第27話

「えっ、それで雇用名簿を写してきたの?」

「ちょっと気になったので、あった方が良いかと思って。読めるように直して報告書と一緒に提出しますね」


 書斎に一度引き返したため、屋敷を出るのが予定よりもずいぶん遅くなってしまった。


 外で待機していたオトラルドに心配をかけてしまった事は反省しつつ、ベルルシアは束になったメモを開いてみせた。

 馬車の外はもうすっかり日が暮れていて、カーテンを閉じた馬車の中を魔光灯がぼんやりと手元を照らし出す。


「ふんふん、速記ができるんだね〜」

「はい。我流なので、他の方には読めないのですが」

「うん、全然読めない」


 そうだろうな、と思う。速記自体は女官を目指すために身につけた技術だが、ベルルシアの速記符号は 纑夥ロカのものを随分と改良してある。


「でも速記ができるのは、同じ作戦室勤務としてはかなりありがたいよ〜。ユランも知れば喜ぶと思うよ!」

「ユランさんが……喜ぶんですか?」


 ベルルシアはぱちりと瞬きをした。

 喜びを露わにするユランの姿が全く想像がつかなかったのだ。


「分かんないけど。俺も見たことないし。でもあいつだって人間だし、いい事があれば喜ぶんじゃないかな〜」

「見たことはないんですね」

「ないなあ。面倒くさそうな顔と、うざったそうな顔は結構見るけどね。笑った顔は……なんか企んでる時とか、悪いこと思いついた時、ほんの少しだけ唇を歪ませるんだけど、それしか見たことない」


 オトラルドは少し寂しそうに笑う。

 彼はユランの入隊直後から付き合いがあるという。それだけ長く居ても、見えた表情はベルルシアとそれほど変わりはないらしい。


 つまり、入隊前からユランはずっとああなのだ。

 何もかも、自分にさえ、ほとんど無関心なまま、淡々と仕事だけをこなして生きている。


「あ」


 ユランの事を考えていたベルルシアは、ふと思い出した。

 そういえば、クリーム入りの甘いお茶を出した時だけは、ユランの表情は僅かに緩んで和やかな雰囲気になる。


「…………オトラルドさん、帰る前に、パティスリーに寄っても構いませんか?」


 少し考えて、ベルルシアは控えめにそう切り出した。


「いいけど、急にどしたの?」

「甘いパンを買いたくて。……竜翼師団の区画のパン屋さんって、甘いものは作らないので」

「あー、任務の後って甘いもの食べたくなるよねえ。よし、初潜入調査のねぎらいって事で、お兄さんが買ってあげよう。どこ行く? おすすめある?」

「ええと、この辺りだと南門通りに面したお店が……」


 一等地の店なので少し高いが、その分評判も高く味もいい。

 オトラルドは微笑ましそうに頷いて、馬車の行き先を変更した。



「で、その速記の清書はどのくらいでできそうなの」

「半日ほどで終わるかと」

「じゃあ明日朝からそれやって。今日はこの報告書だけでいいよ」

「はい」


 調べたものの内容と、抜き出してきた情報についてを簡単に報告書に纏めてユランに提出すると、この日の仕事は終わりとなった。


 上階を借りて、化粧を落として服を着替える。

 姿見の中の姿が普段のベルルシアに戻ると、なんだか少しホッとした。


 あまり印象に残る部分のない、言うなれば地味な顔ではあるが、ベルルシアは自分の顔が嫌いではない。

 両親に似た顔立ちは、異世界に放り込まれ自分の存在さえ疑わしく思った時、どれだけ心の支えとなったか。


 身支度を終えて、階下に戻ると、オトラルドは既に帰った後だった。

 ベルルシアが上階を使っていたからか、終業後だというのに、ユランはまだ仕事をしている。


 自分の席にあるパティスリーの箱を手に取って、ベルルシアは自分が緊張していることに気がついた。


 ユランが用意してくれた事で、食事を共にしたことはこれまでも何度かある。

 だが改めてベルルシアから声を掛けるとなると、なんだか気恥ずかしさと、後ろめたさのようなものがあった。


「……あの、ユランさん。今日の夕食にお誘いしても構いませんか」


 どうにか気を落ち着けて声を掛けると、ユランは書類からゆっくりと顔を上げる。


「なんで?」


 思いきり不審そうな表情だった。


 あまりにもユランらしいその反応に、無駄に高まっていた緊張がすとんと凪ぐのをベルルシアは感じた。


「何度か食事をご馳走になったことがあったので、そのお礼です。区画の外で買ってきたものなので、もしよければ」

「は? お礼?」


 心底奇妙そうに、ユランはベルルシアの言葉を繰り返す。


(……なんだか、戸惑ってるみたい)


 不審なものを見るような表情は変わらないが、声に拒絶するような冷たさはない。

 どちらかというと、それは『困惑』のように思えた。


 試しにベルルシアが腕を取って階段の方へと引いてみても、抵抗する様子は無く、黙ってついてくる。


「お茶淹れますね。少し待っててください」


 沈黙を返事代わりとしたユランは、休憩室のテーブルに着いても小首を傾げたままだった。


 お湯を沸かす間に、パティスリーの箱を開け、中のパンやケーキを皿代わりのペーパーナプキンへと並べる。

 ふんわりと甘いバターの香りが広がって、それが少しはユランの興味を引けたのか、眉間の皺が緩むのが見えた。


「これ、なに」

「梨のタルトだそうです。一つ目はそちらにしますか? 塩味のあるものもありますけど」

「……食べていいの」

「お礼ですから」


 ベルルシアがそう答えると、ユランは再び黙り込み、動かなくなった。

 そのうちに沸いたお湯でお茶の用意を終え、カトラリーと共にタルトを目の前に供してやる。


 ベルルシアは一つ目にチーズの蒸しパンを選び、未だ戸惑うユランに構わずに食べ始めた。


 しばらくすると、恐る恐るといった様子でユランも食事に手をつける。


(……前の朝食とまったく逆ですね)


 シモンとの騒動があった翌日の朝の事を思い出す。


 人目を気にして満足に食事が取れず、思いがけず用意された朝食を前に戸惑うベルルシアに対し、ユランは全くの無関心を見せた。

 それでなんだか吹っ切れてしまって、ベルルシアはユランの前では食事量を気にしない事にしたのだ。


 その後は訓練が始まったこともあり、食堂に行かずこの休憩室で済ませる事が多くなった。

 ユランには知る由もないかもしれないが、『お礼』はその分の感謝も含めている。


 タルトを口に運んだユランの顔から、不審そうな強張りが完全に消えるのを見て、ベルルシアは静かに微笑む。


 嬉しそうな顔は見れなかったが、美味しいと思ってもらえたなら、それで十分だった。

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