3-3

 濡れた服を通して身体に熱が帯びる。


 年甲斐、いや俺の年齢的には年相応の水遊びにより好いた女性とハグをしていた。

 否、正確には事故に近しい強引な手段を用いて、だけど。


「あ……あっ、あの……智也、くんっ」


 耳元で擽られる、甘い声に何かが目覚めてしまいそうになる。

 ぐっと、それを抑えて欠落しそうな冷静さを保った。

「離れようとしないで、ください。……俺、そんなことされたら悲しいです」

「っ、ご、ごめんね」


 慌てた謝罪と共に、一度は離れそうになった白肌が改めて近づく。


 柔らかい。ずっと、こうしていたい。

 そんな不埒な欲に溺れそうな中、意地の悪い発言が喉から飛び出る。


「嫌いじゃないんですね、こういうの」


 ぴくり、と小さな肩が軽く跳ねた。


「……もう。いじわる」

「はは、すみません。つい、慣れてるかと思って」


 ヒロ兄で。


 ……なんて、兄の名前を出すか迷ったがやめておいた。今、見て、声を聞いて、好きになって欲しいのは他でもない俺だから。


 俺にとって都合の悪いことは選択肢としても、意識としても忘れて……なーんて言葉として放ったらいくら彼女でも引かれるだろうか。


「この前の。口だけって思われるのはとても癪なので、今回は行動にて好きを伝えてみました。如何です?」


 うーん、と困惑気味に唸る声がした。

 やっぱり呆れ……いや、その割には心臓の効果音が早い気がするけど。


「どう、なんだろう。……正直に言うと、わたしもよくわからなくて」


 よくも悪くも、反応はしない。それでも彼女は本心らしきものを続けた。


「智也くんのことはね、もちろん好き。でも、それは可愛い弟が出来たって感じで。……あ、もちろん。智也くんがそう思われるのを望んでないっていうのは、わかるよ」


 そこまでわたしも鈍くはないから。

 段々と細くなる声の影響か、無意識に互いの身体が離れる。


 嫌われているわけではないが、異性として見れない。端的に言えばそう解釈するのがたぶん正解。だから、ここで素早く詰めるのは絶対に未来の投資としては最悪であることは悟った。


「要するに今、困らせてしまってるってことですよね?」



「……ごめんね」


 肯定でも、否定でもない。

 その曖昧な回答にも満たない謝罪は想定済みであっても、心の準備が完璧に出来ていたわけではなくて。


 どうすればいい、どうしたらいい。

 神様という立場ではない以上、いくら頭を回転させても導く術がない。と、なれば……もういっそのこと、諦めた方が楽――。



「で、でもね! 嫌って感覚は不思議とないの」


「……え?」

「えっと、説明はその難しいのだけど。嬉しいという気持ちもあるというか。胸の奥が温かくなる、みたいな……? って、この言い方、却ってズルいね」


 首を横に振るう。精一杯。

 壁は、厚い。とても。それでも、彼女の心を少しでも動かせたなら。まだチャンスはいくらだって、ある。


「……ヤだな、わたし。呆れるくらい、優柔不断だよ」

「そんなこと……っ!」

「ううん、そんなことあるよ」


 その強い断言に、二度目の訂正には至らなかった。彼女の浅い溜息がピリッと空気を支配する。


「わたし、昔からそうなんだ。高校までの進学両親が決めていて、自分で選択しようとはしなかった。でもね、ヒロくん――長谷川くんと出逢ったことで僅かだけど解消された気がして。でも、いざ頭の中で自分の意見を纏めると悪い方向に自己完結しちゃってて」


 薄く、ほんのり悲しそうにちゆりさんは笑う。


 優柔不断とは一括りにすれば、物事の判断が遅い人のことを指す。

 しかし、その心理は小分けすることが可能でおそらく彼女は〝答えは出ているが自信がなくて言い出せないタイプ〟に当てはまるであろう。定義で申せば、数多の回転が速くて、回答は出ているのに怖かったりして言い出せない。


 周囲から見れば、自分の意見がない人に思われるような……同時にパッと出てきた回答はあまりにも唐突すぎて、誰も追い付けないがゆえに悪循環を繰り返す。


「治さなきゃ、ってわかってる。でも、その方法もどうすればいいのかも、わからなくて。焦れば焦るほど、堂々巡りに入ってしまって」


 嘆き、訴える。無論、その回答に正解なんて俺が導けるはずなく視線を外す。ほんの、一瞬だけ。


「なら、一緒に見つけましょう」


 え、と微かな驚きの声音が吐息の如く吐かれる。


「一人ではわからないなら、二人で探せばいいって話ですよ」


 まるで、その場凌ぎの単細胞理論。

 それでも、ちゆりさんが太陽のような笑顔に戻ってくれるなら何だっていい。そう願った刹那、彼女の口角が上がる。


「ふふ、なぁにそれ。けど、確かにそうかもしれないね」


 返しにつられて笑顔のまま頷く。覇気はいつもより薄いけれど、微かな手応えを感じる反応。

 ……一摘み、半歩程度の成果でも彼女の秘めた本心に近付けた気がして嬉しくなった。


「さて、そろそろ帰りましょう。服も、ちょっと乾いてるみたいですし」


 早いな、乾くの。まだ五月なのに。


「うん。……ねぇ、智也くん。手、繋いでもいい?」

「っ、もちろんです!」


 白肌の手先が俺の手と絡む。

 細く、少しでも力を入れたら折れてしまいそうな柔らかいものに……。


 十四歳の春と夏の間、俺は生まれて初めて母さん以外の女性に触れた。

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