第13話
「お腹すいた……」
小さな声に、ベルルシアははっとして手で口を覆った。
団員が提出した報告書を纏める作業に没頭しすぎたようで、無意識に溢した呟きだった。
「もうすぐ終業だけど」
休みだというのに、室長の椅子に片膝を立てて行儀悪く座るユランは、書類から顔も上げぬまま冷たくそう返す。
静かな作戦室には、残念ながらベルルシアの呟きを遮ってくれるような物音は存在しない。
訓練参加のためラクスがこの場にいない事だけが救いだった。
「独り言です、すみません……」
わざわざ反応しなくていいのに。
恥ずかしさにごにょごにょと消え入りそうな声で謝って、ベルルシアはぼうっとするこめかみを軽く叩いた。
連日の空腹のあまりか、頭があまり回っていないようだった。
夕食は何軒か回って買い込んで、寮で食べた方がいいかもしれない。
そう考えていたのだが、終業間際、作戦室へと戻ったラクスに食堂に誘われてしまった。
「昼に引き合わせた奴らが良かったら夕飯一緒にって。……その、あいつらなりに気になったみたいで。先輩達の態度とか、シモンの様子とかさ……」
声を顰めたラクスの、気遣わしげな表情といったらない。
「ありがとうございます。ぜひご一緒させてください」
断る事は諦めて、ベルルシアは笑顔を取り繕った。
そうして参加することになった夕食会は、身構えたほど悪いものではなかった。
夕食を誘ってくれた経緯の通り、ラクスの友人達が非常に細やかな気遣いをしてくれたからだ。
ウェンデル、セルス、ミグシークという3人は、入団したての大部屋寮時代にラクスと同室だったという話から、最近の任務や訓練でやらかした失敗談まで、面白おかしく喋って場を盛り上げた。
賑やかで楽しい食事会は、それぞれの食事をシェアした事もあり、思った以上に量を食べる事も出来た。
最初の飲み物を飲み切る頃には、誘って貰えて良かったとベルルシアは考えを改めていた。
楽しい夜だった。
――シモンがそこに現れるまでは。
「よお。楽しそうだなお前ら。任務の打ち上げやるなら俺も呼んでくれよ」
いつから食堂に居たのか。
盛り上がっていた会話を割って、底冷しそうな不機嫌な声が捩じ込まれる。
「シモン……」
「座るぜ」
戸惑うラクス達に構わず、彼は長椅子の端を力づくで空けさせ、無理矢理に着席した。
目の前にある料理を勝手に口に放り込んだかと思うと、飲みかけのジョッキを奪って飲み干し、ガンと音を立ててテーブルに叩きつける。
あまりに傍若無人な振る舞いに、全員が絶句した。
ラクスがさりげなくベルルシアを遠ざけようとしたが、それよりシモンが口を開く方が早い。
「でさぁ〜、そこの地味女、なんでここにいんの? とうとう男漁りでも始めたのか?」
それは、間違いなく悪意によって発せられた侮辱だった。
「……シモン、やめてくれ。クレヴァリー嬢は俺たちが呼んだんだ」
「へー、打ち上げ後のお楽しみってか? クソ地味でも穴はあるしなあ」
「シモン!!」
ラクスが声を荒げると、シモンはニタニタ笑って「分かったよ」と口を噤む。
それきり何も喋らなくなったが、居なくなりもせず、人の料理と飲み物に再び手を伸ばした。
楽しい食事の場をただ壊しに来たのだと、その場の誰もが理解した。
それでも戸惑う彼等は何も言えずに、シモンの蛮行をただ眺めている。
竜翼師団の中で、シモンには強く出られない立場に置かれている彼等は、どうするべきか考えあぐねていた。
「……あの、私、そろそろ帰りますね」
気まずい沈黙を最初に破ったのはベルルシアだった。
「あ、いや、クレヴァリーさん」
「もう自分のお皿の物は食べ終わっていたので、気にしないで下さい。お誘い頂きありがとうございました」
動揺するラクス達に頭を下げ、自分のトレーを持ってするりとその場を抜け出す。
背後から「気にしないで下さァい」と馬鹿にしきったシモンの高い声が追いかけてきたが、ベルルシアは振り返らなかった。
◆
(最低!)
楽しい夜が台無しになった。
悔しさと腹立たしさが胃の底でムカムカと渦を巻く。
(ほんと最低! 最っ低‼︎)
かつてない苛立ちを持て余しながらベルルシアは歩いていた。
敵意を向けられた事は何度もある。
それこそ女学院時代、友人達の頼みで頻繁に社交会に付き添っていた頃は、『引き立て役』という蔑称がそこかしこから聴こえてきた。
だが、その敵意を悪意に転じて、周囲の人間まで馬鹿にされたのは、これが初めてだった。
(〜〜〜最悪!! どうしてラクスさん達まで、あんな風に馬鹿にできるの!?)
物分かりのいい顔をしてどうにかあの場を辞したのは、親切にしてくれたラクス達のためだ。
食事をしながら彼等はいろんな話をしてくれた。
その中には、シモンを含めた若い団員達の人間関係についての話もあった。
――実力主義を掲げる竜翼師団では、若い世代へのあたりは自然と厳しいものになる。
特にラクス達の代は、直前に入団したユランの存在のせいで例年よりもそれが激しくなった。
その状況をどうにか改善したがシモンだった。
武門貴族の出であるシモンは集団の中で頭ひとつ抜けた存在で、厳しい先輩団員に認められるようになると、その中でうまく立ち回った。
若手への圧力をどうにか軽くしようと、危険な任務も率先して参加した。
その活躍は認められ、このまま行けば過去最年少で副官に上がると思われていたという。
『まあ……実際にはそうはならなくて、今はちょっと荒れちまってるけど……』
それでも若手団員は全員、あの地獄みたいな日々をどうにかしてくれたシモンを慕っているのだと、ラクスは言った。
義理堅いラクスが義憤に駆られ、名誉挽回の機会を与えてやってくれとベルルシアに直談判に来るほどには、シモンは好かれているのだ。
(なのに、あんな風に嘲るなんて……!)
昂りきった感情に涙が勝手に溢れていく。
けれど泣きたいわけではなく、どうにもじっとしてられなかった。
目の前の夜闇に向けて、踏み込みながら肘、手首と捻り払うように突き出す。
怒り心頭の割に、ベルルシアは冷静だった。
すれ違う兵士の注意をひかないように気配を消して、やってきたのは誰も居なくなった訓練場だ。
真っ暗に照明の落とされたその片隅で、ベルルシアは拳を握る。
「――、ふッ」
鋭い突きが風切り音を立てる。
後ろに残した足を軸に回転して腕の捌き、一歩前に出て蹴り。
身を沈ませての足払い、半身を捻るように立ち上げながら手刀、外肘、跳ねて蹴り下ろす。
一連の動きは、魄練術の演武だ。
ベルルシアにとっては、持て余す感情を落ち着けるために使える、精神安定のための儀式みたいなもの。
鍛えていない肉体は、魄気によって限度を超えた動きを強制されて悲鳴を上げる。
それでも息切れが限界に達するまで、ベルルシアは目の前の闇に向けて苛立ち紛れに拳を振るった。
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