うどんを食べない。外の嵐はどんどんひどくなって、竜のとぐろが竜巻になって、ダイソンの掃除機みたいに、嵐見物に出ていた人々を塵芥のように吸い込み始めた。春の嵐は、風物詩で風物師で風仏師で、それだけで見ものだった、身重だった。その光景は異様で、らせん状に渦巻く竜巻を下から上へ向けて、螺旋階段を駆け上がるように、しかも、濃密な渋滞な行列となって、人々が牛歩で駆け上がっていくのだ、一列に並んで。天には何がある。わからない。にもかかわらず、その竜巻を、竜巻きなのに、人々は、踊り場で一休みすることもなく、ぐるぐると、バベルの塔を昇るみたいに、竜巻をエスカレーターがわりにして続々と昇天。街の人口が、幾分減った。天国の人口が幾分増えた。全てはゼロサムゲーム。天に召された人々が雨になって、地に滴った。その中にあの男もいたようだった。嵐の後は虹で、しかし、その虹は、糸目の人が何かの拍子にギョッと眼を見開いたかのように、横へ、横へ、横幅が蛇腹状に広がって、青空一面を覆ってしまった。細長かったからきれいな虹も、ぶよぶよに太り空一面に七色では、生理的に気持ち悪かった。雨がやんだ雨がやんだ、そして、さっさと夜も過ぎていた。夜はさっさと、スキップするように駆けて行ったので、夜の闇は、タンタンタタンのリズムでぐわんぐわんと揺れ惑った。身にまとった漆黒のコートが、たゆまぬ向かい風に煽られはためくかのようだった。北風と太陽のように、日が登れば、不思議と漆黒のコート脱ぎ捨てていた。嘘太郎と私はガラス越しに、数度キスをして、手と手を重ね合わせて、何かを楽しみ、それから。ビジネスホテルの玄関の前におおげさに扇状に広がる階段に、二人並んで座った、もちろん正座ではなく腰掛けるように、階段を椅子がわりに座る男女は、いつだってお雛様とお内裏様ってわけでもなかったけれど、そういう意味合いを込めても良いのだった。別に、何も込めなかった。まるで、異なる時間軸上で待ち合わせをする二人が、何かの拍子に、時間軸がZ字に折れ曲がって、こうして二人重ね写しに現像されたみたいに、それって心霊写真みたいだ、二人並んで座っているというのに、二人がそれぞれ、それそれ、待ちぼうけているみたいだった。待ちぼうけと寝坊って何かがどこかで似ていて、待ちぼうけしているその姿は、どこか寝坊して寝ぼけて、歯ブラシくわえながらとろんとした目で鏡を眺めている様に、似ているのだった、重なるのだった、鏡ごしに。バンズ代りに重ね合わせてハンバーガーでも作れそうだった。あるいはそれを平凡な一日、と名付けるのかもしれないけれど。そういえば、私は高校生だったから、たまには学校に行かなくちゃいけなかったはずだけれど、そのたまには、は、虚空を見つめていても、見えてこないのだった。望遠レンズで見つめたならば、月の裏側にこっそり隠れているかもしれなかった。逆上がりのできない子供たちは、みんな宇宙飛行士になるべきだ。逆上がりができなくて、コンプレックスで病んだ子供たちを救済するために、NASAがJAXAが弱者のために月面に大量の鉄棒畑をこしらえて、毎年のように、毎日のように、子供たちをスペースシャトルに詰め込んで、送り迎えをしてあげればいいのに、そしたら、どれだけの子供が救われて、体育嫌いや周囲からのからからからからのかいかいから逃れられるだろうに。そんな気が、私にはした。気がつくと、隣の嘘太郎が、すっくと立ち上がり、ブレイクダンスを始めていた。かっこうがよかった。こういうところが好きだよ、嘘太郎。