黒猫と白猫と?神の願い
緑川
それぞれの願い
真っ白な空間が際限なく続いている世界。
この世界にある色は、白と黄色と赤。そして黒だけだ。
夥しい数の白猫が群れを成し、皆一同が当然のように自らをも同じだと錯覚する空間。
自分が何なのかさえ曖昧な世界で唯一、自らを理解する存在がいた。
真っ黒に淀んだ水溜りの水面に、円な瞳とまんまるとした面差しが映り込む。
黒と黄色の瞳をした者は、徐に前足の爪で水溜りをスゥーっと裂き、水面がゆらゆらと揺らぐ。
けれど、いくら切り裂こうとも変わらぬ光景に、自然と黒き涙が頬を伝う。
その黒い涙を流し、自らを自覚するのは、この世界にただ一匹の黒猫であった。
絶え間なく滴り落ちる真っ黒な雫が、全ての体毛が黒に覆われたの体躯を容易に映せるほどに、大きな水溜りを作り出していた。
ただ道を進みゆくだけで、冷ややかな鋭い眼差しを向けられ、自分を横切る白猫にそっと歩み寄れば、シャーと威嚇されるばかり。
けれど、そんな黒猫にも心の支えがあった。
水溜りを茫然と眺める最中に突如として、水面に映り込む新たなる猫の面影。
疾くに振り返った先にいたのは、シミ一つない真っ白なもふもふの白猫であった。
数多の白猫たちが遠ざけていく中で、この白猫だけが唯一、黒猫に歩み寄っていた。
緩慢に顔をすり寄せ、息遣いが当たるほどに眼前に迫っていく。
額に触れる寸前、壁でも挟んでいるかのようにすっと避けて、一歩後ずさる。
親しみ深い間柄でありながら、一度たりとも触れ合ったことがなかった。
黒猫は決して触れてはくれなかったのだ。
周りの白猫の目を掻い潜るように、黒猫の元へと忍び寄り、ほんのひと時を共に過ごす。
大抵は、水溜りに沿って散歩をするか、たわいもない会話を交わすだけ。
そして、あっという間に時が過ぎてゆき、またただ独りになる日々。
しかし、今日は違った。
鋭い眼をした白猫を背に連れていた。
足音を忍ばせ、背後に付かず離れずの距離で、慎重に歩みを進めていた。
まるで、もふもふを嗅ぎ回るように。
だが、異変はそれだけではなかった。
もふもふの挙動。
凛々しく悠然と闊歩し、真っ黒な水溜りを前にしても、臆すことなく進みゆくように。
淡々と着実に……その白猫の様を目の当たりにしたふたりは、慌ただしく駆け出した。
ひとりは行手を遮る壁として、もうひとりは水溜りを禦ぐ盾として。
本来、相容れないはずのふたりは言葉を交わすことなく、阿吽の呼吸で白猫を阻んだ。
もふもふは、目を点にしたような驚いた表情を浮かべ、慌てふためく白猫を見つめた。
そして、それと同時に双方のピッタリ息が合うのはここまでであった。
緩やかに歩み寄っていく黒猫を、禽獣たる眼差しを向けて、耳を劈く咆哮を上げた。
「シャャャャーーッッ!!」
黒猫は気圧され、逃げるように後ずさり、
白猫は毛を逆立てながら、後退していく。
白猫を押し除けて突き進むもふもふの様を周囲の黄色の視線を一点に注いでいた。
黒猫は徐に視線を下ろし、水溜りに浮かび上がる自らの顔を見つめ、流れるように周りの白猫に目を向けた。
一刹那の長考。
黒猫は大口を開け、鋭い牙を露わにした。
その牙をまごうことなき、もふもふへの威嚇であった。
「シャャー!」
その言動が、もふもふの決して抑えることのできぬ、歩みをピタリと止めさせた。
あと一歩、ほんのあと一歩を踏み出せば、触れられる距離にいる。
けれど、その一歩が踏み出せない。
それ以来、どれほどの時が経とうとも、もふもふの白猫が姿を見せることはなかった。
退屈。
遂に暇を持て余したのか、黒猫は徐に立ち上がるとともに、歩みを進めていく。
壁の隅に体をすり寄せ、横切る白猫たちと目の合わぬように息を潜めながら、更なる不可思議な空間への入り口へと足を運んだ。
真っ白な空気のようで全てを吸い込んでしまいそうな大扉を平然と通り過ぎていき、真っ黒な鎖に繋がれし者に歩み寄る。
黒のローブに全身を纏った存在。その鎖は手に足に、そして首に輪の枷を掛けていた。
壁に凭れ掛かり、地に打たれた杭の上に座り込んで、ただ茫然と天を仰いでいた。
黒猫はその地に垂れ下がるローブの一部を口に咥えて、懸命に引っ張った。
「ん?」
自らを包み込む衣服が、傍の何かにグッと引き寄せられていくのを感じた、その存在は徐に振り返る。
「ニャァー」
「やぁ、久しぶりだね。何度も言うようだけれど、私は大きな猫じゃないよ」
「ニャー」
「私は─神だよ。もう忘れちゃったかい?」
「ニャァァー」
「大きな黒猫でもないよ」
「……」
「所で、此処に来たってことは何か用でもあるのかな?」
