書き手の奇妙な現実

 今まで私は、この現在の日本で小説を書く、発表することについて、思索を巡らせてきました。


 その考察には、おそらく間違いもたくさんあれば、正しいこともあるでしょう。


 これからのエピソードでは、私の考える「小説」の未来の形について考えていきたいと思います。


 私は、「書籍」にも、既存の「Web小説」にも未来はないと思っています。


「書籍」、紙の本は、ネットが登場した時点で、情報を独占することができなくなり、「誤配」が起こりにくくなったので、残念ながら、これからも業界が縮小していくのは避けられないと思います。



 でも、翻って「Web小説」は現状、「誤配」しか起こらないメディアです。それは逆説的に、「誤配」の起こりようのない形式「なろう系」などの「テンプレ」を浮かび上がらせます。


 こうして書き手と読み手のミスマッチがいつまでも続く歪な状況の中で、多くの人に読まれたい、お金を稼ぎたい、そう強く願う人(それは否定されるような感情なんかじゃないはずです)は、どうにかしようと考えた挙句、いわば「Web小説」というサイトを「ハック」して、あろうことか、まるで時代を逆行するかのように「書籍化」を目指すわけです。


 彼らの小説は「誤配」が起こらないようにしたから、「Web小説」で生き残れたのに、「誤配」を前提にして巨大化したはずの「書籍化」を目指すわけです。


 これが奇妙な状況でなくて、いったい何と言うのでしょうか。


 私は、「書籍化」を望む作者の方たちの気持ちも十分わかります。こんなことを言っても、本はやはり、特別なものです。苦労して書いた物語、それが、物理的に、そこにあり、それを実際に手に取った時、何とも言えない達成感、満足感があるのでしょう。


 ですが、私はこうした状況にあえて言いたいと思います。


 そのような形式に、はたして未来があるのか。それは、まだ生まれていない、あるいは育ちつつある未来の作家たちが、自分の作品、個性を打ち出したものがまったく読まれないという、そのような絶望をしないで済む形式なのか、と。


 そのようにして「書籍化」された作品は、やはり、「誤配」されにくいものでしょう。つまり、それはある一定数の読者を見込めます。だからこそ、出版社は、売り上げを見込んでそれを出版する。


 ですが、それ故に、新しい読者を獲得することはできないのです。でも、それは、自らその可能性を閉ざしたのですから、仕方がないことです。


 そして、「テンプレ」に従った作品は、作品を覚えてもらうことはあっても、作者のファンはつきにくいです。


 作者の独自性がわかりにくいからです。それから、新規の読者を獲得できないからです。いい意味での「誤配」、読んでみたら面白かったが、起こりにくいからです。


 そうして忘れ去られていきます。


「書籍化」はできたけれど、あなたの独自性が受け入れられたかどうかはわからないので、また別の「テンプレ」の作品を作るのか、それとも、そういったものを作りたい場合は、また一からスタートです。


 あなたは、それでも「テンプレ」の作風で「売れる」こと、既存の「本」こそすべてだと考え、「書籍化」したいと思いますか?


 

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