小説家とはなにか

 小説家とはなんでしょうか。文章を書いてお金を貰っていること? それも「小説」を書いて、多くの人に認められ、それで生活していること? そうでなくても、一度でも「本」が出版されたことがある人?


 小説家の定義は色々あると思いますが、小説家の在り方、というのは時代ごとに変化しています。


 たとえば、そもそも、出版というものがなければ、本を売ることができないわけですから、「小説家」なんて存在できないわけです。



小説家は、そのような前提の元、その価値が認められて、初めて成立します。


明治の時代、近代文学の出発点は、仲間内で見せあうためだけのものでした。


 それが昭和になると、大衆消費社会に変化していくわけです。そしてまだテレビも生まれて間もなく、メディアが出版というものに頼っていた時代、小説を書くことができる人間はスターでした。


 三島由紀夫はその時代に小説家として生きていたのです。


 でも彼は、次第に世間が求めるスターとして独り歩きする作家の「三島由紀夫」と、本来の自分である「平岡公威」の乖離に悩んでいきます。


 そして作家としての「三島由紀夫」が死ぬ前に、自らの人生を締めた、というのが、私の思う、三島が死んだ理由の一つです。


 彼の死ぬ間際の言葉で興味深いのが、彼が、川端康成に向けて、「私には心霊的能力、預言の能力が根本的に欠けているようです」と書いたことです。


 これは驚くことです。彼の言葉を裏返せば、当時、作家には、社会の未来を予言すること、予言能力というものが、求められていた、ということでもあります。


 今では、そんなことを作家に求める人はなかなかいないですよね。


 現代では作家がテレビに出て、凶悪犯罪の背景を解説したり、分析することはありません。それらは、専門家の仕事になっていますよね。でも昔そうしていたのは、作家がそういったこと、知的な関心、その影響力のほぼすべてを担っていたということです。


 だから作家は「先生」と呼ばれ、尊敬されていたわけです。でも、いま、たとえば、村上春樹のことを村上春樹「先生」と呼ぶ人はあんまりいません。


 それは何も村上春樹が、「先生」らしくないというわけではなく(らしくはないですが)、小説家の立ち位置がそのようなポジションに変化した社会だからです。


 それは社会の分業が進んだということでもあるし、作家の影響力がかつてよりも弱まったことも示しています。


 そして、同じことが現代にも言えます。私たちの社会における小説家の位置もどんどん変化しています。


 出版社は作家を育てる地力を失い、作家は自らの力で、その芸術を磨かなければならなくなった。


 今、目立とうとして、小説家を目指す人は、時代錯誤もいいところです。


 目立ちたいなら、YouTuberや、TikTokなどで目指した方が現実的です。そもそも、小説なんて売れません。


 今小説家として有名な方たちは、たまたま、色々な要素がかみ合って売れた作家が、小説家として、名乗れているわけです。


 東野圭吾は何年も、売れない時代がありました。でも、その時代を乗り越えて、作品を世に出し続けられたからこそ、有名な作家になれたのです。


 でも、今同じことはできません。出版社にそのような体力がないからです。つまり私もあなたも東野圭吾と同じ戦略は取れません。


 これから作家を目指す私たちは、デビューと同時に、また、見切られる前に、「完璧な小説」「売れる小説」を出さなければいけない。

 

 そんなことが、新人にできると思いますか?


 そして、そのような出版業界の構造が小説家というあり方をどう変えるでしょうか。


 それは消費され、忘れ去られていく、使い捨ての作家たちの大量生産なのではないでしょうか。

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