「……!!ニャー!」
「そうか……君は他の子達と一緒になりたいんだね。けど、それは君だけの願いだろう?」
「……?」
黒猫は不思議そうに小首を傾げる。
「この空間でお願い事をする時は、皆んなが平等に願う必要があるんだ」
「ニャァー」
「私の願いはもうあるんだ。だから、残りは白猫だけ……だったんだけど、奇しくも彼女からの願いは既に承っているんだ」
その一言がより一層、円な瞳を煌びやかに輝かせ、黒猫の高揚感を掻き立てた。
「後は、あれに触れれば良いだけだよ」
両者は徐に天を仰ぐ。
天から一縷の糸に繋がりし黄金色の大鈴。
「あれを鳴らせば良いんだけど、私には届きそうにないな。悪いけどお願いできるかな?」
黒猫は小さく頷き、慌ただしく駆け出すとともに軽快に壁を蹴り上げる。
そして、飛び上がったまま、小さくてとても鋭い爪と前足を弧を描いて振るう。
けれど、あとちょっとという所で、黒猫の体は落ちてゆき、前足は空を切った。
だが、
微かに爪が掠めたのか、鈴がリンリンと小さく鈴の音を奏でて、ゆらゆらと揺れる。
そして、そのほんの小さな揺れが、一縷の糸をぷつんと切った。
高らかに奏でるような鈴の音を鳴り響かせ、鈴は地に叩きつけられる。
「あぁ、落ちてしまったね。これはもう使い物にならないな」
不安げに神を一瞥する。
「大丈夫だよ。今回はまだ使えるから」
神は言葉とは裏腹に、俄かに頬の強張りが緩んでゆき、黒き瞳に映り込んだ地に臥す鈴は、泡沫夢幻に霧散していく。
「これで皆んなの耳に届いただろう。君の流した波が世界を変えるよ」
真っ黒な水溜りに浮かび上がる猫の面影。
静寂極まる空間で、突然と天の隙間から一滴の雫が滴り落ちる。
もふもふとした白猫は徐に天を仰ぐ。
ポタ。ポタポタと、そして、それは次第に豪雨へと、黒き澱んだ大雨が無差別に降り注ぐ。
もふもふはその光景に心なしか微笑んだ。
神たちは静寂なる空間で、胸を躍らせて待ち侘びていた。
無情に過ぎゆく時間の流れるままに、真っ白な壁をひたすらに見つめる二者であった。
「そろそろかな」
その一言に、疾くに振り返った。
「行こうか」
ようやっと重い腰を上げた神は、忽然とその巨躯を優に超える大きくて鋭い黒々とした何かを携えて、疾くに振るう。
自らに繋がりし枷と鎖を、たった一振りで糸も容易く断ち切り、鎖の欠片が宙を舞う。
「ニャァー」
「うん」
ふたりは、淡々と歩みを進めていき、不可思議な空間を後にした。
底の見えぬ黒々とした足跡を残して……。
そして、ふたりを迎えたのは、全てが真っ黒に覆い尽くされた空間であった。
「これは闇だね。でも今回の場合は夜かな」
黒猫はキョロキョロと辺りを見渡せども変わらぬ光景に、まるで別世界にでも辿り着いてしまったかのような錯覚に陥っていた。
初めての感覚に喜ぶ様子を一切見せることなく、無表情と沈黙を続けた。
ピタ。
黒猫の前足に何か冷たくてベッタリしたものが付いた。
ゆっくりと視線を下ろすと、其処には大きな水溜りが出来ていた。
けれど、それは白でも黒でも無い。
「ニャー」
「それは赤だね。君の口の中や舌、肉球に臓器なんかも同じ色だよ」
「ニャー」
「これは血って言うんだよ」
血溜まり。
黒々とした床を真っ赤に染め上げた血溜まりが、唖然とする黒猫を映していた。
静かに波打つ水面の水源に、黒猫は徐に目を向ける。
地に横たわる真っ黒な猫。
眠っているのだろうか。
「ニャー」
「そうだね、眠っているとも言えるよ。けれど、これは少し違うんだ。ただの眠りよりも少し長い……死という概念なんだ」
「ニャー」
「目を開けて眠る者も中にはいるんだ。死という概念に気付いていないだけでね」
「ニャァーニャー」
「まだ、私の願いを言っていなかったね」
黒猫は恐る恐る一瞥する。
「私の願いは、私を皆んなに知って欲しかったんだ。私の名はね、死神って言うんだ。ようやっと触れられる。君に……君たちに」
そして、死神は静かに微笑んだ。
黒猫はそれから目を背けるように、ただ茫然と、真っ黒な道行きに目を向けて、歩みを進めていく。
黒洞々たる闇夜が続くばかりの空間で、さながら鈴のように黄金色の光を帯びた無数の球体だけが、静かに浮かんでいた。
何かを探し求めるように、小さな呻き声のような苦しげな声を上げ、闇に紛れていった。
真っ黒な空間が際限なく続いている世界。
この世界にあるのは黄色と黒と赤だけだ。
黒猫と白猫と?神の願い 緑川 @midoRekAwa
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