なにか、見えない聞こえないミュージックに乗り移られたみたいに、見えない糸ではなく、四方八方から強力な磁力で引っ張られたり跳ね返されたりしているかのように、反発と接近を繰り返すその踊りは、求愛のためでもな何でもなく、ただそれだけのパラパラ漫画のように、首尾一貫して、ただそこだけで、張り裂けそうに胸張って、朝を驚かすためだけに儀式張って、気色ばんで、いや、ポーカーフェイスの無表情で、だから嘘太郎は踊った。音楽もないのに。音楽もない踊りが、私の脳内で音楽を再生し始めて、それは楽譜のようで指揮棒のようで、私は歌ったりハミングしたりしないけれど、音楽がそこにあるような気はしていた。嘘太郎は踊った。私はそれを聞いた。なんということか、踊っている間だけ、嘘太郎は、より本物のヤモリのようになって、尻尾を振り振り、人間じゃありえないバランスをとって、とよく見るとそれは、嘘太郎の影で、目覚めたばかりの朝日に照らされる間延びした影が、嘘太郎と一体となって、嘘太郎の動きが影の瞬発力を上回って、嘘太郎と影とが一体となって、嘘太郎と影が、嘘太郎トカゲになって、嘘太郎はまあ、ヤモリなんだけれど、ヤモリの尻尾のように、嘘太郎の影が、ふらりゆらりぶるんぐるんとゆれてまどって、燃え揺らめく焔のように、光を放たない炎のように、かっこうが良かった。かっこうが良かった。絶対それはヒップホップで、無口なヒップホップで、無口なヒップホップで踊り続けるのだった。まるで肉体が文字になったかのように、一つ一つの動作が連なって文になった、嘘太郎の身動きで、何らかの意味文字列が、虚空に活版印刷されるようだった。全てがポーズ。そのポーズがこの世界に残像を残す。鋳抜かれる、射抜かれる。肉体という真空空間を作るように、だから、引力が発生するように、嘘太郎は何もないところを掴み、何もないところ占有する。私はそれをぼんやりと見ている。ゆらゆらと揺れる蝋燭の灯りを知らず凝視してしまうように、ぼんやりと見ている。私の瞳が集光となって、発火したかのように、私は蝋燭を見ている。嘘太郎は燃えながら少しずつ溶けていく。朝日に溶けていく。原子力爆弾のあの日に似て。私はかすかな明かりとかすかな暖かさを与えられる。足跡みたいに。挑発と愛情と愛着と漂着が、入り混じって、その身振り一つ一つに意味付けられていた。まるで弾丸の込められた拳銃のように、嘘太郎の四肢には、嘘太郎の意味が鉛玉のように火薬とセットで、装填されているのだった。いつ放たれるかもしれず、いつ果てるかもしれず、抑止力として、濃厚な意味が、脳梗塞になりそうなくらい濃厚な意味が、嘘太郎の骨一本一本とか、指一本一本とか、関節一つ一つにとか、に、宿っていて、嘘太郎の身動き一つで、それら意味が、様々な文法に組み替えられ、回文のように逆再生したり、スロゥモウになったり、主体と客体が入れ替わったり、それは一人二役で社交ダンスをしているようで、汝と我がくるくると入れ替わり続けるから、くるくるぱぁ、駒のように、回転するものだった。それはハトにパンクズをばらまくように、くるっぽぉくるっぽぉ、くるくるぽぉ、パンクスを寄せ集め、ハトが豆鉄砲を食らったような顔で、彼らは嘘太郎を眺めるのだった。通行人が立ち止まる。見世物と見物人の絆が蜘蛛巣状に広がって、蜘蛛の巣のように絡め取る、道ゆく人々を、何かしらの途上の人々を。彼が身動きを止める瞬間にだけ、この世の時間が止まり、彼が身動きを再開するときにだけ、秒針が動き始める。それを固唾を飲む、という。全ての時計の針が、秒針になって、分針も時針もなくなって、すべてが一秒刻みにしかならなくなって、そんな動作で、人々に、あ・あ・あと思わせる。嘘太郎を見物する者たちの、ため息が折り重なって、ハァ、ヒィ、ホゥ、ヨォ、粗末な民族楽器を、けれど、熱情込めて演奏したかのような音律が周囲をくるんだ。