第22話
シャワーがあって良かった、とベルルシアは心底思った。
服を着たまま浴室の床に座り込むユランに水をかけて布を絞ると、ドス黒い汚水がどんどん出てくる。
これで桶や浴槽しか使えなかったら、どれだけ時間がかかったものか分からない。
が、便利なばかりでもなく、問題もある。
流水は桶と違って濡れないようにするのが難しいのだ。
汚水や跳ねた水滴で服を汚すわけにもいかないので、介助に入ったベルルシアはスカートとストッキングを脱ぎ、シュミーズの裾を腿半ばほどの高さまでずり上げていた。
「絶対振り返らないでくださいね! 絶対ですよ!」
「しつこ……何度目だよ」
されるがままのユランは面倒そうにそう言うが、ベルルシアにとっては死活問題である。
嫁入りの予定も宛ても無い末端貴族ではあるが、一応未婚の娘なのである。
やけくそ気味に水をかけては絞り、水をかけては絞りとやっていると、やっと中の服から上着がずるりと滑るように剥がれた。
ベルルシアはそれを桶に放り込んで、シャワーの水を溜める。
これが終わればお役御免だと、勢いで浴室に入り込む事になったベルルシアはホッと息をついた。
「ねえ水冷たいんだけど。まだお湯にしちゃ駄目なの?」
「服を全部脱いで、桶の中に入れてからどうぞ。血が固まって染みになりますから」
「そうなっても構わないように黒い服しか着ないんだよ」
「上着が脱げたのだから、もうすぐでしょう。私は浴室から出ますので……あ、もう!」
ベルルシアが喋る間に、ユランはさっさとシャワーの栓を捻っていた。
瞬く間に冷水が温かいお湯へと変わり、浴室に湯気が立つ。
「頭流して。ベタベタで気持ち悪い」
傍若無人だ。
ベルルシアは不満気に唇を尖らせたが、結局、言われた通りに目の前の後頭部へとシャワーを翳した。
ユランがそうして要求するのを初めて聞いたので、物珍しさが勝ったのだ。
仕事中、ユランから指示や命令を聞く事は多くある。だが個人的な頼み事などは全く聞いたことは無かった。
お茶汲みでさえベルルシアが自主的に申し出なければ、頼むでもなく自分一人でやる人だ。
人に頼らない事を徹底している。
その結果がこの、血塗れで疲れ切った青年の姿なのだ。
それが僅かに甘えるような素振りを見せたのを、どうして突っぱねられるだろうか。
ベルルシアはそっとユランの髪に手櫛を通した。
触れた事にユランから何の反応もない事を確かめてから、血で固まった髪を解きほぐす。
ユランがシャワーをお湯にしてしまったので、ある程度ほぐし終えてから石鹸を揉み込んだ。
「痛かったりしないですか?」
「別に」
ユランは妙に大人しく、じっと頭を洗われている。
昔飼っていた猫のようだ、とベルルシアは思った。
つやつやとした黒い長毛の猫で、洗われるたびにコチコチに固まっていた。
猫とは違い、目の前のユランはどちらかというと気を緩めているようだった。
そうしていると年相応の、ベルルシアより年下の男の子らしく見える。
こんな機会はもう無いかもしれない。
そう思って、ベルルシアは話題を探した。
ユランの声には普段のような棘が無く、今なら会話ができるような気がしたのだ。
「……そういえば、討伐対象のガルダランテは何匹くらいでしたか?」
「48匹。討伐証明を回収する間に他の魔獣が集まってきて、面倒な事になった」
「そんなに沢山? 事前調査書には30匹ほどと記載されていたかと思いますが」
「普段から魔物相手の第二師団ならともかく、翼竜師団の斥候なんてそんなものでしょ。疲れはするけど、別に大した差じゃ無い」
大した差じゃないと思っているのはユランだけだ、とベルルシアは反射的に思った。
あんな風に嫌がらせされて、渡される情報も不確かなまま魔物の群れを一人で相手するなんて、幾らなんでも流石におかしい。
けれどそれを指摘したところで、ユランはきっと取り合わない。
だから――
「次は連れて行って頂けるよう、頑張ります」
するりとそんな言葉が出てきた事に、驚いたのはベルルシア自身だった。
覚悟もできていないのに、ずっと胸につっかえていたものが吐き出せたような気がしたのだ。
「怖いんじゃなかったの?」
ユランの声は静かだ。
「怖いですよ。でも、これ以上甘えるているのは、苦しいので……」
一つ吐いてしまえば、そこからはするすると言葉になった。
甘やかされてのんびり笑っていられるほど、無神経ではいられない。
あれほど捨て難くてたまらなかった異世界に行く前のベルルシアには、どうやったって戻れない。
だって、ベルルシアは異世界の記憶を捨てられないのだ。
後生大事に記録までして抱え込んで、それで戻れると思っていた方がどうかしていた。
「……はい、洗い終わりましたよ」
指先に引っかかる部分が無くなったのを見計らい、石鹸をお湯に流す。
改めて、お役御免だ。
持っていたシャワーを渡して、浴室から出ると、「ねえ」とユランから声が追いかけてきた。
「すぐ出るから、それまで休憩室で待機してて」
はて、とベルルシアは首を傾げる。
まだ何か用があるのだろうかと考えて、そういえば最初は傷と魔獣の血の毒性を心配していた事を思い出した。
「……あ、傷の手当ですね。分かりました、待っています」
「馬鹿なの? こんな時間に寮に一人で帰る許可、出せる訳ないでしょ。大人しく待ってろ」
…………棘はない筈だが、皮肉な物言いっぷりは健在らしい。
ベルルシアは苦笑しながら「はい」と返事をして、急いで手足を拭いて身支度を直した。
すぐ出ると言ったら本当にすぐに出てきてもおかしくないのがユランなのだ。
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