第8話
やってしまった。
脱兎の如く演習場を飛び出したベルルシアは、兵士達から逃れるためになりふり構わず走って跳んで、どこかの屋根の上に飾られたモニュメントの陰にへたり込んでいた。
地上からはまだ兵士達の怒号が聞こえてくる。
それがただ怖くて、ベルルシアは膝を抱えて
「なんで、こんな事に……どうしてぇ……?」
限界だった。
ユランが侍女官長の執務室に現れてからというもの、ベルルシアの神経を追い詰めるような、一方的で急な出来事が休む間もなく続いていた。
それでも自分のやった事への責任を取ろうと、不安を押し殺し、シモンの下卑た態度も耐え切った。
だというのに、次はユランのいざこざに巻き込まれる形で悪意に放り込まれ――人に怪我をさせてしまった。
ストレスに耐えられず、ベルルシアは衝動的に、過剰な反撃を相手に加えたのだ。
(
何もかも、間違いだったのだ。
侍女官に立場にしがみついて、出仕を続けようとしたことも。
酔っ払いの貴族に安易に拳を振るった事も。
ユランのちょっとした脅しに言いなりになって、こんな所までついてきてしまった事も。
けれど──それでも。
異世界を生き抜くために、レイネが、翠玉騎士団の仲間が教えてくれた魄練術だけは。
覚えたのは間違いだったと思いたくはなかった。
だからベルルシアは、ボロボロ溢れる涙を袖に吸わせ、
◆
「こんなところにいた……」
くたびれたようなユランの声が聞こえてきたのは、ベルルシアがやっと啜り泣き程度に落ち着いてきた頃だった。
無遠慮に足音が近づいてきて、隣に腰を下ろす気配がする。
汗と血の匂いが微かに漂う。ベルルシアが逃げ出した後、あと兵士達をきっちり返り討ちにしたのだろうか。
――したんでしょうね、と、ベルルシアは思った。
魄練術の身体強化は、術士の感覚も同様に強く研ぎ澄ませる。
それは本来、人には知覚できないはずの他人の魔力すら、薄らと感じ取れるほどに。
(この人、きっと凄く強いですからね……)
ユランの魔力は豊かに波打っていて、澱みのようなものがほとんど無い。
それは強力な魄練術士の纏う魄気とよく似た状態で、魄練術が無いこちらの世界では、おそらくユランは優秀な魔術師だと考えられた。
グズグズと鼻を鳴らしながら益体もない事を考えているベルルシアの隣で、ユランは何故か黙っている。
そうして、ベルルシアがしゃくりあげる回数も少なくなってきた頃、流石に痺れを切らしたような声が掛けられた。
「あんたさ、何がしたかったわけ?」
「…………何が、ですか」
散々泣いた後だったので、拗ねたような返事になった。
ユランは特に気にした様子も無く、「あそこまでやったのに、なんで逃げたのかって事だよ」と言い換えてくれる。
「あいつらの矛先は基本的に俺だし、適当に捌ききれただろ。そしたら全員黙らせられたのに。ここのバカげたルールはもう理解できてるでしょ?」
格上は尊重せよ、格下は自力で躾けよ、とエゼルが言った言葉を思い出す。
「そんなの……無理です。だって、怖かった。あの時、私、怖くて…………動けなかったんです」
兵士達に囲まれた時、ベルルシアは恐怖で完全に固まってしまっていた。
人の剥き出しの悪意に晒されるというのは、それほど衝撃的で、恐ろしい経験だったのだ。
「は? 怖い? 何が?」
「ああいう風に……人と戦うのが。殴られそうになるのもすごく怖いですし、殴るのもいや……」
「……あんなに強いのに?」
ずっとほとんど無関心を示していたユランが、この時ばかりは心底びっくりしているように聞いてくるので、ベルルシアの荒んだ心は少しだけ凪いだ。
「私の体術は、護身術ですよ。身を守るために友人が教えてくれたものです」
それおかげだろうか。誤魔化しや保身といった余計な事を考えるずに、すんなりとその説明はベルルシアの口から出てきた。
言いながら、これは嘘じゃない、とベルルシア本人も素直に思う。
レイネと翠玉騎士団は、ベルルシアが
「……そう」
ユランは物言いたげではあったが、最終的にはただ頷いた。
常の無関心に戻り、ただの相槌の打ったようだった。
ベルルシアはポケットのハンカチで顔を拭うと、やっと顔を上げる。そうして伺い見たユランは、
話をしているうちに日が傾き始めていた。
夕日を映した金眼が、ふいにベルルシアの方を向いて光る。
「だとしても、あんたの異動は取り消しにはならないよ」
ベルルシアが視線を合わせると、少しだけ冷たい声をして、ユランはそう言い捨てた。
それでもまだ何か考えているような様子だったので、ベルルシアは黙って待った。
「……まあ、あんたが事務官として使えるなら、馬鹿げた任務に付き合わされる頻度は減るかもね」
少しして付け加えられた言葉には、皮肉気な響きが混じっている。
(ああ……なるほど)
ぱちりと瞬きをして、ベルルシアはその意図を正確に理解した。
ユランはおそらく、ベルルシアの謹慎については知っているが、その原因となった高熱のことは知らないのだ。
勤務態度の悪さで謹慎となった侍女官という評判は、ベルルシアの仕事の信頼を丸ごと損なった。
ユランは女官としてのベルルシアの実力が分からないから、扱い方を決めかねている。
それなら。
「私は女官で、ここでは事務官です。事務の方の模擬戦も、当然機会を貰えますよね?」
『足掻くことをやめるな』と、レイネの言葉が聞こえる。
気力をどうにか奮い起こし、ベルルシアは挑戦的に微笑んでみせた。
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