手拍子なんかない、皆がふいごのように膨らんだりしぼんだりする。私は援交したばかりだというのに、そんな嘘太郎を眺めていた。嘘太郎踊る。嘘太郎踊れ。踊れ。踊れ。今の嘘太郎なら、ロダンの考える人にだって、自然とリズムとってビート刻ませて、それってただの貧乏ゆすりかもしれないけれど、でも、そのくらい、嘘太郎から嘘太郎のビートが響いてきた。嘘太郎。踊れ。嘘太郎。踊れ。嘘太郎。踊れ。踊れ。踊れ。疲れちゃったよ、倒れこみ、心臓が脈打つがままにしている嘘太郎のその胸に手を当てて、私は目を閉じ、嘘太郎の鼓動を楽しむ。ずん。ずん。ずん。だん。踊りは終わっても、ビートは終わっていないようだった。何のために踊ったの。理由なんてない。嘘太郎。嘘太郎の名前を呼んでみたかった。でも、私は何だか、どこまでもじっとしていたくもあった。私が塑像のようにじっとし続けたら固唾を飲んでいたら、まるで私が記録媒体になれて、嘘太郎を嘘太郎と呼びかけるよりも、嘘太郎が嘘太郎として残る気がした。嘘太郎。なだらかな山を登ってなだらかな山を下っていくように、嘘太郎の鼓動が、徐々に緩やかになった。周囲の人々もまるで幻だったかのように、通勤と通学へ消えて行った。嘘太郎と私は立ち上がって、二匹の犬のように歩き出した。かといって四つ這いというわけではなかったけれど。二人の距離の取り方が、犬みたようだった。歩き方が犬みたようだった。それはどこかハードボイルド探偵に似ている気がするな、と空の綿雲を掴もうとしながら考える。ハードボイルド探偵が二人、寄り添うように歩いている。変な図だ。行く宛てなんかなかった。家か学校へ戻ればいいだけだった。でも、行く宛てなんかどこにもなかった。金子ならあった、数万円。嘘太郎、遊ぼうか。この数万円で、行けるところまで、遊ぼうか。道ゆく幼子たちを万札でなびかせて、雇い入れて、白組と赤組とに選り分けて、互いに互いを憎ませて、殴り合いの白兵戦をさせて、それを遠くから眺めやって観戦して、やれやれ、と、やれやれ、を同時に呟きながら、仲良く嘘太郎と手をつないでいようか。ランドセルを背負った子供たちが、そうプログラムされてるみたいに、あの大きな建物を目指して、私と嘘太郎の間をすり抜けて、アスファルトには白地ででかでかと通学路って書かれている。入り組んだ二次元にした蟻の巣のような住宅地区。「ねえ、お兄さんとお姉さんは、だれ」誰ときたか。誰だろう。私は、無邪気な、唐突な、幼子の質問に、じっくりと考えてみるけれど、答えが出ない。時が流れて、沈黙が継続する。「わかった、エイリアンだ」幼子が、そう決めつけて、私を指差す。違う。ぶんぶん、私は首を振る。違う。違う。違う。「なら、子犬?それとも蝉の抜け殻?切り捨てられたパンの耳、テープレコーダーに録音された音、木目の輪郭線、静謐で清潔なベッドの上のバスローブ、ハンケチに刺繍された頭文字に染み付いた汗の香りに誘われたカブトムシの子供、それとも」子供は考えに考えて、考えつく限りの答案を作成して、私は黙って、それを聞いている。しゃがみこんで目線を合わせて。嘘太郎は所在なさげに、電信柱に貼り付いている。私と嘘太郎は、住所なさげに、こんなところにいる。電信柱なんかじゃなく、嘘太郎をハガキに貼り付ければ、切手がわりになって、嘘太郎が換算される貨幣価値分、すり減りながら、スタンプ押されながら、遠いどこかへ旅立てるのに。どこか遠くへ往きたくなった、ヤモリ、ナメクジ、タコ、カタムツリたちが、思い思いに、ハガキや封筒や大判封筒に張り付いて切手に擬態して、世界を駆け巡る、大移動。