第11話
午前のうち、ベルルシアには侍女官の寮の退去手続きの時間が与えられ――と言っても荷物はほとんどなく、湯浴みや身支度のための休憩時間のようなものだったが――その流れで兵営の案内をしてもらう事になった。
無料で利用できる第一師団の食堂とやらは
その足で早めに入った作戦室は、街通りの端の建物で、店を模した外観をしていた。
(お店が作戦室って、なんか不思議……)
何ともミスマッチな組み合わせに奇妙な感覚に陥りつつ、資料に埋もれた机の並ぶ地階部分を通り抜け、テーブルと椅子の置かれた殺風景な上階へと通される。
備え付けのミニキッチンで水を汲むユランは、どう見ても我が物顔で作戦室を利用している。
「ユラン、さんって……竜翼師団の中では、どういう立場なんでしょうか?」
迷った末に口に出した疑問は、諸々をひっくるめた問いかけのつもりだったが――
「竜翼師団、師団長付き副官。職務は情報統括・師団参謀」
「…………えっと」
端的に返された答えに、ベルルシアは喉を詰まらせた。じっとりとした汗が浮かんだような気さえする。
(それってもしかしなくても、師団内では上から2番目に偉い役職という事でしょうか?)
王師の組織体系など詳しくは知らないが、推察は当たっているでしょうね、とベルルシアは思う。
少なくとも、ベルルシアやラクスの予定を自分の判断で動かせる程度には、ユランは強い権限を持っている。
――どう見ても、ベルルシアとほとんど変わらなさそうな年齢のユランが、師団長副官。
「…………そうなんですね。教えて頂き、ありがとうございます」
疑問としては一部しか答えが返ってこなかったが、それだけで聞きたいことは大体察しがついてしまった。
「上官に当たるのであれば、ユラン様とお呼びした方が良かったですね」
「いらない。別に呼び捨てでもいいよ。俺の方が年下だし」
歳は近いだろうと思っていたが、まさか年下だとは。
軽く目眩がする気がしたベルルシアは、「そういうわけには……」と曖昧な言葉でそれ以上の話を打ち切って、昼食の方に集中する事にした。
◆
「机の上の書類の必要箇所を修正して提出。提出された順に俺が決裁するけど、差し戻されたら直して再提出。先に書類が全て決裁された方の勝利。始め」
ひょっとして、これは模擬戦ではなくちょっとした実戦なのではないだろうか。
始めと言ったきり自分の机と思しき場所で仕事を始めたユランに対し、ベルルシアは少し遠い目になった。
修正書類の内容は、計算ミスのある計上書から、外国語の資料の翻訳、報告書の清書……と様々。
明らかに決裁後そのまま保管されたり、王師の上層部へ提出されたりするようなものばかりである。
作業前にざっと書類を確認し、それを確信したベルルシアは、女学院で身につけた美しい筆記を最初から心掛ける事にした。
(専門的な内容が求められる訳じゃなくて、本当に良かった……)
謹慎を言い渡されたあの一日の無力感は、味わわずに済みそうだ。
最初に書類を提出したのはラクスの方だった。
一枚目から猛烈な勢いで書き込みを始めていたのは見えていたが、それを加味しても流石に早すぎるとベルルシアは感じた。
「字が汚い。これ第一師団に回すやつだから、別紙に清書して」
案の定、即座に突っ返されている。
「は? 何でだよ。報告書とか、大体こんなんだろ」
「……机の上の書類を何枚かめくれば、その報告書とやらの直しが腐るほど出てくるよ」
吐き捨てるように言ったユランの声には、皮肉というよりうんざりしたような響きがあった。
先に書類を確認していたベルルシアは、ユランが何のことを言っているのかすぐに分かってしまう。
積まれた書類の大半は、誰かが適当に書いた報告書の清書だ。
そこからしばらく遅れて、ベルルシアも最初の書類を提出した。
書類を一瞥したユランが何も言わないことを確認してから席に戻ったベルルシアは、2枚目の書類へとすぐに取り掛かり始める。
そうして、半分ほどベルルシアの机の書類が無くなってきた頃だった。
静かに席を立ったユランが、無言でそこに数枚の書類を乗せていった。
(差し戻し?)
即座に渡された書類を確認したが、どれも見覚えは無い内容で、清書の指示のものばかりだ。
ベルルシアは少し考えて、離れた席に座るラクスを見る。
前のめりになりながら忙しなくペンを動かすラクスは、既に何度も書類を突っ返されたり、差し戻されたりしている。
なかなか減らない書類に対して必死になっているらしく、ユランがベルルシアの書類を追加した事にも気がついていないようだ。
(……全部計上書ですね)
ラクスが一から計算し直したと思われるそれは、書類としての体裁は整ってはいないものの、項目が多いものでも収支が一目で分かりやすい。
ベルルシアはしばらくそれを眺めていたが、そのうち黙って作業を再開した。
模擬戦は終了までに、3刻を要した。
ベルルシアが全ての書類を提出した時、ラクスの書類はまだ10枚以上残っていて、その半分を追加で貰って処理をするという幕引きとなった。
模擬戦の結果は明白で、ラクスはすごすごと作戦室を去っていった。
「……納得したでしょうか?」
「納得したかどうかはともかく、あれだけ落ち込んでいれば、よっぽどの馬鹿以外にはつつかれる事も無いよ」
まだ書類を片付けているユランは、至極どうでも良さそうに言う。
「ほとぼり冷めるまでここで使うし」
付け加えられた言葉にベルルシアは苦笑した。
途中から何となく、そんな気がしていたのだ。
模擬戦とは名ばかりで、いいように雑務をさせられただけだし、ラクスはおそらく前から計算能力の高さに目をつけられていた。
計上書が多く割り振られていたのがその証拠だ。
つまるところユランの一人勝ちな訳だが、助けを求めた都合上、ベルルシアに文句は無い。
窓の外ではそろそろ日が暮れようとしていた。
ベルルシアが室内の魔光灯のスイッチを入ると、ユランはふっと頭を上げた。
「もう少ししたら終業で、寮に案内するけど。夕食は?」
「隣のパン屋さんを覗いてもいいでしょうか?」
「……足りるの?」
単純な疑問、といったその問いに、ベルルシアは微笑む。
「多めに買います。明日の朝ごはんも兼ねて」
「…………そう」
ユランは何か言いたげだったが、結局は無関心に頷くだけで、あとは沈黙が落とされた。
手持ち無沙汰となったベルルシアは作戦室の片隅に置かれていた掃除用具で簡単な清掃を行ない、そうして竜翼師団での初日を終えた。
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