第14話

 滝のように汗が噴き出して、魄気は殆ど底を突いた。

 それでやっと構えを解いたベルルシアは、植え込みの縁に倒れ込む。


(全然動けてなかった……)


 思っていたよりずっと早いスタミナ切れに、む、と唇を尖らせる。


 空腹も持て余したままだし、身体も鍛えていない。

 魄気が簡単に尽きるのも当然なのだが、それでも不満を感じてしまう。


 鍛え直さない事を選んだのは他ならぬ自分だというのに。


 ちくちくと苛むような、矛盾した気持ちを、ベルルシアは深呼吸と共に散らした。

 そうして呼吸を整えて、身を起こそうとして。


(あれ? 身体が重たい――動けない?)


 異常に気がついた。


 手足にベッタリと纏わり付くような感覚が、唐突にその存在感を露わにした。


 ゾワ、と肌が粟立って、異世界で培った勘が今更警鐘けいしょうを鳴らしだす。 


(これ、魔術……っ‼︎)


 こういう魔術には覚えがあった。

 異世界で戦った魔人の中に、遅効性で隠蔽力の高い魔術を使う術師が居たのだ。


 呪詛魔術、とその魔人は自身の操る魔術を呼んでいた。

 その魔術は魄練術士にとって相性最悪で、何人もの仲間が死んだ。 


 魄練術士は魄気――変質させた魔力をその身に満たしているため、動きや身体に直接作用する魔術に対する耐性が高い。


 だがどれだけ強く鍛え上げた術士であっても、その耐性が弱まる瞬間は必ずやってくる。


 それまでその存在を隠し、気づかれぬままジワジワと時間を掛けて魔術の形を完成させ、術士の抵抗力が魔術を下回った瞬間にその効果を発揮する――。


 ベルルシアは自然と上がりそうになる息を抑えた。

 どうしよう、という声で頭の中が一杯になる。

 落ち着いて、と理性でそれをねじ伏せた。

 息を整えなければ、魄練は安定しない。


 僅かな量ではあるが、人の身体は常時一定速度で魔力を紡ぎ出す。

 それを魄気へと練り続け、魔術を破るまで耐えるしかない。


(落ち着いて、私……ここは戦い続きだった異世界じゃありません。この魔術がいつ完成するかは、術師にも読めなかったはず)


 発動した魔術は身動きが取れなくなるだけのものだ。戦闘中なら致命的な効果ではあるが、今は周囲に誰の気配もない。


 だが、タイミングは最悪だった。

 練るべき魔力は遅々として貯まらず、酷使した直後の貧弱な女官の身体には流しても流しても魄気として練り上がるまでに時間が掛かる。


 ――暗闇の中、身体が夜風に冷え切っても、ベルルシアは魔術に囚われたままだった。

 どれほど時間が経ったのか、街通りの方からももう喧騒は聞こえなくなっている。 


 耳が痛くなりそうな静寂の中、じゃり、と土を踏み詰る微かな音は、ベルルシアにとっては凶報だった。


「――おーい……どこにいんの?」


 暗闇の中、遠くから響いた声に、動かない身体を強張らせる。


 聞こえてきたのは、シモンの声だ。

 隠しきれない残忍な愉悦を滲ませて、興奮気味に上擦っている。


「あぁ……随分長く掛かったなぁ。模擬戦の時には仕掛けてたってのに、やっと発動したのが今日。でもちょうど良かったか? こんな時間にこんな所で発動してくれるなんてさ。ラクス達までたらし込んで、本当にうぜぇったらありゃしねえよな……」


 どくどくと痛い程に心臓が脈打って、恐怖に息が詰まっていく。


 シモンは魔術の発動とその場所を知覚して、わざわざベルルシアを探しにきた。それが親切心によるものでない事は確かだった。


「お前のせいで俺がどんだけ惨めったらしい屈辱を味合わされたか、分かってんのか? 手加減してやったのに、調子に乗って……不正で勝ちを得て……おかげで俺は嘲笑の的だ。ふざけやがってよ……」


 何事かブツブツと呟きながら動き回る足音と魔光の明かりが、こちらに近づいたり遠かったりする。

 正確な位置までは分からないようだが、見つかるのは時間の問題だった。

 

「声は出せるだろ、手間かけさせんな地味女ァ。許して下さァいって泣き喚くくらいしてみたらどうなんだ? そしたらお前が腕を折った人の部屋の前まで引きずってってやるから、着くまでずっと謝り続けろよな――」

 

 血を這うような悪意に、ベルルシアの喉が戦慄わななく。

 それは聞こえるようなものではなかったが、何かの気配を感じたのか。

 揺れる魔光がゆっくりとこちらを向き、地面の上のベルルシアを照らし出だした。


「――……見ぃーっけ」


 ジャリジャリと土を踏む一定の音が、興奮を抑えきれないように加速しながら近づいてくる。

 その勢いのまま、ボール遊びか何かのように、シモンは横たわるベルルシアの無防備な腹を蹴り上げた。


「……ッッ‼︎」


 あまりの衝撃に声も出せぬまま、ベルルシアの身体は植え込みへと跳ね飛ばされる。

 バキパキと無数の小枝が背に刺さっては折れる音がした。


 腹部への衝撃に息を吐くことも吸うこともできず、はくはくと唇が震える。

 咄嗟に練っていた僅かな練気を集中させたおかげで、骨や内臓は無事そうなのだけが救いだった。


「謝れや、クソ女」


 ぐい、と襟首を掴まれて吊り上げられる。

 愉しそうな声とは裏腹に、シモンの顔は全く笑っていない。


「僕のことナメてんだろお前。ラクスから聞いたけどさぁ。戦いたくありませ〜んって言ったんだって? なんだそりゃ。なんでそんな、私はカンケーありませんってツラ出来るわけよ?」


 そうして、面と向かって吐かれた恨み言に、ベルルシアの頭はすぅっと冷えた。


 怒り狂っているのは分かる。

 だがなぜそこまで恨まれるのかは、理解できない。


「油断した挙句、事務官の女に負けたって言われ続ける僕の気持ち考えたことある?」


 知るかそんなこと。

 そう言えればどんなに良いだろうか。


 油断したのはシモンの失態で、事務官の女に負けたのはただの事実でしかない。

 そう吐き捨てて、お望み通りに叩きのめしてやれるなら、元々こんな事には巻き込まれてはいないのだ。


 理不尽すぎる暴力と言い分に、演武で落ち着けたはずの怒りが再び鎌首を跨げる。

 涙はとっくに引っ込んで、ベルルシアはただ黙ってシモンを見据えた。睨むことさえしなかった。


「……離してください」


 ただそれだけ言って、やっと練り上げた魄気を用いてへばりつくような魔術を引き千切る。


「あ? 痛ッ――」


 間抜けな声を上げるシモンの、襟首を掴んでいる手の親指を掴んで捻った。

 緩んだ拘束からするりと抜け出して、すぐさまベルルシアはシモンから距離を取る。


 睨むシモンと見据えるベルルシアの間に、数秒間の沈黙が落ちた。


「……やめませんか」


 先に口火を切ったのは、ベルルシアの方だ。


「無意味ですよ、こんな事。たとえ再戦しても、あなたは納得しないでしょうから」

「はぁ――?」

「八つ当たりはやめませんかって言ってるんです」


 ベルルシアの静かな指摘は、薄々本人にも自覚があったのか。


 シモンの額に青筋が浮く。

 図星を刺されたのがよっぽど痛かったらしく、彼は即座にベルルシアに向かって地面を蹴った。


 ベルルシアは動かずそれを眺めていた。

 シモンの背後が見えていたからだ。

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