旅先でスタンプラリーに勤しむのと、切手に擬態してハガキに張り付き、そのままポストに投函されて、消印押されて、何度も消印押されて、何度も何度も消印押されなくちゃ届かない、どこか遠い国までたどり着けたなら、たどり着くことと、旅先でスタンプラリーに勤しむことは、ほとんど同じだな、と思う、思うよ。私もしたい。私の体が、スタンプまみれになる。シャワー浴びなくちゃ。子供は相変わらず考えていて、まるで私は、私が、灘中学校の入試問題になったみたいな気分だった。最大の難関としての謎として、私がその子の前に立ちふさがっている気分だった。算数オリンピックの最終問題ってこんな気分で子供の前で横たわっているのかな。子供は一人では考えあぐねて、三人寄れば文殊の知恵、とでも思ったのか、通り過ぎようとした同学年たちを捕獲しては、額を突き合わせて、意見を交換して、しまいには、複数の小学生たちが、絡み合いながら、一つのオブジェとなって、私の前に天を指差すような格好で、この世界は薄い薄い紙きれで、薄っぺらな表面だけ色塗り分けられた紙で、その紙を取り押さえるための文鎮みたいな重量感の存在論と雰囲気で、彼らはそこでそうしていた。「あなたは」子供たちは唱和するように口を開く。不気味だった。不自然だった。私は黙っていた。黙る以外に能がなかった。熊はいなかった。「あなたは、違った、それでいて、カーテンレールに似ていて、羽織るように、頬張る、網戸を通過して、空気のように溶け出した、電信柱が生え伸びる、髭を剃れよ、髭をitよ、隠れする、瓦を鱗のように貼り付けて、手帳を買えないで、呼び鈴の向こうから覗き込む、不和、白線の上を用意しておいた、カレーライスはもぞもぞと動き出し、目、繰り返すには取っ手がいる」などなどと子供達は呪文か自問のように呟いて、しばらく呟き続けて、「つまるところ、消火栓に蓋をする銀色の王将で、そこまで行けばわかるでしょう、それがお姉さんだ」初め私に声をかけてきた男の子が改めて言った。言い切った。見えは切らなかった。三重も切らなかった。「お姉さんは、それなんでしょう。そうだよね」わからなかった。わからないことには、とりあえず同意しよう。それが穏便っていうもの。流れに乗るっていうこと。それはそれでいい気がするし。「そうだよ、私は、それだよ」最初から最後までを覚えきれなかったから、それって指示語で用を足した。手抜きだな、ってちょっぴり思う。「よかった。わかって、よかった」って子供達が安堵に胸をなで下ろして、ああ、もう、こんな時間、飛び跳ねるように、うきゃうきゃと、あの大きな建物を目指して、子供達が、駆けて行く、競走馬みたいに、騎手はランドセル、ランドセルからはみ出した、体操服袋か給食着袋かの縛り紐が、鞭のようにぷらんぷらんと揺れるせっつく。揺れるセックス。か。せっかく掃き集めた落ち葉の山が、一陣の風で、吹き飛ばされてしまったみたい。あっけなさに、見えない取っ手をつかんで見えない扉を開きたくなる。淋しくなった。子供ってかわいいね、私もまだ高校生だけれど。そう思おうとしたら、そう思えた。嘘太郎、いつか、子供作りたいな。嘘太郎と私は、それでも特にやることもなく、ただ行方なく歩き続ける。金子だけある。いつか、ラーメンや餃子や炒飯やラーメンなどをかっくらって、ラーメンで始まりラーメンで締めることをラーメン構造と言うけれど、お腹がパンパンになるくらい、孕みたいな、と思う。お腹減ったな、と思う。うどんって消化にいいから。ラーメン屋ないかな、って思う。そこで孕もうかな、と思案する。けど、代わりにスケート場があった。私と嘘太郎は、二人並んで、不慣れな場所に迷い込むように、ドーム状の外観の、スケートリンク場へ迷い込んだ。今は、春の終わりだから、スケートリンクには、氷が張られていない。