小説の現在、過去、未来

 小説を書こうとし、それを読まれたいと願うような人にとって、私は、現在がとても難しい状況にあると思っています。


 一方ではWeb小説のコードに従わなければほとんど存在しないのも同じ。他方では苛烈な賞レースを勝ち抜くことを求められ、さらにはそこでヒットを飛ばせなければ出版社に切られてしまうという現実。


 このような書き手にとって厳しい現実になっているのは、現在がかつてのように有閑階級だけが作品を書け、発表できたとか、一次選考を通過するためには、日本語が書けていればいい、という時代ではないからです。


 誰にでも作品を書く時間がある、読み書きの教育の成果、書き方の情報を得られやすい、発信の方法の多様化、などにより、一定水準以上の作品を書けるような人が増えました。


 そして、メディアが増え、情報が溢れ、誰もが書けるようになった結果、膨大に作品が生まれ続ける一方で、それらを適切に振り分けるシステムは、まだまだ未発達です。


 作品を読んでもらうには不完全な方法、つまり、旧来の、けれどかつてより厳しくなった競争を勝ち抜き、宣伝をするか、非常に狭い形式しか許さないWeb小説の媒体に適応するしかないわけです。


 もし、理想的な小説紹介システムが存在する場合(それはほぼ百パーセントで、その小説を求める人に届けてくれるシステムだとしましょう)、その時、初めて小説の書き手にとっても読み手にとっても理想的な環境になるでしょう。


 そして、そのようなシステムが部分的にしろ、ある程度有効な形で実装される時、それこそが「なろう系」の時代が終わる時だと思います。


「なろう系」は現状のWeb小説の構造に適応しているため、環境が変わると生き残れないのです。おそらく、「なろう系」は、そんなのが流行った時もあったね、と言われるようになるはずです。



 それがおそらく小説の未来であり、私はそうなるだろうと信じていますが、いったいそれが何年後になるのか想像もつきません。


 おそらく、今はその過渡期。


 それができるまでの間、私たちは、厳しすぎる現実の中で作品を書き続けないといけないわけです。

 

 書いて投稿しても評価されないWeb小説、送ってもほぼ落選する新人賞。作家になってもスタートラインに立っただけという、終わらない競争。


 小説を書くこと、読まれることがこのように厳しい状況になっているのは(別に証拠なんてないですが)、過去を見ても稀なのではないでしょうか。


 私はよく、古い作品を読むことがあるのですが、それらは、名作と言われる作品でも、現代に発表されたとしても、支持を集められるか疑わしいものばかりです。


 村上春樹でさえ、そうだと思います。


 私たちは今、特殊な状況にいるのだと理解すべきだと思います。


 作家になること、作家でいることは非常に難しい。


 過去のやり方では通用しない。でも、独自のやり方をしても、そもそも出版すること、いや、誰かに読んでもらうことすら怪しい。


 日本で明治時代に近代文学が生まれた当初、それは同じ仲間同士の小さなコミュニティに向けたものでした。


 今ではそれが、何百、何千万人に向けて発信できるけれど、多すぎる選択肢は、何も選べないことと一緒の状況になっています。


 

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