代わりに、スパゲッティがたらこイカスミナポリタン、カルボナーラ、ボンゴレ、ともかくよくわからないけど、多種多様、まぜこぜ、スパゲッティが、茹で上がったばかりでほくほくしたスパゲッティが、スケートリンク一面に、敷き詰められていた。赤かった黄色かった圧巻だった。入場料と使用料と貸出料を支払うと、長さ30センチほどのフォーク二本を与えられた。それを両足にタコ糸で縛り付けて、それで準備完了だった。これでもかって盛りつけられたスパゲッティの上をそのフォークでつるつるつるっと滑るのだ。スパゲッティの上では、何人ものカップルやスケーターが私たちのように滑っている。時折拾い食いしている。スピンを決めようとすると、足元でスパゲティがくるくるくるっとフォークに巻きついて、気持ちよかった。スピンからのジャンプで、その絡みついたスパゲッティを振りほどいて、別のスパゲッティたちに乗り換える。春場のスケート場とは、スパゲッティだった。そういうものだった。夏になると、今度は、スパゲッティの代わりに、髪の毛が敷き詰められ、スケート靴の代わりにヘアブラシを両足に装着する、秋になると落ち葉敷き詰め、その上を箒またがり滑空する、魔女たちの季節、焼き芋禁止。焼き芋で祝うワルプルギスの夜。冬になるとようよう氷が張られて、ありきたりなスケートが楽しまれる。ありきたりなんかつまらなかった。寒いし。私は上級者なのだけれど、嘘太郎は、へっぴり腰だから、なんどもまろんで、まどろんで、まどまどまどまど、まどみちお、まだ道半ば、スパゲッティにまみれて、ナポリタンまみれになって、カルボナーラまみれになって、半分くさりかけたゾンビーのようなそんな特殊メイクみた様相を呈していて、いつもいつも、張り付いてばかりいるから、自立できないんだよ、とからかわないで、手を曳いて、親子みたいに一緒に滑った。滑っては食べ滑っては食べた。お互いのフォークで、あーん、しあった。足がつった。太っちゃうな。太っちゃうね。太ちゃった。私と嘘太郎は少し太った。ネズミを飲み込んだニシキヘビのように、少し太った。笑った。私の太りの中に嘘太郎の太りが混ざり合いそうだった。ベン図みたいに重なり合いそうにまん丸だった。でも、実はそこまで太ってはなくて、逆くびれって感じになっただけだった。それからしばらくして、ばしばししばきあって、結構しばらくして、結構結局結婚してコケコッコー、嘘太郎と私は結婚した。その日私は天気のいい五月晴れで、春風気持ちよく、布団をベランダに干していたのだけれど、うっかり夕方になっても取り込み忘れてて、昼寝の延長十二回裏していたから、がらら、と嘘太郎が無言で帰宅して、いかにもやってられないよみたいな動作でネクタイ脱ぎ捨てて、というのもヤモリな嘘太郎は、タモリくらい会社員とか苦手で、蛙同様、蛇みたようなものが苦手で、長々くねくねしたネクタイなど、ネクタイの元祖は、コブラ首に巻きつけたシヴァ犬、インド人は、いや、あれはターバンの元祖だ、そんな論争は遠い戦場で、ネクタイを解いた嘘太郎は、脱力したようにバタンと布団に倒れこんだ。ベランダに干しっぱなしの布団の上に倒れこんだ。ベランダの柵の上に引っかかるように倒れこんだ。夜風が吹いた。私は、そういえば、布団取り込んでなかったわね、と思って、カタカタと階段駆け上がって、そしたら、ベランダの欄干に嘘太郎が引っかかってて、なにしとるんや、と思った。私は、二人寂しく、ハンガーにぶら下がって揺られた。

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発語。 @DojoKota

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